氷の星
音を媒介に増殖する、未知の「知的結晶」――。 その冷徹な恐怖に支配された極寒の監視基地で、孤独な調査員たちが耳にしたのは、破滅へと誘う氷の星の歌声だった。
「氷の星」
その星、通称「シロ」には、音しかなかった。
地球から遥か数光年、地表のすべてが厚い氷床に覆われた極寒の惑星。調査員の僕と先輩の佐藤は、観測基地の密閉されたドームの中で、ひたすら外部の「音」を記録する任務に就いていた。
大気がないため、宇宙空間を伝わって音が届くわけではない。僕たちが聴いているのは、氷の星の「地鳴り」だった。超高感度の地震計と音響センサーが、何百キロメートルもの氷の底から響いてくる振動を捉え、それを可視化・可聴化してスピーカーから流しているのだ。
「今日もまた、同じだな」
佐藤が温かい合成コーヒーをすすりながら、気だるそうに言った。
スピーカーからは、「ゴゴゴ……」という低い地鳴りに混じり、「キィン」という氷が軋む高音が不定期に鳴り響いている。それは地球の流氷が奏でる音に似ていたが、どこか不自然な規則性を持っていた。
「先輩、この音、本当にただの氷の摩擦音でしょうか」
僕は数日分の音響データを重ね合わせた画面を指差した。波形が、まるで何かの儀式で使われる音楽のように、一定の周期で同じ旋律を繰り返しているように見えた。
「よせよ。この極寒の地で、生き物なんか存在できるわけないだろ。ただの物理現象だ。気にするな」
佐藤は笑ったが、その目は笑っていなかった。彼も気づいているはずだ。ここ数日、その「音」が徐々に大きくなり、音階のようなものを帯び始めていることに。
夜(といっても、この星の空は常に薄暗い藍色だが)、異変は起きた。
スピーカーから流れる音が、明確な「歌」へと変わったのだ。
それは、人間の声に酷似していた。ソプラノ歌手のような高い、しかし完全に感情の欠落した声が、氷の底から響いてくる。
『……ル……ラ……リ……』
僕と佐藤は跳び起きた。言葉ではない。しかし、確かに意思を持った何かが発している音だった。
「おい、これを聞け」
佐藤がヘッドホンを僕に押し付けた。
耳を澄ますと、その歌声の背後に、別の音が聞こえた。
――トントン、トントン。
ノックの音だ。それも、僕たちの足元、ドームの床のすぐ下にある氷の中から聞こえてくる。
「何かが、登ってきている……?」
恐怖で背筋が凍りついた。地表の気温はマイナス百八十度。防護服なしでは一瞬で細胞が破壊される世界だ。そこに何がいるというのか。
歌声は次第に激しさを増し、不協和音となってドーム内に響き渡った。スピーカーの音量をゼロにしても、音が消えない。いや、スピーカーから出ているのではない。床の氷から、壁の金属から、ドームそのものが振動して「音」を奏でていた。
「頭が……頭が痛い!」
佐藤が頭を抱えてうずくまった。音は鼓膜を通り抜け、脳髄を直接揺さぶっているようだった。
その時、センサーのモニターが真っ赤に染まった。ドームの真下の氷床に、巨大な「空洞」が急速に形成されつつあることを示していた。何かが中から氷を溶かしながら、あるいは削りながら、こちらへ向かって突き進んでいる。
トントントントントントン!
ノックの速度が異常に速くなる。それはもはやノックではなく、激しい打楽器の連打のようだった。
そして、歌声は人間の悲鳴のような高音へと変貌し、僕たちの精神を削り取っていく。
「開けろ」と、その音が言っているような気がした。
「だめだ、もう耐えられない!」
佐藤が狂ったように叫び、制御パネルへと走り寄った。彼はドームの気圧調整バルブに手をかけた。外の冷気を取り込めば、ドームは一瞬で凍りつき、僕たちも死ぬ。しかし、彼の目は完全に虚ろで、音に操られているのは明白だった。
「先輩、やめてください!」
僕が止めようとした瞬間、ドームの床の中央が、ピキリと音を立ててひび割れた。
万雷の拍手のような、凄まじい「音」がドームを満たした。
ひび割れた氷の隙間から見えたのは、生き物ではなかった。それは、青白く光る、脈動する巨大な「結晶」だった。結晶は、僕たちの叫び声や、心臓の鼓動を吸収するように、さらに激しく、美しく、悍ましい音を奏で始める。
佐藤がバルブを回した。
シューという激しい空気の音が響き、視界が真っ白な霜で覆われていく。
意識が遠のく中、僕の耳に最後に届いたのは、僕自身の心臓が止まる音と、それに完璧に調和して歓喜のメロディを奏でる、氷の星の歌声だった。
【了】




