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『また明日、目玉焼きを焼こう』  作者: 久遠 睦


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再会の食卓――ただいまの温度、愛の残り香

第九章:再会の食卓――ただいまの温度、愛の残り香


1. 最後の夜、静寂の独白

 一月十日、午後十時。

 病室の消灯時間が過ぎ、佳乃よしのは半年間、自分の世界のすべてだった「四〇二号室」のベッドに横たわっていた。

 明日にはここを去る。

 その事実を噛み締めるほどに、不思議なほど涙が溢れて止まらなかった。それは告知の時に流した絶望の涙でも、副作用に悶えた時の苦しみの涙でもない。これまでのすべてを包み込むような、慈愛に満ちた涙だった。

(長かった……。本当に、長かった……)

 佳乃は暗闇の中で、自分の細くなった指を見つめた。

 思えば半年前、何の疑いもなく健康診断を受けたあの日。あの時の自分は、「今日と同じ明日が来る」ことを、空気と同じように当たり前だと思っていた。

 ステージ3の宣告。

 目の前が真っ白になり、音が消えた診察室。

 自分の身体の一部だった髪が、枕元に散らばった朝の、凍りつくような喪失感。

 抗がん剤の点滴が滴るリズムに合わせて、自分という人間が削られていくような感覚。

 何度も、もういい、と思った。

 何度も、楽になりたい、と神様に願った。

 けれど、そのたびに佳乃をこちらの世界に引き戻したのは、他でもない、家族の存在だった。

(和真さん……)

 営業の第一線を退き、慣れない内勤で肩身を狭くしながらも、家事を担い、毎日病室に通ってくれた夫。彼の少しガサガサになった掌の温もりが、どれほど佳乃の冷え切った心を温めてくれただろう。

(美緒、陽太……)

 反抗期もどこかへ消え、母のいない家を守ろうと、背伸びをして不器用な料理を作ってくれた子供たち。彼らが見せてくれたお見舞いの時の「明るすぎる笑顔」が、どれほど佳乃を奮い立たせたことか。

 病気にならなければ、知らずに過ぎていたことがたくさんある。

 和真がこれほどまでに自分を深く、献身的に愛してくれていること。

 子供たちが、親が思う以上にずっと強く、優しく成長していたこと。

 そして、ただ「生きている」だけで、世界はこれほどまでに美しく、輝いているということ。

 佳乃は、まだ完全に肉は戻っていない胸元に手を置いた。

 ドクン、ドクンと、静かに刻まれる鼓動。

「ありがとう……」

 それは、自分の身体へ、家族へ、そしてこの過酷な半年間という時間そのものへ向けた、彼女なりの儀式だった。


2. 和真の贈り物

 翌朝、冷たく澄んだ冬の陽光が病室に差し込んだ。

 佳乃が身の回りの荷物を整理していると、ドアをノックする音が聞こえた。

「佳乃、迎えに来たよ」

 和真が、いつもより少し背筋を伸ばして立っていた。その手には、見慣れない上品な紙袋が握られていた。

「お疲れ様。……これ、退院のお祝いだ」

「えっ、何かしら?」

 佳乃が袋を開けると、そこには、驚くほど自然な質感の、美しいボブカットのウィッグが入っていた。

「……これ……」

「お前、ずっと鏡を見ては寂しそうにしてただろ。……一緒にデパートに行くのは体力がきついかと思って、美緒と相談して選んだんだ。店員さんに、妻に一番似合うやつをって、何度も聞き直してさ」

 和真が少し照れくさそうに頭を掻く。

 佳乃は、そのウィッグをそっと手に取った。

 それは単なる「被り物」ではなかった。和真が、病を得て「女性」としての自信を失いかけていた佳乃に、再び「一人の女性」としての誇りを取り戻してほしいという、祈りに似た愛の形だった。

