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妖精が創った人形  作者: 小伏史央
第1章
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二.


 俺は今度こそ廊下を走る。右手にはレポートという紙束を、ついでに左腕には腕時計が巻かれてある。

「先生! 月下美人先生!」

 窓から太陽の光が差している。講義が始まるまであと五分だ。

「探しましたよ、先生」

 俺の前方をのんびりとした歩調で歩いている人、彼女こそ生物学の教授である月下美人である。

「……」

 シャギーの入ったカールボブというスタイルを、俺の入学当時から一度も変えてはいない。その先生は、なぜか俺を無視して歩き続ける。

「先生?」

「はい? え、あら? どちらさんかな」

 後ろからダッシュで追いかけていた俺に、たった今気付いたようだ。考え事でもしていたのだろうか。

「えーっと……アキくんだったかな」

 先生の瞳は、奥の深い、自然的でない黒をしている。それが俺を見つめる。美人に心を掴まれて、少し俺はどぎまぎしてしまう。ニックネームの通り、美人だ。

 まあ、月下美人って、本当はサボテンの名称なのだが。

「アキくん、知ってる?」

「はい、なんでしょう」

「廊下はねー、走っちゃだめなんだよ」

「……すいません」

 不思議だが、月下美人には簡単に謝れる。美鬨からの注意は今日だけでもう二度以上無視しているというのに。まあ、同学と先生という差異はあるが、それだけではないなにかを感じる。

「レポート、出しにきました」

 両手で差し出す。目上の人に渡すときは両手が基本だ。だが、まるでチョコレートを渡す女子中学生のようになってしまった。

 そういえばもうすぐバレンタインだな。

「あ、できたんだ。意外」

「ほんと、無茶振りでしたよ。なんで生物の課題で孔子についてのレポートが出るんですか。古典か歴史でやることでしょ、これ」

「いいじゃない。できたんだから。これで今年度の課題は終わりだね。明日には成績発表だから、アキくんは明後日からは春休みだね。いいねー春休みだねー。おつかれさーん」

 にっこりと先生は笑顔を披露する。ああ美しい。

 これではまるで俺が先生に惚れているようだが、そういうのを考慮に入れなくとも、月下美人は美しいのである。

 大学を卒業したと同時にこの大学の助教授に就き、今年度からは教授として講義を受け持つことになった人だ。俺と六歳しか離れていない。

 先生が俺からレポートを受け取る。いつものように、先生の手は白い革手袋に包まれている。

 先生は俺のレポートを白衣の右ポケットに押し込む。それほど大きいポケットとは言えない。もしかしたら、レポートは窓拭きに使う新聞紙のような状態になってしまったかもしれない。

「アキくん。ひとつだけいいことを教えてあげようか」

「ああ、すいませんが、講義まであと二分しかないので」

「あーそれそれ。アキくんの腕時計、さっき受け取るときに見たんだけど……五分遅れてるよ」

 両の手をポケットにしまいながら、先生は言う。最後に「行動は計画的にね」と付け加えて、もう俺との会話は終わったとばかりに歩みを再開する。

「て、はい?」

 この時計は五分遅れていて、この時計は講義開始の二分前を差していて……つまり、もう講義は始まっている?

 俺は猛ダッシュで月下美人を追い抜き、第一講義室へと向かうのであった。


 翌日、今年度最後の授業を受けに、俺は大学へと来ていた。ここの食事は低価で済むので、何時間か早めの登校だ。

 この大学は、偏狭な田舎に建てられたからだろう、成績発表が早めに行われる代わりに、なぜか試験が終わっても授業がある。まるで怠惰を貪るように。

 食堂。腕時計を確認すると、背の低いほうの針が、ちょうど真上を過ぎたところだった。

 今日もキムチ丼をいただく。

 ここのキムチ丼は世界一だ。炒められたことで深い甘みを宿ったキムチが、ほかほかしたご飯の上に重なる。申し訳程度に湯気が浮き出て、それに便乗したピリ辛の匂いが、俺の食欲をそそる。赤に限りなく近い茶色をした(どんぶり)が、それらを抱擁する。そんな一品が、今日も俺のトレーに運ばれた。

 円テーブルに座る。

 テーブルの中心を、箸の集団が陣取っている。俺はその中から二本だけ誘拐し、さっそく丼へと向かわせた。いただきます。

 箸たちが、ご恩を返す鎌倉の武士のように俺の口へと絶品を渡す。俺はその善意を大いに受け止め、口に広がる美味を堪能する。まさに至福の時間だ。

 そんな時間も、ついには終わってしまう。始まりあれば終わりあり。仕方のないことだ。キムチ丼よありがとう。ごちそうさまでした。

 喉が渇いた。コーラが飲みたい。

 トレーを返却棚に置いて、食堂の自動販売機を見る。なんと、コーラがない。

 仕方ない。食堂は後にして、他の自動販売機をあたろう。コーラが飲みたい気分なのだ。

 建物を出てすぐ右側に、キャンパス内に散見する自動販売機がある。そこにはコーラあるだろうか。

 そこに美鬨がいた。

「あ、おはよう」

 そう美鬨が挨拶をする。もう昼なのだが。ちょうど美鬨は、五百円玉をコイン投入口に入れようとしているところだった。

「おはよう」

 とりあえず返事をしつつ、自動販売機の品揃えを確認する。コーラ発見。

「あ」

 と、ふいに美鬨が声を出した。……うまく入らなかった五百円玉が、美鬨の右手をすり抜け、重力に身を任せていってしまったのだ。無機質な音が短く響き、側面で少し転がったと思うと、それは自動販売機の下へ転がり込んでしまった。

