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『また明日、目玉焼きを焼こう』  作者: 久遠 睦


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兆しの朝――審判の廊下、結び合う指

第八章:兆しの朝――審判の廊下、結び合う指


1. 最後の「準備」

 十二月二十八日、午前八時。

 佳乃よしのは病室の小さな洗面台の前で、自分の顔をじっと見つめていた。

 半年間の闘病を経て、鏡の中の自分はもはや見知らぬ誰かのようだった。頬はこけ、肌は抗がん剤の影響でくすんでいる。けれど、その瞳の奥には、告知の日の絶望に怯えていた自分にはなかった、鋭く、澄んだ光が宿っていた。

 彼女は、お気に入りだったけれどずっと使えずにいた、少し上質なウールの帽子を被った。そして、薄く、本当に薄く、血色を補うための紅を差した。

(今日は、水沢佳乃として、私の人生の答えを聞きに行くんだから)

 震える指先を、もう片方の手で押さえる。

 期待すればするほど、裏切られた時の衝撃が怖かった。けれど、期待せずにはいられない。昨夜見た家族の動画、あの笑顔を、もう一度現実の景色として見たい。私の帰る場所は、あのリビング以外にないのだから。


2. 結び合う指

 午前九時、和真かずまが病棟にやってきた。

 黒いコートには冬の外気が残っていて、彼が佳乃の肩を抱いた瞬間、冷たい風の匂いがした。

「佳乃、おはよう。……よく眠れたか?」

「ええ……。少しだけ、ね」

 二人は、診察室へと続く長い廊下のベンチに座った。

 周囲には、自分たちと同じように、あるいはもっと深刻な表情で自分の番号を待つ人々がいる。これまではその光景に押しつぶされそうになっていた佳乃だったが、今日は隣に和真がいる。その事実だけで、背筋を伸ばしていられた。

「和真さん」

 佳乃は、膝の上で握りしめていた和真の手を、自分から強く握りしめた。

「……もし、もしも結果が良くなかったら。私、またあなたたちの時間を奪ってしまうことになるわ。それが、一番怖いの」

 和真は、佳乃の言葉を遮るように、彼女の手を包み込んだ。

「奪うなんて、一度も思ったことはないよ。……佳乃、お前がいないこの半年、俺たちは『当たり前』がいかに奇跡だったかを知ったんだ。お前が病気になったことは悲劇だけど、おかげで俺は、自分がどれだけお前を愛しているか、言葉じゃなく心で理解できた」

 和真は一度、言葉を切って、佳乃の目を真っ直ぐに見つめた。

「どんな結果が出たとしても、俺たちの日常は続いていく。お前が病室にいようが、家にいようが、俺たちは家族だ。……だから、謝るな。俺がそばにいる。ずっと、お前の手を離さないから」

 佳乃の目から、不意に一筋の涙がこぼれた。

「……ありがとう。私、あなたと結婚して、本当によかった」

「何言ってるんだ、今更。……さあ、行こう。俺たちの未来を聞きに」

 不意に、診察室の扉の上の掲示板に、佳乃の番号が表示された。

 電子音が、冷たく、けれど確かな合図として響く。

 二人は立ち上がり、一度だけ深く見つめ合うと、その扉を押し開けた。


3. モニターの光、運命の言葉

 診察室の中は、朝の陽光が差し込み、不思議と明るかった。

 主治医のデスクには、二枚の画像が並んでいた。一つは、三ヶ月前の『停滞』と告げられた時の画像。もう一つは、数日前に撮ったばかりの、最新の画像。

 佳乃は、息をするのを忘れたかのように、モニターを見つめた。

 素人の目にも、明らかに違っていた。

 三ヶ月前、不気味に居座っていた黒い影。それが、最新の画像では、雪が溶けるように薄れ、跡形もなくなっていたのだ。

 医師が、ゆっくりとこちらを向いた。その表情には、これまで見せたことのない、柔らかな笑みが浮かんでいた。

「……水沢さん、和真さん。お待たせしました。素晴らしい結果です」

 医師の指が、影の消えた箇所をなぞる。

「PET-CTの結果、活性のある腫瘍は、どこにも認められません。……『寛解かんかい』です。おめでとうございます」

 寛解。

 その二文字が、佳乃の耳に届いた瞬間、彼女の全身から力が抜けた。

 これまで彼女を繋ぎ止めていた、鋼のような緊張の糸が、一気に解き放たれる。

「……消えたの? ほんとに、全部……?」

「ええ。半年間の過酷な治療に、あなたの身体が、そして心が、見事に応えてくれました」

 和真が、隣で大きく息を吐き、佳乃の肩を抱き寄せた。彼の身体が、激しく震えているのが伝わってきた。

「よかった……。本当によかった……佳乃……」

 和真の声は、嗚咽となって途切れた。常に冷静に、佳乃の前で「強い夫」であり続けた彼が、初めて子供のように声を上げて泣いていた。


4. 命の再点火

 佳乃は、自分の胸に手を当てた。

 ドクン、ドクンと、力強く鼓動が刻まれている。

 それは、ただ生きながらえている音ではなく、未来へと向かって走り出そうとする、力強い命の再始動の音だった。

(私……帰れる。あの家に、帰れるんだ)

 脳裏に、あの動画の中の風景が浮かぶ。

 美緒の少し味の濃い肉じゃが。陽太の泥だらけのユニフォーム。和真と二人で歩く、何でもない近所の散歩道。

 それらすべてが、白黒の夢ではなく、色彩を持った「現実」として、再び佳乃の手に戻ってきたのだ。

 絶望の底で、自分の形さえ失いかけていた日々。

 鏡の中の別人を見て泣いた夜。

 神様に、どうか命だけはとすがった真夜中。

 それらすべての苦しみは、今、この瞬間のためにあったのだと思えた。

「先生……ありがとうございました」

 佳乃は、深く、深く頭を下げた。

 医師の手に感謝し、和真の愛に感謝し、自分の身体を支えてくれた見えないすべての力に、心の中で感謝を捧げた。


5. 新しい空の下で

 診察室を出た時、病院の吹き抜けから見える空は、驚くほど真っ青だった。

 一週間前の、審判を待っていた時の冷たい空とは違う。希望という名の風が吹き抜けているような、温かな空。

「佳乃、美緒と陽太に電話しよう。あいつら、今頃家で気が気じゃないはずだ」

「ええ……そうね。私から言いたい。……『帰るわよ』って」

 和真が取り出したスマートフォンを、佳乃は震える手で受け取った。

 番号を打つ。

 つながるまでの数秒間、彼女は自分の内側に、新しい命が力強く根を張ったのを感じていた。

 ステージ3という、死を意識せざるを得なかった断絶。

 けれど、その断絶の先にあったのは、以前よりもずっと太く、深い、家族との絆という名の道だった。

 彼女は、もう二度と「当たり前」を当たり前だとは思わないだろう。

 明日が来ることの奇跡を、彼女は世界で一番よく知る人間になったのだから。

「……あ、美緒? お母さんよ。……うん、うん……。消えたわよ。……お母さん、帰るからね。みんなのところに、帰るからね」

 電話の向こうから聞こえる子供たちの泣き笑いの声を聞きながら、佳乃は和真の腕の中で、冬の光をいっぱいに浴びていた。

 

 兆しの朝は終わり、今、輝かしい「生」の正午が始まろうとしていた。


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