「被ってみてもいい?」

「ああ、やってみるよ」

 和真が、慣れない手つきで佳乃の頭を整え、ウィッグを被せてくれる。

 鏡を見た佳乃は、目を見開いた。

 そこにいたのは、半年前の、あの頃の自分に近い姿だった。病んだ自分ではなく、和真の妻であり、二人の子の母である、水沢佳乃が戻ってきたようだった。

「……綺麗だよ、佳乃。やっぱり、よく似合う」

 和真のその一言で、佳乃の心に最後の一ピースがはまった。

「……ありがとう。私、これと一緒に、おうちに帰るわ」


3. 境界線を越えて

 病院の自動ドアが開いた瞬間、頬を打つ一月の冷たい風。

 それは、病室の空調管理された空気とは違う、生命力に満ちた、少しだけ厳しい「外の世界」の匂いだった。

「……ああ、冷たい。でも、気持ちいい……」

 和真の運転する車から見える景色は、半年間、止まっていた佳乃の時間を鮮やかに彩っていく。

 近所のスーパーの看板、信号を待つ学生たち、風に揺れる街路樹。

 それらすべてが、映画のワンシーンのように輝いて見えた。

 いよいよ、見慣れた坂道を登り、我が家が見えてきた。

 車が停車し、佳乃は一呼吸置いた。

 この半年間、夢にまで見た風景。

 何度も、心のスクリーンで再生した、玄関のドア。

 和真が荷物を下ろし、佳乃の横に並ぶ。

「さあ、入ろうか」


4. ドアの向こうの「真実」

 鍵が回る、カチャリという小さな音。

 それは佳乃にとって、新しい人生の扉が開く合図だった。

 ゆっくりと、ドアを開ける。

 その瞬間、佳乃を包み込んだのは、懐かしい「我が家の匂い」だった。

 洗剤の香りと、和真の整髪料の残り香。そして、微かに漂う、美緒が練習していたのであろう出汁の匂い。

 それは、病院の消毒液の匂いに支配されていた佳乃の嗅覚を、一瞬にして幸福感で満たした。

「お母さん! おかえり!」

 リビングから、美緒と陽太が駆け寄ってきた。

「……ただいま。ただいま……美緒、陽太」

 佳乃は、二人を抱きしめた。

 半年前よりも少しだけ背が伸び、肩ががっしりとした息子。

 かつてよりも大人びた表情で、目に涙を溜めている娘。

 ふとリビングを見渡すと、そこには、佳乃がいなかった時間の形跡が散らばっていた。

 少しだけ出しっぱなしになっている美緒の参考書。

 隅に置かれた、陽太の泥だらけの野球バッグ。

 いつも佳乃が几帳面に整えていたクッションは、少し形が崩れている。

 けれど、その「少しだけ散らかった」風景こそが、家族が必死に、不器用に、佳乃の帰る場所を守り抜いてきた証拠のように見えた。

 完璧な清潔さよりも、ここに「生きた時間」があること。

 自分がいなくても、家族が手を取り合って、歯を食いしばって日常を繋いできたこと。

 そのすべてが愛おしくて、佳乃は再びその場に泣き崩れた。

「……汚くてごめんね、お母さん。急いで片付けたんだけど」

 美緒が申し訳なさそうに言う。

「いいの。……いいのよ、美緒。これがいいの。これが、私たちの家だもの」

 佳乃は立ち上がり、ふらつく足取りでキッチンへ向かった。

 コンロの前に立ち、フライパンの柄を握ってみる。

 重い。けれど、確かな手応え。

 窓から差し込む午後の光。

 背後で聞こえる、和真と子供たちの笑い声。

 あの日までは、このままずっと続くと思っていた日常。

 一度は、永遠に失われるかと思った日常。

 それが今、以前よりもずっと濃密な温度を持って、佳乃の手の中に戻ってきた。

 彼女は、ウィッグの下でじんわりと汗ばむ頭を感じながら、心の中で自分に、そして家族に告げた。

(本当の幸せは、何もない毎日の中にあったんだ……)

 再会の食卓の準備が、今、始まろうとしていた。

 メニューは、美緒が得意になったという肉じゃが。

 佳乃は、鼻の奥をくすぐる醤油の香りに目を細め、今日という奇跡のような一日を、深く、深く、肺に吸い込んだ


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