優先席の彼女
まただ。また彼女は優先席に座っている。8時3分三重河駅着のバスには優先席の主がいた。
俺が青芽停留所でそのバスに乗るときには必ず彼女が優先席に座っている。短いスカートにクルクルと巻かれた明るい髪、それから、中身が入っているのか疑いたくなる様な薄い学生鞄。彼女は毎朝同じ格好で同じ席に座っている。
平日の朝ということもあり、バスはいつも悲壮感あふれるサラリーマンで一杯だったが、彼女は決して席を譲らなかった。
若いのだから、疲れた親父達に譲ってやれば良いのに。
俺は毎朝そう思っているのだが、恐らく彼女は終点一つ前の三重河高校前まで、ずっと座っているのだろう。恐らくというのは、俺がその停留所の三つ前の停留所で下りてしまうからだった。
俺は彼女の名前も年齢も知らないが、仕事に行く前の苛々した気持ちも手伝って、優先席に憮然と座っている彼女をかすかに敵視していた。こんな事を言うと年寄り臭く感じるので、あまり言いたくないが「全く、今時の若い者は。」と思っていたのだ。しかし、俺は今時の若い者ではないが、この台詞を振りかざして説教をする様な貫禄が出てくる世代でもなく、苛々するだけで特に注意もしないままだった。
俺が彼女を認識して半年が過ぎた頃だろうか。その日は偶々、バスに乗り込んだときに窓際の席が一つだけ空いていた。前日の夜遅くまで自宅で仕事をしていて、へとへとだった俺は真っ先にその席に座った。
助かった、これで停留所まで少し寝られる。そう思って窓に首をもたげると、丁度、優先席が目に入った。
またいる。あの子、本当に毎朝優先席に座っているな。
いつもと変わらず、ジッと優先席に座る彼女にかすかな苛立ちを感じたが、直ぐに強烈な眠気に襲われ、俺はあっという間に眠ってしまった。
ふと気がつくと、バスは俺が下りるはずだった停留所を出発した所だった。
「しまった。寝過ごした。」一瞬、胸のあたりを嫌な感覚がさーっとなぜたが、幸い次のバス停で下りて戻っても会社には間に合う。過ぎてしまったものは仕方がない。次のバス停まで五分ほど揺られよう。そう思って前に目をやると、彼女が優先席の前に立っていた。目の前にはおばあさんが座っている。
流石のあの子もご老人には席を譲るのか。俺は彼女の事を少しだけ見直した。だが、彼女が毎朝疲れたサラリーマン達を立たせている事にはかわりない。今日、ご老人に席を譲ったからといって、彼女が毎朝、高校前の停留所まで優先席を陣取っている罪は消えないのだ。
そんな事を思いながら、なんとなく鋭くした目付きで優先席の方をみると、ご老人と親しげに話す彼女がいた。なんだ、知り合いだから、席を譲っただけか。先程、少しばかり彼女に抱いた好意が急速に萎んでいった。「これだから、最近の若い者は。目上の者に席を譲る所は評価してやっても良いが、知り合いじゃなきゃ、譲らないのかよ。」いつもより明るく見えていた視界が、なんとなく濁ってきたように感じた。
しかし、バスが信号に引っかかった時に俺は自分が間違っていた事に気がついた。
運転手がバスを停車させると、エンジンの音が消え二人の会話が俺の席にも聞こえてきた。
「いつも席をとっといてもらっちゃって、ゴメンなさいね。」
「良いんですよ。他の乗客さん達は疲れてて座ると直ぐ寝ちゃうし、私みたいな若さだけが取り柄の者が座っておかないと。」
「でも、貴女みたいな若い子が座っていると、文句を言われちゃったりするんじゃないの。」
「まぁ、時々居ますけど、そういう人に限って絶対他の人に席を譲らなかったりするんで、あんまり気にならないです。それに、おばあさんとこうやってお話したいし。」
「そういってもらえると、嬉しいわぁ。」そこで信号が青に変わってしまったので、話は聞こえなくなってしまった。しかし、俺は話の間にある事に気がついた。 あの婦人は毎朝、俺と入れ替わりでバスに乗ってきていた。足が悪いのか、時間をかけてバスのステップを上っていたので、俺が会社に向かって歩き出した時にもまだバスに乗り込めて居なかった。恐らく、二人の話から察するに、優先席の彼女はご老人の為にドアから一番近い優先席を確保して待っていたのだろう。そして、ご婦人が乗ってきたら、直ぐに席を譲っているのだ、俺のように椅子で眠ってしまっている大人達の代わりに。
顔が熱くなるのを感じ始めた時、バスが停留所に着いた。慌てて定期を出して、降車する。外気がひんやりと顔を撫でた。
俺はバスが出発した後も、しばらくその後ろ姿を見送っていた。