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妖精が創った人形  作者: 小伏史央
第3章
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四.


「気付いたときには、もうぼくに心はなかった。ぼくの体の傍でお母さんとお父さんがすすり泣いていた。『ただいま』って言おうと思ったけど口が動かなかった。そもそも、この体にとって意識は戻っていないようだった。

「ぼくは割と早く、自分が幽霊になったことを理解した。だけどまだ、ぼくは体から抜け出ていないということも分かった。幽霊になったのに体に住み着いたままなんだ。おかしいなとは思ったけど、自分で抜け出ようと思ってもうまくいかないから、仕方なくそのまま体に居座っていた。

「お医者さんが来て、『一命は取りとめました』って両親に言ってた。慰めたつもりなのかもしれない。けど、ぼくにはもう心がないんだ。そう声を張り上げようとしても、お医者さんの耳にはどうしても届かなかった。もちろん両親の耳にも。

「体は固まったみたいに動かなくて、とてもいらいらした。なにかしたくてもなにもできなかった。なにかしたいという気持ちだけが募っていった。それは酷でしかなかった。

「そんなとき……小唄お姉ちゃんがぼくの前に現れた。――驚いた。なぜお姉ちゃんがそこにいるのか、まるで検討がつかなかった。お姉ちゃんはぼくになにか毒づいて、すぐに病室を出ていってしまった。病室を出て行った――まさかお姉ちゃんがそんなことをするとは思ってもいなかった。

「ぼくはふと思った。体は動かない、つまり、ぼくの目は機能していない。だけどぼくはお母さんの顔も、お父さんの腫らした目元もよく見えていた。それはなぜなんだろう。考える時間だけは有り余るくらいあったから、ぼくはそれを長く考えた。

「ぼくはひとつの仮説を立てた。もしかしたら、体が持つ目と、また他の目があるのかもしれない。例えば幽霊の目。ぼくは体から抜け出せてはいないけど、幽霊の目で、幽霊の器官で感覚を受け取っているのかもしれない。

「お母さんもお父さんも、毎日毎日欠かさず病室に訪れていた。お父さん、そんなに来ちゃって、会社は大丈夫なの? お母さん、洗濯はもう済ませたの? 来るたびにぼくはそう訊いた。だけど二人とも、その質問に答えなかった。代わりに涙混じりの笑顔を見せて、『大丈夫、きっと大丈夫』って言うんだ。

「これが親なんだなって分かった。考えてみれば、両親はぼくを見捨てたことなんて一度もなかった。警察に連行されたときは、ちゃんと警察署に来て頭を下げていた。学校にも頭を下げに行っていた。ぼくが髪を赤く染めたときは、お父さんに無理矢理黒く染め直された。風呂場に連れられて……服が台無しになったのを覚えている。ぼくが夜遅くに帰ってきたときも、大抵の場合どちらかが起きて待っていた。そうでないときでもラップに包まれたご飯が机に置いてあった。ご飯はもう他のところで済ませているのに……。ぼくはそれを、毎回のようにゴミ箱に放り込んでいた。それでもご飯は置かれ続けた。お父さんの缶ビールを飲んでいるところを見られたときは、『俺が酒を飲むのが悪いんだな』って、お父さんがお酒をやめちゃったときがあった。あのときは本当に困った。そりゃあ酒なんて他のところで手に入れることはできるけど、家の冷蔵庫が一番安全で、簡単だったんだ。

「だけど朝は静かだった。お父さんもお母さんも、一言も交わさないのが当たり前だった。ただニュース番組だけが、騒がしく喚いているんだった。ぼくが『いってきます』なんて言うわけなく、ぼくよりもお父さんのほうが早く家を出るときも、お父さんも『いってきます』は言わなかった。朝はみんな無言だった。

「お父さんが不良グループに(たか)られたことがあった。財布の中身を抜き取られて、とても苛立たしげだった。その様子を見てぼくは、格好悪い人だなと感想を抱いていた。

「修学旅行に行く日、お姉ちゃんならどうするだろうと想像してみて、ぼくは『行ってきます』って言った。そのときの、不思議な温かさをぼくはまだ覚えている。お父さんの顔が綻んでいた。相変わらずニュースはうるさかったけど。

「――情けなくなってきた。お父さんもお母さんも、夜は交代で泊まりで傍にいてくれる。ぼくはやるせなくなった。心はもうないんだ。もう戻れないんだって。

「昼のことだった。お父さんもお母さんもお医者さんもいないときに、またお姉ちゃんがやってきた。ぼくは『お姉ちゃん、小唄お姉ちゃん』って叫び続けた。お姉ちゃんは『うるさい』って返した。それだけ言って、お姉ちゃんはまたどこかへ行ってしまった。

「その入れ替わりに、知ってる子が現れた。その子は自分のことを『印』って名乗った。やっと名前が聞けた。ぼくは死ぬ前に、その子の名前を訊こうとしていたんだ。だけど、その子は言った。『これは、死んでから貰った名前なんです』って。『生きてるときの名前は、忘れてしまいました』って。

「印が言うには、ぼくたちが心を失ったのは、妖精のせいなんだって。妖精は人間の肉体が持っている心を主食にしているって。ぼくたちは集団で襲われたんだって。

「『それをどうやって知ったの?』って訊いたら、印は『僕は魔法使いになったんです』って答えた。『僕の場合、ちょっと特殊だったんです。心を食べられたのはみんなと同じだけど、僕の心は食べ残されちゃったみたいで。中途半端なことになって……気付けば僕は、魔法使いになっていました』って。よく分かんない。

「『魔法使いになったのは、僕のほかにもう一人いるみたいです。それが誰だかは分からないけど。それと……星下さん、星下さんも、魔法使いではないんですが、ちょっと例外みたいです』

