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妖精が創った人形  作者: 小伏史央
第1章
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一.

 大学というところは、それなりに「良いところ」に属しているのだと思う。

 例えば、図書室。図書室というわりにはDVDも並べられ、いうなれば「図書兼ビデオ視聴室」となっている。それでも表面状は「図書室」という名称になっているのは別として。

 小学校などとは、もはや異世界だ。

 それでいて、これまでの人生過程と同じく、社会とは微妙に隔てられている。

 まさに楽園とはこのことだ。

 もちろん、社会に出るための準備機関であることに、小・中・高と変わりはない。それ相応のこともある。だがそういうところもおしなべて、大学は「良いところ」に属しているのではと思う。

 そう俺が思い至ったのにも、一応として、理由というものがある。

 というのも、ここには食堂があるのだ。白い円テーブルが並ぶ、広く清楚な食堂だ。

 ここで、今日の俺はキムチ丼をいただくのである。

 昼食時は少し過ぎていた。

 こうして白い空間で時を過ごしていると、いつものように、一人でそいつはやってくる。

 肩のあたりで大雑把に切られた髪は、まるでトルマリンだとかメラナイトだとかいう宝石のように黒い。それらは一風変わった艶やかさを放つ。気だるそうな目が、それをさらに強く印象付けさせる。背はそれほど高くない。俺の首元あたりに頭のてっぺんがくるほどの背丈だ。全体的に、あまり人を寄せ付けない容姿だ。

 彼女は、「ここ、いいですか?」だとかのようなことなど全く口にせず、俺の向かいに座った。彼女がテーブルに置いたトレーは、ご飯に味噌汁、それにあんパンというよく分からない組み合わせだ。

 そして言うのである。

「キムチ丼って、キムチが主役なのか脇役なのかそれともモブキャラなのか分からないよね」

 言い終えると、彼女――家菜美鬨(いえなみとき)はあんパンを箸で割く。仮面を被っているのかと誤認するほど、彼女の表情は変わらない。気だるそうなままだ。

「ねえ、アキ。ボケがないとツッコミは生まれないとはいうけど、それなら逆の立場も同じじゃないかな」

「……」

「キムチは明らかに主役だろー。あんパン箸で割くなー」

「俺が何も言わないからって自分でツッコミすなぁ!」

 さらに美鬨、ものすごく棒読みである。

 自動販売機の黒いコードが、蜘蛛の巣のように床に張っていた。その不気味な広がりようにしては、この食堂に設置されている蜘蛛はみっつだけである。はたしてそのどこからこんなにも広くコードが延びているのかは疑問だが。

 ともかくそういうことだから、大学というところは「良いところ」に属しているのだ。

「そういえば、アキはレポート出した?」

 唐突に、箸をとめて美鬨は言った。ちなみに、箸の先にはあんが付いている。

「レポート? えっと……あ! 孔子のやつか!」

 そうだ。すっかり忘れていた。一昨日までいろいろ頑張ってなんとか終わらせた字の群れのことだ。終えたことに安心して、提出するのを忘れていたか。

「提出期限いつだっけ」

「今日」

 すまし顔で美鬨は言う。箸の作業はいつの間にか再開していたようで、味噌汁が箸に掻き回されている。

 って、おい! 俺のレポート! 具体的に言うなら俺の成績! 孔子十哲だかなんだかの俺の努力が!

 ちくしょう孔子。これはあんたの怨念か!? 身長高ぇんだよ。

 と、待て。取り乱すでない。落ち着け落ち着け。

 俺のレポートはどこにある――たぶん、俺の家だ。

 提出期限は今日だ――が、まだ今は昼間だ。提出期限は「今日中」なのだから、まだ時間はある。

 だから――すべきことはひとつ。

「俺、一旦家に帰る」

「うん。気ぃ付けて」

 美鬨がご飯を口に運ぶ。箸の先には、まだあんがこびりついていた。

「キムチ丼、頼む」

 そう言い残して俺は、廊下へと続く出入り口へと走る。

「廊下走んなー」

 俺の背中を美鬨が押してくれる。ここ廊下じゃねぇ、食堂様だ。

 駐車場へと走る。

 いや、俺は車を持っていない。そもそも免許もない。だがここも「図書室」にDVDがあるのと同じようなことで、自転車置き場でもあるのだ。

 自転車を進ませる。ハンドルを握る手が冷たい。二月はまだ半分以上残っている。

 大学から家まではおよそ十分。とにかくペダルを漕ぐ。提出期限についてはまだ余裕があるが、次の講義までは余裕がない。それなら講義を終えてから家に向かえばよかったのではと今頃になって思ったが、出発してからではもう遅い。

 ハンドル捌きとペダル漕ぎに意識を集中させているつもりだったが、今朝の先輩のことをふと思い出した。

 この時期になっても職が決まらない最上回生だ。教授たちに留年を勧められている。オタクだとかニートだとかいうのと似た雰囲気が出ているのは、痩せ細っていて黒縁の眼鏡をかけているからなのかもしれない。偏見だが。名前は神谷数史(かみやかずし)というが、それを知る者は少ない。