 美鬨が面倒臭そうにしゃがむ。絶望に身を崩したのではなく、単に五百円玉を拾うためだ。

「うーん」

 どうやら手が五百円玉に届かないようだ。苛立たしげに声を漏らしている。

「ちょっとどけよ」

 俺は美鬨を自動販売機の前から移動させた。いや、コーラを買うためではない。おそらくは美鬨よりは長い腕を持つ俺が、五百円玉を拾ってやるのだ。

 先ほど美鬨がいたところで、先ほど美鬨がとったようなポーズで五百円玉を探す。だが、なかなか見つからない。奥のほうにまで転がっていったのだろう。

 代わりに、なにかやわらかいものに触れた。俺はそれを摘み上げる。

 それは布だった。ハンカチなのかもしれない。ナフキンと言ってもいいだろう。とりあえず四角く折りたたまれた布だった。紅色の生地に、白い曲線がいくつも重なった模様をしている。液体に広がる波紋のようだ。

 肩のあたりで切られた黒髪が、冬特有の風に靡く。そんな髪を鬱陶しいとでも思っているのか、それとも俺が拾ったのが五百円玉でないからなのか、美鬨は仏頂面をしている。

「それなに?」

 美鬨が直接的に疑問を口にする。なんとなくイライラした口調だ。五百円玉ひとつで気分を悪くしたりするやつじゃないのだが、なにかあったのだろうか。美鬨が口を尖らせる。

「ハンカチだが……」

「私の五百円玉は?」

「……」

 もう、と美鬨は溜息をこぼす。そして、俺からハンカチを奪い取る。

「うん? お前のなのか?」

 俺がその疑問を口にしたと同時に、ハンカチから円いものが落ちた。それは五百円玉だった。なるほど、五百円玉は自動販売機の下にあったハンカチの中に転がり入ったのだ。

 あれ? それってありえるのか?

 ……まあ、ありえるのだろう。珍しいことだが、ありえないことではないはずだ。現にこうして、起こっているのだから。

 ハンカチから落ちた五百円玉は、滑稽なことにまた自動販売機の下に潜り込んだ。つくづく使われるのが嫌なようだ。

 諦めずに美鬨が手をのばす。今度は手が届いたようだ。

 怨むような目つきで、美鬨は五百円玉を見遣る。すると「あっ」と呟き放った。

「昭和六二年の五百円玉だ……」

 昭和六二年の五百円玉。確か、発行数の最も少ない五百円玉だ。旧五百円玉硬貨は、平均して毎年一億五千万枚ほど発行されていたのだが、六二年には、二千七百枚ほどしか発行されなかった。端的に言えば、美鬨が使おうとしていた五百円玉は、レアなものなのだ。

 だからといって、気付かずに財布に紛れ込んでいるような疵物は、五百円の価値しかないのだが。

 とりあえず珍しいからとっておこう、というふうに美鬨はそれを財布に戻す。しかし他の硬貨を取り出すことなく、美鬨は財布をポケットに納め直してしまった。

 飲み物は買わないのか、と俺はそう疑問を抱いた。が、美鬨は物欲しげに俺を見つめてきた。

 いや、チワワが飼い主に対してするような「見つめる」ではない。蛇が蛙を睨むかのような「見つめる」だ。つまり、そういうことだろう。

「……奢るよ」

 俺はそう言って、厳密には言わされて、ズボンのポケットから財布を取り出す。そこから普通の、平成四年に発行された五百円玉を取り出す。俺はそれを自動販売機のコイン投入口に入れた。五百円玉がそれを拒むことはなく、すんなりと入っていく。

 それを確認するやいなや、美鬨がボタンを押す。ゼロカロリーだと謳っているコーラだった。

「ありがとう」

 そう美鬨は言い、建物の中へと入っていく。

 あ、そういえばハンカチは美鬨が持ったままだ。まあ、そもそも俺のものでもないのだから、なんの問題もないのだが。

 あのハンカチは、結局なんだったのだろ。だとか、そんなことをいちいち気にする男ではない。誰が落としたのかは知らないが、まあ、別にどうでもいいだろう。

 だがふいに、ある疑問が浮かんできてしまった。

 もしかしてこれは、計画だったのではないか。珍しい硬貨を利用して、美鬨が俺に金を払わせる計画だったのでは。……そんなことが頭をよぎる。

 どちらにしても、奢ったことに変わりはないのだがな。

「あ、アキくん。もうすぐ授業始まっちゃうぞ」

 ふいに声をかけられた。声のしたほうを向くまでもなく、声の主は月下美人だった。

 腕時計を見る。おかしい、まだ授業開始まで一時間以上ある。まさかこの時計、一時間も遅れているのか? ――いや。

 時計の針は動いていなかった。

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