「『……例外?』ぼくは首を傾げようとした。すぐに諦めたけど。

「『今回の事件で、被害に遭った人たちは、〈幽霊〉〈魔法使い〉〈人形〉のどれかになりました。だけど星下さんは……このうちのどれでもない』

「『人形?』ぼくは、聞き慣れない単語を反芻する。

「『〈人形〉っていうのは、今の星下さんみたいな、肉体の心はないのに、霊体が肉体から出られない状態のことです。だけど星下さん……あなたはちょっと違う』

「なんとなく分かる気がした。事故ですぐに死んじゃった人は幽霊に、妖精に心を食べられた人は人形に、完全に心を食べられたわけではない人は魔法使いに。

「『あ、誰かが来る! ごめんなさい星下さん、話の続きはまた後で』と言って、印は急いで病室を出て行った。

「病室に来たのは、お医者さんだった。深刻そうにぼくの体を見つめて、『植物状態か……』って呟いていた。深刻そうな顔は崩さないまま、お医者さんはすぐに病室を出て行く。

「その後、一人だけの時間が続いた。ぼくは印の話を自分なりに考えていた。今回の事故は、とても大きなものだった。妖精が心を食べてしまったから、運転手さんを含む全ての人間が動けなくなってしまった。あの一帯を走っていた車はきっと、ぜんぶカーブに突っ込んでしまって。

「お父さんとお母さんが病室にやってきた。いつもよりも目元の腫れが大きかった。

「それから何日か経った。印はなかなか現れない。ぼくの体は一向に動く兆しがなかった。特別なことがぼくにあるというのなら、きっと体が動いてくれるんじゃないのかなと思ったけど、そういうわけではなさそうだ。

「そう考えていると、お姉ちゃんがやってきた。お姉ちゃんの目は怖かった。人工呼吸器を外された。そんなことしても意味がない。ぼくの体は、ただ生命活動をしているだけで、生きていないのだから。お姉ちゃんはぼくを殺したと思ったようだけど、これはまるで、死体にナイフを突き刺すようなものだった。

「ぼくの体が、死んだ。あまり死んだような感覚はなかった。もうとっくに関係のないものになっていたから、当然といえば当然のことだった。

「そしてなるほど、ぼくは特別な存在になった。ぼくの髪は、ガサガサだったものがサラサラになった。肌はすっごく綺麗になった。胸も大きくなるかなーって期待してみたけど、こればかりはそうはならなかった。別に小さくても悪い状態ではないという証になったから、まあいいんだけど。

「つまり、ぼくの体はとても良好になった。体といっても、それは幽霊のことなのだけど。

「ところでこれは後になって聞いたことなのだけど、幽霊の外見って、肉体が罪を犯せば犯すほど醜くなるんだって。犯罪者が天国ではなくて地獄に行くのはそういうことも関係しているみたい。

「だから普通なら、ぼくの幽霊は、とても醜い姿になるはずだった。でも、ぼくにはその仲立ちがなかったんだって。

「肉体の罪を幽霊に反映させる……その仲立ちがあるんだ。ぼくにはそれがなかった。――それは、幽霊の心だったんだ。人は二重の構造になっている。見える体と見えない体。その両方がそれぞれ心を持っているんだけど……ぼくは両方失ってしまった。

「――お姉ちゃんがぼくから離れてしまったから。

「肉体の心だけでなくて、幽霊の心も失ってしまった。だから罪を伝達するものがなくて、実質、ぼくは罪を全く犯さなかった、純潔の幽霊ということになったんだ。

「『人形』っていうのは肉体の心の部分に幽霊が入ることみたいだけど、ぼくの場合、その幽霊にさえ心がなかった。だからぼくは『人形』にはなれなかった。もちろん『幽霊』としても不完全。なんとも曖昧で、特別な存在になったんだ。

「それからぼくは、自由な体になってこの町に住んでいる」


 星下小唄は、既に立ち上がって星下端唄と対峙していた。

 俺はまた、自分の居心地の悪さを感じざるを得ない。分かったような分からなかったような冗長な説明。小唄が完全に理解できればそれでいいのだろうが、果たして小唄は、この説明で一から十まで理解できたのだろうか。

 そして――印。

 俺の記憶が正しければ、星下小唄のもとへ届いた、ンタン・ヨル宛の手紙。その手紙には確か、「印」とだけ書かれていたはずだ。

 端唄の話によると、印は端唄と同級生の魔法使い――オウギと同種の者であるらしい。

 月はまだ休まない。端唄が事故に遭ったのが何年前なのかはよく分からないが、その頃からもずっと、毎日休むことなく皆勤賞なのだろう。

 星はまだらに散らばっている。月と違って気分屋だ。たまに夜の闇を毛布にしてサボりやがる。

 鼻が慣れてしまったのか……あまり生臭さは感じなくなった。血を見慣れてしまったというのもあるのかもしれない。

 家菜美鬨を救うだかなんだかで、曖昧なまま非現実的な世界に足を踏み入れてしまって、もう一週間以上経つ。春休みだから美鬨が本当に死の淵にいるのかどうか分からない。

 もしこれまでの話が全て嘘っぱちだったとしても、俺はもう後戻りできないのだろう。

 依然として、俺の居場所は狭そうだが。

 風に流れていく静寂。髪を靡かす沈黙。

 小唄が足を前に踏み出した。

 一歩、一歩、端唄に近づいていく。

 静寂を、沈黙を、小唄は崩すことなく近づく。されど大胆に。月光はその強弱を雲に任せているようだが、辺りがしんと暗くなった気がした。

 そして小唄は止まる。まさに目と鼻の先で止まる。

 また沈黙が続く。月は少しずつ、低いところへと移動していった。夜明けが近い。

 小唄は端唄の頬を叩いた。

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