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『また明日、目玉焼きを焼こう』  作者: 久遠 睦


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見えない出口――停滞する刻(とき)と、擦り切れる心

第五章:見えない出口――停滞するときと、擦り切れる心


1. 蓄積する毒

 十一月の終わり。病室の窓の外では、銀杏の葉がアスファルトを黄色く染め上げ、冬の足音が確実に近づいていた。

 佳乃よしのにとって、四回目の抗がん剤投与は、これまでの三回とは明らかに違う重さを持っていた。

(体が、もう薬を受け付けなくなっている……)

 点滴の針が刺さる瞬間、反射的に吐き気が込み上げるようになった。薬剤の袋を見るだけで、喉の奥に鉄のような味が広がる。それは身体が本能的に叫んでいる拒絶反応だった。

 副作用は、回を重ねるごとに「蓄積」されていく。一回目、二回目は、数日耐えれば霧が晴れるように楽になる瞬間があった。しかし今は、倦怠感の霧が晴れる前に次の投薬がやってくる。

 鏡を見る必要すらなかった。

 自分の腕は、枯れ枝のように細くなり、肌は艶を失って、まるで古い紙のような質感に変わっていた。四十五歳の若々しさは、どこにも残っていない。

 体重は入院前から八キロ減った。食事を摂ろうとしても、味覚障害が激しく、何を食べても砂を噛んでいるような感覚しか残らない。

「水沢さん、少しでもいいから高カロリーのゼリーを摂りましょうね」

 看護師の優しい励ましさえ、今の佳乃には重圧だった。

 頑張っている。これ以上ないほど頑張っている。なのに、体は裏切るように動かなくなっていく。

 夜、一人でトイレに立つことさえ、壁を伝わらなければならない。昨日までできていたことが、今日できなくなる。その「喪失」の積み重ねが、佳乃の心を静かに、確実に削り取っていった。


2. 「期待」という名の刃

 その日の午後、中間評価のための画像検査(CT)の結果が出る予定だった。

 佳乃は朝から、祈るような思いで過ごしていた。これだけ苦しい思いをして、薬を体に入れているのだ。きっと、がんは小さくなっているはずだ。半分……いや、もっと消えてくれているかもしれない。

 和真かずまが仕事を早めに切り上げて駆けつけた。内勤に異動してから、彼は一度も欠かさず重要な説明の場に立ち会ってくれている。

「佳乃、大丈夫だ。これだけ頑張ったんだから、結果は出てるさ」

 和真の声は優しかったが、佳乃は彼の目の下に深く刻まれたクマを見逃さなかった。営業から不慣れな内勤への異動、家事と育児の両立。彼もまた、限界の淵で戦っている。

 診察室。医師は、前回の画像と今回の画像を並べて表示した。

 佳乃は、息を止めて画面を見つめた。

「……水沢さん、お疲れ様です。結果ですが。結論から言うと、腫瘍の縮小は『停滞』しています」

 医師の言葉が、冷たい水のように背筋を流れた。

「停滞……ですか?」

 和真が身を乗り出す。

「はい。一回目から二回目にかけては順調に縮小していましたが、今回の画像を見る限り、残存している影の大きさにほとんど変化がありません。リンパ節のいくつかには、まだ活性があるようです」

 頭の中が、真っ白になった。

 あんなに苦しんだのに。髪も抜け、味もわからなくなり、這うようにして生き延びてきたこの数ヶ月は何だったのか。

「……先生、薬が効いていないということですか?」

 佳乃の声は、自分でも驚くほど冷たく、鋭かった。

「いえ、効いていないわけではありません。ただ、勢いが止まっている。がん細胞が抵抗している状態です。ここが正念場です。プロトコル通り、あと二回、しっかり完遂しましょう」

 診察室を出た後の廊下で、佳乃は足がもつれ、和真の腕の中に崩れ落ちた。

「……どうして」

 震える声が、無機質な廊下に響く。

「どうして、あんなに頑張ったのに、変わらないの……。もう嫌。もう、こんなの耐えられない……」

「佳乃、落ち着け。先生も言っただろう、止まってるだけで、効いてないわけじゃないって」

「和真さんにはわからないわよ!」

 佳乃は、自分でも制御できない感情を和真にぶつけてしまった。

「私の体なのよ! 毎日毒を入れて、吐いて、痩せて……それでも『頑張れ』って言われるのがどれほど残酷か、わかる? 出口が見えないの。走っても走っても、ゴールが遠ざかっていくみたいで……」