 あまり怒らない人だが、「今度こそ」と言わんばかりに出した書類が、面接試験に通ることもなく落とされたのは、さすがに辛かったのだろう。今朝は機嫌が悪かった。

「やあ、アキくん。ひとつだけ、愚痴を零してもいいかい?」

 校門で会った先輩は、挨拶なしにそう声をかけてきた。

「愚痴、ですか」

「ああ、知ってるかい? 愚痴っていうのは、自分の不幸を減らすためにあるんだよ。正確に言うと、周りに配って自分の分を軽くするのさ。一人に愚痴れば自分と相手とで一人が持つ不幸は二分の一だ。二人に愚痴れば三分の一。ああ、不幸と言うよりも負担と言うべきだったかな。だから、僕のために不幸を共有してくれないか、と、そう言っているんだよ。アキくん」

 先輩の陰気さを際立たせてでもいるように、眼鏡の縁が光を反射した。そのせいか、先輩の瞳は窺えない。

「はあ、まあいいですけど」

「まず!」

 先輩は間髪入れずに言い放った。

「僕はね、卒業論文なんてとっくの昔に書き終えているのだよ。なのに、職が決まらなかったというだけで、この傑作をなかったことにするなんて……あんまりだとは思わないかい? 酷だとは思わないかい? ねえどうだい、アキくん」

「えっと……でも、卒論出したら卒業なんですよ。現役の大学生のほうが就活は有利だと聞きますし、もう一年だけここにいるというのもありだと思うんですが。先輩、お金ありますし」

 とりあえず本音を口にしておく。真面目な話なのだ。冗談を言う場面ではない。

「……ふむ」

 俺の意見を耳にして、先輩は神妙そうに頷く。眼鏡が奇妙に光る。

 あれ? でもそもそも、もうとっくに卒論の提出期限過ぎてないか? もう一月ほど前に。

「アキくんも、月下美人と同意見なのか」

「なんだ。あの先生も言ってるんなら、そうしたほうがいいですよ」

「うぅむ。だがなぁ、どうも月下美人は苦手でな」

 ペダルを漕ぐ。刺すような風が、容赦なく襲いかかってくる。

 結局、家の中をいくら探してもレポートは見つからなかった。講義の時間が迫っているので、仕方なしにまた大学へと向かう。

 そういえばリュックを忘れた。食堂のテーブルに置いたままだ。

 美鬨は気付いてくれただろうか。

 思っていたよりも早く学校に着いた。

 昼食時はとっくの昔に過ぎていた。白い空間はとても静かだ。

 その静けさに負けたのか、美鬨はテーブルに身を伏せて、どうやら眠っているようだった。

 俺のキムチ丼、どうしたのだろう。そう思いつつも、俺は彼女の向かいに座った。

「レポート見つかった? アキ」

 顔を伏せたまま、美鬨がそう言う。

「起きてたのか」

「ぐー」

「いやいやいや。起きてたことに不満を感じていたとかそういう意味じゃないから」

 まるで背中になにか重たいものを背負っているように、美鬨は気だるそうに身を起こす。

「あ、それで、俺のリュック知らないか」

「大丈夫。心配しなくても、エロ本はちゃんと燃やしておいたから」

「なにぃ!?」

「あ、ホントにあったんだ。やーらーしー」

 彼女は自分の足元に手をのばす。手がテーブルに隠れる。次に彼女の手を見たとき、その手はリュックを掴んでいた。俺のリュックだ。

「お、持っててくれたんだな。ありが――」

「エロ本どこだー」

 俺の言葉には全く耳を貸さず、代わりにリュックのチャックを開ける。そして首を前に傾けて中身を漁っていた。誰がって、家菜美鬨がである。

「いや、ないって!」

「嘘はダメだ。キリッ」

「『キリッ』ってなんだよ。なに自分で効果音発してるんだよ。つーかなんでここまで全部棒読みなんだよ!」

 まあともかく、なにやら嫌な予感がしたので俺は腕時計を見る。ちなみに腕時計は左腕につけている。

「あ、まだ講義まで二十分もあるのか。杞憂だったな。でもレポートはどこだろう」

「あー、はい。それなんですけどー」

 なぜか美鬨は仏頂面をしている。今日も元気だなぁこいつ。

「あ、エロ本発見!」

「なにぃ!? 隠しポケットが見破られたのか!?」

「と思ったら、ただのレポートでした」

 名前のごとくなのかどうかなのかは知らないが、鬨をあげる兵士のように美鬨はレポートを掲げた。相手の首を勝ち取った将軍と言ってもいいかもしれない。

 て……レポート!?

 数枚のコピー用紙に染み込んだ、インクの字が並んでいる。一枚目の表には「孔子」という二文字が、控えめな大きさで用紙の中心を陣取っていた。確かめるまでもなく、それは俺のレポートである。

 少し強引に、美鬨からそれを奪い取る。そして、それがレポートであることはもう明白なのに、何度もまじまじとそれを見つめる。

 強引に取られたからであろう、美鬨は頬を膨らませていた。白い頬が、艶やかな黒髪と馴染んでいく。幼稚園児の黄色い帽子が似合いそうだ。

 もう一度腕時計を確認する。まだ時間はある。

「リュック頼む!」

 俺は、教授にレポートを提出するべく、廊下ならぬ食堂を走るのであった。

「廊下走るなー」

 そういえば、美鬨には俺の他に友達はいないのだろうか。ほぼ毎日ここで顔を合わせているが。

 ……まあ、いないんだろうな。

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