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妖精が創った人形  作者: 小伏史央
第2章
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二.


 バス停から家へ向けて歩いているときだった。道を下ったところの三叉路で、右側の道を進もうとしていたときだ。

 その少年は、ねずみ色のパーカーを着ていた。両手をポケットに突っ込んで、猫背の格好で歩いている。ちょうど、俺とすれ違うところだった。

 俺は少年の顔を見てしまう。寝ていないのか、隈が目立っている。少年のほうも俺の顔を見ていた。自然、顔を合わせることになる。

 そのまま、互いに覗き合ったまま、俺たちはすれ違う。

 俺は家へ向かう。少年は……俺が歩いてきた道――バス停のほうへ向かった。

 バスに乗るのか。それとも――待ち合わせでもしているのか。

 そのまま俺は、歩き続ける。少年もそうだ。実際、すれ違っただけだ。なにも立ち止まるようなことではない。

 そのまま道を行く。もうすぐ家に着くというところで、ふいに空気が震えた。聞き慣れた、元気のない声が震わせたのだ。

「おや、アキくんじゃないか」

 元気のない声といっても、別に気分が落ち込んでいるわけではない。これは気分の高低によるものではない。スタンダードがこれなのだ。こんな雰囲気を、声の時点で形成する人は、そういない。

「神谷さん」

 振り返りながら、俺はそう言う。

 案の定、視界に入ってきたのは神谷数史先輩だった。先輩は、本人にとっては爽やかそうに笑顔を示す。機嫌はどうやらいいようだ。

 チェック柄の、黒に近い灰色のシャツを着ている。それに似合わせるように眼鏡が光を反射する。

「どうしたんだい? こんなところで。ああ、この辺はアキくんの領地だったかな」

「領地って……」

 俺は苦笑した。この人が言うと、冗談のつもりで言っているのか、本気で言っているのかよく分からない。

 神谷先輩は話し始める。

「『領地』の定義が難しいんだよね。一昔前、原始時代あたりなら、そこに住んでいるだけで『領地』と言い張れただろうよ。でも、今はどうだい? 『領地』を主張するには、紙と判子が必要だ。金も絡んでくる」

 先輩は話を続ける。気分のいいときは饒舌になる、それが先輩の特徴だ。

「仮に、ある場所をAとしておこう。そして、判の押された紙でAを『領地』だと言える人がいたとしよう。その人がどこに住んでいるのかは別として、Aには他の人もたくさん住んでいる。だったら、他の人たちにとって、Aはなんなのか。自分の『領地』だと主張できないのなら、彼らはAをなんと呼べばいいのか……。だから難しいんだよねぇ、『領地』の定義は」

 先輩は話し続ける。

「『領地』は辞書風に言うと『所有し支配する土地』という意味になるんだ。つまり、Aの所有者はAを所有し、さらに支配しないといけないんだ。でないと、Aを『領地』とは呼べない。でも、そんなことが現代社会においてできると思うかい? 福祉だの人権だのうるさい時代に、ひとりの人間が紙と判だけで多数の生活者を支配できると思うかい? 僕は無理だと思うね。アキくんもそう思うだろう? 日本国憲法に従って言えば、『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』んだよ。Aの所有者は、他の人の権利を侵さない限りなら、紙と判でAを所有できる。だけど、支配はできないんだ。福祉に反するからね。だからねアキくん、この近辺は、住んでいるからといってアキくんの『領地』ではないんだよ」

 ふぅ、と先輩は一息つく。

 っていうか、「領地」って言ったのは先輩のほうじゃなかったか。なぜこんな説教臭い話に。

「アキくん。ふと思ったんだけど、『饒舌』の『饒』の字、難しくないか?」

「そうですかね。実際に書いてみたらそうでもないですが」

「ふぅむ」

 今日は本当に機嫌がいいようだ。眼鏡を奇怪に光らせて、先輩は新たな話題を持ち込む。

「『饒』という字にはね、『豊か』、『有り余るほどの多さ』という意味があるんだ。だけど、だったら『饒舌』って『舌が多い』って意味にならないか?」

「いや、さっき先輩言ったじゃないですか。『豊か』って。『豊かな舌』って意味でいいと思いますけど」

「ふむ。『豊かな胸』のような捉え方で合っているのかな」

「……まあ、そういうことです」

 先輩は顎に手を当てて、考え込むように唸った。いや、そんな考えるようなことなのか?

「だが、しかし」

 なにか閃いたのか、先輩が話を続ける。まさか、胸についてでも語るつもりなのか……。

「『豊かな胸』と聞けば、アキくんは真っ先になにをイメージする?」

 先輩が俺にそう訊いた。え、これって答えるべきなのか。

「そう、胸と聞くとおっぱいを思い起こすだろう」

 俺はまだなにも言っていない。

「『豊かな胸』と聞くと、いわゆる『巨乳』を想像するのであって、『豊かな心』をイメージする人は、これっぽっちもいない。全くもって、人間は変態だ」

「……」

 本当に今日は、なにがあったというのだ。なにが先輩を変態たらしめているんだ。

「『豊かな胸』とは、つまり『おおきなおっぱい』という意味なんだ。んじゃあ、それを『豊かな舌』に置き換えたらどうなるかな」

 路上で語る大学生。……俺、ここにいていいのか?

