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『また明日、目玉焼きを焼こう』  作者: 久遠 睦


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神への祈り――深淵の淵で、名を呼ぶ声

第六章:神への祈り――深淵の淵で、名を呼ぶ声


1. 最後の関門

 十二月の半ば。病室の窓に結露が白く張り付く季節、佳乃よしのはついに、最終クールとなる六回目の抗がん剤投与の日を迎えていた。

 半年。言葉にすれば短いが、佳乃にとっては数十年にも匹敵する、あまりに長く険しい旅路だった。

 点滴スタンドがいつものように音もなく運ばれてくる。

(これで最後。これが終われば、私はあの家に帰れる……。みんなと笑える……)

 そう自分に言い聞かせるが、身体は正直だった。累計された薬剤の影響で、佳乃の骨髄機能は極限まで低下している。白血球の数値は、健康な人の数分の一にまで落ち込み、彼女の身体は、言わば「盾をすべて失った城」のような無防備な状態にあった。

「水沢さん、今日が正念場です。少しでも寒気がしたり、熱っぽかったらすぐに教えてくださいね」

 看護師の言葉に、佳乃は微かに頷いた。声を出そうとしたが、口腔内のひどい炎症(口内炎)の痛みがそれを阻む。水さえも、喉を通るたびに刃物で切り裂かれるような苦痛を伴う。

 投与開始から数時間。薬剤が血管を伝い、全身を巡り始める。

 佳乃は、暗い海に沈んでいくような感覚の中で、ただ家族の名前を数え続けていた。


2. 深淵の熱

 異変は、最終クールの投与が終わったその日の夜、唐突に訪れた。

 身体の芯から震えが止まらない。凄まじい悪寒が、佳乃を襲った。

(寒い……。和真さん、寒いよ……。美緒、陽太、誰か……)

 ナースコールを押す指さえも、思うように動かない。ようやく辿り着いた看護師が、佳乃の額に触れた瞬間、その顔色を変えた。

「三十九度五分……。すぐに先生を!」

 好中球減少症に伴う感染症。免疫力がゼロに等しい今の佳乃にとって、風邪のウイルス一つさえもが致命的な凶器となる。

 視界が激しく揺れ、景色が歪む。天井の蛍光灯が、爆発するような光の塊に見える。

 佳乃は、隔離のための個室へと移された。

 そこからの三日間、彼女の意識は現実と夢の境界線を浮遊し続けた。

 高熱に浮かされながら、佳乃は何度も「夢」を見た。

夢の中で、彼女はキッチンの前に立っている。

日差しが溢れる中、美緒が真っ白なウエディングドレスを着て微笑んでいる。

その隣では、スーツを不器用に着こなした陽太が、少し背を伸ばして美緒をエスコートしている。

「お母さん、おめでとう」

二人の声が聞こえる。

その後ろで、和真が泣き出しそうな顔で笑いながら、佳乃に手を差し伸べている。

佳乃は、その手を握ろうと必死に腕を伸ばす。

けれど、あと数センチというところで、身体が泥の中に沈んでいく。

(行かなきゃ。あの子たちの未来に行かなきゃ。……ここで、一人で終わるわけにはいかないの……!)

 現実の世界では、氷嚢で冷やされ、抗生物質の点滴が次々と打たれていく。佳乃の意識は、時折戻っては、また深い闇へと消えていく。

 彼女の魂は、文字通り深淵の淵を彷徨っていた。


3. 三人の祈り

 佳乃が危篤に近い状態にあると知らされた和真は、子供たちを連れて夜の病院へ駆けつけた。

 しかし、感染症のリスクがあるため、個室の中に入ることは許されない。

 ガラス越しに見える佳乃は、酸素マスクを装着し、何十本もの管に繋がれ、まるで別の生き物のように痩せ細っていた。

「……お母さん」

 陽太が、絞り出すような声を漏らした。

 美緒は、ガラスに額を押し当て、声にならない叫びを飲み込んでいた。

 和真は、そんな子供たちの肩を強く抱きしめ、心の中で、これまで一度も信じたことのない「神」という存在に、文字通り土下座をする思いで叫んでいた。

(神様。俺はどうなってもいい。キャリアも、命も、全部差し出す。だから、佳乃を返してくれ。あいつがいなきゃ、この家はただの箱なんだ……)

 面会時間が終わり、重い足取りで病院を後にした三人。

 帰り道、和真は無意識に、地元の古い神社へと車を走らせた。

 真夜中の境内。街灯の光さえ届かない暗闇の中で、三人は賽銭箱の前に立った。

「……何、お願いすればいいの?」

 美緒が、震える声で聞いた。

「『お母さんを助けてください』。それだけでいい。他に何もいらないだろ」

 和真の言葉に、二人は力強く頷いた。

 ガラン、と大きな音がして、鈴が鳴る。

 美緒は目を強く閉じ、これまで自分が母に言った数々の酷い言葉を悔いた。

(お母さん、ごめんね。お弁当、まずいなんて言って。本当は、お母さんが作ってくれるものなら何でもよかったのに。……戻ってきて。一緒に買い物に行きたいよ……)

 陽太は、自分にできる唯一のことを誓った。

(神様。俺、もっと野球頑張るから。母さんの前でホームラン打つから。だから、母さんを死なせないで……)

 三つの頭が、深く、長く下げられる。

 冷たい冬の夜気が、彼らの頬を打つ。

 その時、和真には、どこか遠くで佳乃が「ありがとう」と微笑んだような気がした。


4. 兆し

 五日目の朝。

 佳乃の熱は、奇跡のように平熱へと下がった。

 目を開けた佳乃の視界に、真っ白な天井と、窓から差し込む優しい冬の光が入ってきた。

 喉の痛みはまだ残っているが、身体を支配していた「死の気配」は、霧が晴れるように消えていた。

「水沢さん。……頑張りましたね」

 検温に来た看護師の目が、潤んでいるのがわかった。

「峠は、越えましたよ」

 佳乃は、かすかに指を動かした。

 自分の感覚が戻ってくる。自分の命が、再び自分の内側に宿ったことを実感する。

 彼女は思い出した。

 朦朧とする意識の中で、ずっと自分を呼ぶ声が聞こえていたことを。

 「佳乃、帰ってこい」「お母さん、待ってるよ」

 その声の主たちが、自分を暗い淵から引き上げてくれたのだということを。

「和真……さん」

 酸素マスクを外し、ようやく発した第一声は、掠れていたが、はっきりと意志を持っていた。

 それは、絶望を越え、家族への愛を再確認した「生還の証」だった。


5. 静寂の審判へ

 感染症を克服し、体力が少しずつ戻り始めた年末。

 いよいよ、半年にわたるすべての治療の集大成となる、PET-CT検査が行われることになった。

 この検査の結果で、がんが消えたか(寛解)、それとも残っているか(地獄の継続)が決まる。

 佳乃は、静まり返った病室で、自分の身体と向き合っていた。

 髪はない。肉も落ちた。肌はボロボロだ。

 けれど、今の彼女の心は、入院前よりもずっと強く、澄み渡っていた。

(どんな結果が出ても、私はもう、独りじゃない)

 検査室に向かうストレッチャーの上で、佳乃は天井を見つめた。

 無機質な照明の光が、今は命を照らす灯火のように見える。

 祈りは、もう済ませた。

 あとは、運命の扉を開けるだけだ。

 和真と子供たちが待つ、あの温かな「日常」へと続く扉を。


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