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妖精が創った人形  作者: 小伏史央
第5章
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三.


 とりあえずということで、俺たちは大学にやってきた。相変わらず、くぐりぬけるような警備もなく敷地内に入る。

 門付近を掃除する人は、もうここにはいない。この大学で研究に励んでいる生物学教授も、もうここにはいない。

 なんだか、無人になってしまったようだ。

 空っぽの水槽だ。……まだここにいる人はたくさんいるだろうが、俺にはそうとしか思えない。

「やあ、アキくん」

 後ろから、ふいにそう声が振りかかってきた。俺は振り返る。

 神谷数史先輩が、気楽そうに手をあげてこちらに歩いてきていた。

「おや、誰かと思えば。確か家菜さんだったかな」

「あ、はい」

 美鬨が軽く礼をする。

「……今日も大学になんの用なんですか」

 俺は恐る恐る訊いた。春休みに学校来すぎだろうこの人は。

「なにって、月下美人にお礼を言うためさ。しっかりと届いたからね。賞品」

「ああ、そういうことですか」

 チケットの「あたり」で贈られた賞品、小唄がいなくなるその日に、彼女がおもちゃ屋で選んだものだ。

「アキくんは、知っていたのかい?」

 俺の反応がそう見えたのだろう。先輩の質問が、妙に胸を刺す。

「……ええ、サプライズでしたから」

「ふぅむ。嬉しいねぇ」

 嬉しがっても、小唄は帰ってはこない。だがそれ以前に、誰も、小唄がいなくなったことに気付いていない。なにかがを俺の胸をスプーンで掻き混ぜる。

「でも今、月下美人はいませんよ」

 美鬨がそう言った。

「ふーん……む? なんでそんなことが分かるんだい? 君たちも、これから大学内に入っていくところだったじゃないか」

 失敗をやらかした。小唄の消失はじきに分かる。だが俺たちは、その発見以前にまるで知っているようなことになってしまう。

「いや、その……」

「ふぅむ。まあいいや。とりあえず確認に行ってくるよ。君たちも一緒にどうだい? コーラの一本くらいなら奢ってあげるけど」

 俺たちは仕方なく神谷先輩についていくことになった。ここで断って逃げたら、一層怪しまれる。小唄がいないのは本当だが、その理由はうまくはぶらかせばどうにかなるだろう。小唄がいなければ神谷先輩も大学にいる意味をなくし、今日のところは帰っていってくれるはずだ。なんの問題もないはずだ。

 先輩が先頭になって、俺と美鬨は横になって歩く。建物に入る。廊下を歩く。歪んでいない、直線状の廊下。

「ここだね……あれ?」

 小唄の私室に着いた。もう何度もここには訪れたことがある。

「鍵が……」

 また失敗をやらかした。鍵のことを忘れていた。鍵は依然として壊れたままだ。俺がこの前壊したのだ。俺が……この前必死に隠していたことだ。

「アキくん」

 ドアノブを掴んで、それが本当に壊れていることを確認する。そうしながら、神谷先輩は俺を向いて言った。

「この前きみは、必死にドアノブを隠していたねぇ。不思議には思っていたが」

 バレた。

 神谷先輩が俺たちに歩み寄ってくる。先輩はなにも知らない。だから俺たちを疑う。仕方のないことだ。仕方のないこと?