「『豊かな胸』が『豊かな心』という意味ではなく『おおきなおっぱい』という意味に捉えられる。このように『豊かな』という形容動詞に体の部位が組み合わさると、内面的なことではなく、外面的なもの――つまり、目に見える大きさが重要視される。だとしたら『饒舌』すなわち『豊かな舌』も、それと同じように『おおきな舌』と捉えるべきなじゃないかな。『よく喋る』という意味ではなく」

「…………じゃあ、先輩は饒舌なんじゃなくて口忠実(くちまめ)ですね」

「アキくん。これからが楽しいというところなのに、最後まで話を聞きなよ」

 どうにか会話を抑えようとしたが、俺のスキルでは到底無理なようだ。少し気分を害してしまったかとも思ったが、そういうこともなく、先輩の口はまた動き出す。

「それで、今の『饒舌』の話を『領地』のと合わせて考えてみるんだよ。さっき『領地』について話したけど、所有することはできても支配できていないのなら『領地』ではないと言ったね。つまり、定義は全てクリアしていないと認められないわけだ。もし、全部ではなく一部分だけでいいのなら、所有しているだけで『領地』ということになるからね。それじゃあ本来の定義と差異が生じてしまう。それじゃあ、それを『饒舌』に置き換えてみたらどうだろう。どうだい? 矛盾が生じないかい? さっき言ったとおり、『饒』という字には『豊か』の他に、『有り余るほどの多さ』という意味がある。つまり、『饒舌』が『おおきな舌』という意味だけで終わってしまうのなら、それは多さの要素を無視してしまうことになるじゃないか。だから、これに『多さ』も加えないといけない。アキくんなら、どうやって加える?」

「……『よく喋る』ですか」

「そういうわけだよ!」

 教え子が思い通りに成長する様を喜ぶ教師のようだ。先輩は大きく頷く。

「まあ、なんだかんだいっても、『よく喋る』という意味のほうが大きいと思う。でも『おおきい舌』という意味も含まれていることを忘れてはいけないんだ。定義だからね」

「定義は全てに該当していないということですか。定義が複数あると」

 そんなことがあるのか? なんというか、最初からいろいろ間違っている気がする。

「ああそうだね。『定義』の定義からして曖昧になって――いや、これは単なる勉強不足じゃないか。『定義』と『定理』はちゃんとした違いがあるよ。アキくん」

 先輩の話は終わらない。

「『定義』っていうのは、簡単に言えば他のものと区別するためにあるものなんだ。それに対して『定理』は、『定義』によって導き出された、真だと証明された命題のことさ。『定義』はものごとの『意味』で、『定理』はものごとの『性質』なのさ」

「えっと、とりあえず俺の勉強不足です。すいません」

 なぜ俺が謝る。

「前置きが長くなってしまったね」

「えっ!? 今から本題があるんですか!」

「もちろんそうだとも」

 足の力が抜けていくのを感じる。要するに疲れた。それでもなんとか踏ん張って、座り込むことはしないでおいた。ひとしきり変態的な会話を繰り広げた後に、路上に座り込む大学生など、もはや壮観だ。

「アキくん。『科学祭』のチケットは貰ったかい?」

 先輩が、つい先ほど聞いたような言ったような単語を出す。

「あー、月下美人のあの悪戯券ですか」

「悪戯? なんのことか分からないけど、とにかく、アキくんは貰ったのかい?」

「ええ、貰いましたよ」

「なんて書いてあった!」

 なぜか熱血漢のように拳を作る。そしてなぜか嬉々とした表情をしていた。いや不気味だが。

 もしかして、先輩が今上機嫌なのは、これが原因なのか……?

「なにって……開催の大学名とか、電話番号とか」

「他には!? その裏にはなんて書いてあった!」

 ああそういうことか。どうやら、先輩も俺と同じ目に遭ったらしい。それでいて、ンタンさんかそこらの人間に種明かしを聞くこともできずに、今に至るということか。

 というか、数日前のロケット遊びに付き合わされた生徒は、全員被害者になってるんじゃないのか。

「『はずれ』のことですね」

「『はずれ』? ……そうか、なるほど」

「あれ? 先輩のにはなんて書いてあったんですか」

 先輩の反応を窺うに、どうも俺とは違ったことが書いてあったようだ。「領地」や「饒舌」の話とは違って、これには興味がある。なんて書いてあったのだろう……。

「僕は運が良かったようでね……『あたり』って書いてあったんだよ」

「くじ引きかよ!」

「で、これはどこに持っていけば賞品と換えてもらえるんだ?」

 先輩はそう言って、実際に俺にチケットを見せた。確かに『あたり』と書いてある。

「月下美人のところに行けばいいんじゃないですかね。これを作ったのあの人なので、たぶん」

「んじゃあ、一緒に来てくれよ」

 なんと、独りよがりと判断されがちな先輩にしては珍しい発言だ。まるで「トイレ一緒に行こうよ」と言う中学生のようだ。

「どうしたんです?」

「いやあ。春休みの学校って怖いじゃん」

 いやー夜の学校って怖いじゃん、とでも言う中学生……。

「まあ、いいですけど。どうせ暇ですし」

 予定では今頃、隣町の大学に着いているはずだったんだが。

「んじゃ、行こう」

 薄く眼鏡が反射する。

「あ、ところでさっき、アキくんが『口忠実』という単語を使ったけどね。あれは……」

 当然のことだが、大学に着くまでの数分間、先輩の話が止まることはなかった。

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