 和真は何も言わず、ただ佳乃を抱きしめた。

 病院の廊下。行き交う人々が、好奇や同情の視線を向けてくる。けれど今の佳乃には、そんなことを気にする余裕さえ残っていなかった。


3. 家庭に差す影

 佳乃の精神的な不安定さは、家を守る三人にも伝播していった。

 数日後、自宅。

 美緒みお陽太ひなたは、夕食の食卓で沈黙していた。和真が買ってきた惣菜のパックが、味気なく並んでいる。

「……ねえ、お母さんの検査、あんまり良くなかったんでしょ?」

 美緒が、箸を止めて聞いた。

「良くなかったわけじゃない。ただ、時間がかかるだけだ」

 和真は努めて明るく答えようとしたが、その声には疲労の色が隠しきれない。

「でも、お父さん、最近ずっとため息ついてるじゃん。お母さんに会う時も、作り笑いしてるのバレバレだよ」

 陽太が、苛立ったように言い放つ。

「陽太、お父さんだって一生懸命やってるんだから!」

「わかってるよ! でも、いつまでこれが続くんだよ! 家の中は暗いし、飯は不味いし、母さんは会うたびに泣いてるし!」

 陽太が立ち上がり、椅子が倒れる音が響いた。

 中学生の彼にとって、大好きな母が壊れていく姿を見続けることは、あまりにも重すぎる試練だった。彼は自分の部屋に駆け込み、扉を激しく閉めた。

 残された和真と美緒の間に、いたたまれない沈黙が流れる。

 和真は、顔を両手で覆った。

「……ごめんな、美緒。お父さんが、頼りないから」

「……違うよ。お父さんは悪くない。お母さんも悪くない。……病気が、全部悪いんだよ」

 美緒の声もまた、泣き出しそうに震えていた。

 家族の絆という鎖が、限界まで引き絞られ、今にも断ち切られようとしていた。


4. 孤独な夜の対話

 病室の佳乃は、家族のそんな異変を知る由もなかった。

 けれど、見舞いに来る彼らの「無理をした笑顔」に、言いようのない罪悪感を抱いていた。

(私が病気になったせいで、あの三人の人生が歪んでいく。和真さんのキャリアも、子供たちの青春も、私が奪っているんだ……)

 深夜。隣のベッドの患者のうめき声を聞きながら、佳乃は自分の細い手首を見つめていた。

 かつて、この手で子供たちを抱き、和真のために料理を作った。その日常は、もう二度と戻ってこないのではないか。

「停滞」という言葉が、呪いのように頭の中を回る。

 もし、次の検査でも変わっていなかったら。

 もし、薬が完全に効かなくなったら。

 私は、あの家に帰る前に、ここで消えてしまうのだろうか。

 その時、不意にスマートフォンが震えた。

 和真からのメッセージだった。

『佳乃、寝てるかな。さっきは、何も言えなくてごめん。

さっき、陽太と話したよ。あいつ、自分の部屋で母さんの写真を抱えて泣いてた。「早く母さんのハンバーグが食べたい」って。

美緒も、冬休みの間に料理を特訓するんだって張り切ってる。

俺たち、不器用だけど、お前がいないとやっぱりダメなんだ。

停滞しててもいい。少しずつでもいい。お前が生きていてくれるだけで、俺たちには価値があるんだ。

明日、また行くよ。お前の好きな、あの店のプリンを見つけて買っていくからな。』

 画面の光が、佳乃の涙で滲んだ。

 自分の苦しみにばかり目を向け、周りの愛を見失っていた。

 彼らもまた、戦っていたのだ。不慣れな家事と、学校生活と、そして「母を失うかもしれない」という、自分以上の恐怖と。

(私……何て勝手だったんだろう)

 佳乃は、震える指で返信を打った。

『ありがとう。待ってるわ。和真さん。』


5. 泥の中の決意

 翌朝、佳乃は看護師に頼んで、車椅子を出してもらった。

 屋上庭園へ向かう。冷たい冬の風が、帽子で隠した頭を突き抜けていく。その痛いくらいの寒さが、かえって彼女の意識を鮮明にした。

 空はどこまでも青く、高い。

 世界は、自分の苦しみとは無関係に、美しく回っている。

(止まっていてもいい。後戻りさえしなければ)

 佳乃は、深く息を吸い込んだ。

 抗がん剤の副作用、痩せていく体、そして先が見えない不安。それらは消えることはない。けれど、それを引き受けて歩く覚悟が、ようやく彼女の中に芽生えていた。

 家族が、私のために「日常」という砦を守ってくれている。

 ならば、私は「命」という砦を、何があっても明け渡してはいけない。

「頑張るよ……」

 誰にともなく、佳乃は呟いた。

 それは、自分自身への最後通牒であり、家族への誓いだった。

 停滞という泥濘ぬかるみの中でも、彼女は再び、一歩を踏み出すための力を、愛という源泉から汲み上げようとしていた。

 治療はあと二クール。

 その先に何が待っているのか、まだ誰も知らない。

 けれど佳乃は、自分の細い指で、和真から届いたばかりのメッセージの画面を、強く、強く握りしめていた。


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