「……なんなんだ。月下美人はなぜこの数日間、大学に一度も来ていないんだ?」

 先輩が問いかける。答えがはっきりしているからこそ、答えるのが難しい。この人はなにも知らない。それが苦しい。俺にとって美鬨にとって。

「答えろよ」

 俺はどうしたらいい。

 神谷先輩の眼鏡が、光を折り曲げる。瞳は窺えない。美鬨の部屋と同じだ。不明瞭で、不透明。歪んで傾いている。それは神谷先輩が、幻想の人間だから。

 美鬨が俺の手をとった。はっとして美鬨の顔を見る。

 美鬨は頷いた。逃げようと。

 そうだ。今は逃げるしかない。遅かれ早かれ鍵の破損は気付かれることだった。発見したのが知り合いだというだけ、幸運ではないのか。

 俺は美鬨の手を握り返した。二人で一緒に、先輩に背を向け――。

「――え?」

 声を発したのは美鬨だった。俺は驚きのあまり、声を出すこともできなかった。時間が止まったような感覚が全身を襲う。それは美鬨も同じようだ。握った手があつくなる。

 俺たちの目の前には――星下端唄がいた。

 ブレザーの三つのボタンは全て外されている。だがだらしないという印象ではない。むしろ着慣れているようだ。スカートは長い。膝が完全に隠れている。

 イヤホンをそれぞれ両手で持っている。

「おい!」

 俺たちの後ろで、神谷先輩がそう怒鳴った。先輩はいつもは、温厚な人だ。そういう人ほど、犯罪ごとが絡むと熱血になる。

 先輩が俺の肩を掴んだ。だが今は、それどころではない。

 俺も美鬨も、動けない。いつだったか、俺がオウギに初めて話しかけられたときと似た感じだ。縫い付けられたように足が動かない。体も動かない。

 眼球がただ、端唄の顔を向くばかりである。

「……おや? きみは?」

 先輩もやっと端唄の存在に気付いたようだ。恐れも知らずに、そう声をかける。

 春休みに入る前、俺は孔子についてのレポートを書かされた。そのとき調べ物で知ったのだが、『論語』に、こんな言葉がある。――「子曰由誨女知之乎知之為知之不知為不知是知也」。今思うと、句読点をつけるべきだったのではないかと思う。俺がペットボトルロケットに誘われたのも、おそらくこの作法がなっていなかったからなのだろう。「ダメダメだった」という小唄の言葉が、今になって染み渡る。

 この孔子の言葉に、今は賛同せざるを得ない。同時に否定せざるを得ない。神谷先輩は、知らないのだ。この言葉は確か、互いに知らないことを教え合おうといった意味だ。まさしく神谷先輩にとっては、俺たちから答えを教えてもらうべき立場にいる。……それと同時に、俺たちは、絶対に神谷先輩にこの答えを教えてはいけない。それはつまり、神谷先輩の存在を否定することに繋がるからだ。

 神谷先輩が俺たちを押しのけて、端唄の前に出た。

「きみは……?」

 先輩が声を空気に馴染ませる。

「月下美――いや、人違い……」

「うふふ。お姉ちゃんはもういないよ」

 端唄の声が廊下を掻っ切る。歪んだ空気が、真っ直ぐにのばされていく。

 両手のイヤホンが、まるで風にのるように自然な動きで、先輩の耳につけられた。先輩はその空気のような動きに対応できずに、ただ戸惑った素振りを見せる。

 整った廊下に、震えた共鳴。

 先輩は糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。もう起き上がることはない。

 足が解放される。

 俺は美鬨の手を強く握った。美鬨は我に返ったように俺を見る。

 走る。

 とにかく走る。

 どこかへ走る。

 歪んだ空気が、俺たちが踏み入るごとに直線になっていく――。存在の否定でもしているのか。この町はまるで――この大学はまるで――体内だ。


 食堂には円テーブルが散らばっている。どれも白い。

 営業はしていないようだ。春休みだから当然といえば当然かもしれない。人が来るとしても教授だけだろうからな。

 ここの空気は、なんとなく安全だった。いつもここにいたからなのかもしれない。ここは俺たちの空気で一杯だ。正方形になったりはしない。歪み傾いた食堂だ。

 今思えば、俺にとってこの食堂は大切な場所だった。

 電灯の光はついていない。営業していないのだから当然か。

 ……食堂に入ることは容易だったというのに――。

 施錠などされていなかった。営業していないなら、扉は締め出して当然のはずだ。

 俺は出入り口を見る。廊下へ続く出入り口だ。

 扉が閉まっていた。俺たちは閉めていない。硝子製の扉だ。

 俺は扉のほうへ走る。食堂に入ったからといって、安心してはいけなかったのだ。扉を押す。びくともしない。鎖で施錠されている。

「閉じ込められちゃったね」

 首筋を沿う声。美鬨ではない。

 眼球だけで振り返る。ふふ、と声がする。背後に誰かいる。

 振り返りざまに思い切り背後の人間を薙ぎ払った。腕が相手の喉を打つ。

 背後にいたのは美鬨だった。

 驚きの声を出すこともできない。頭が掻き混ぜられていく。

 美鬨が呻き声をあげる。俺が打ったから。円テーブルに頭を打ったのか。円い形状が倒れている。円テーブルの上にあった箸の束がばら撒かれる。美鬨も倒れている。

「あーあ。恋人を殴るとか、男としてサイテーだね」

 また背後で声がする。俺はすぐさま振り返る。

 誰もいない。

 硝子の扉が、無機質に嗤っている。

「なぜだ……」

 薄暗い食堂の中。そこにいるのは俺と、俺に殴られて倒れている美鬨だけだった。

「なぜだ!」

 俺は叫ぶ。扉を蹴り上げる。びくともしない。足が痛い。

 ふと気付いて美鬨に走り寄る。血が出ている。額を流れる。

 俺が殴ったのだ。

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