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『また明日、目玉焼きを焼こう』  作者: 久遠 睦


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鏡の中の別人――奪われるもの、奪えないもの

第四章:鏡の中の別人――奪われるもの、奪えないもの


1. 最初の「一房」

 その日は、驚くほど静かにやってきた。

 二回目の抗がん剤投与を終え、一時退院を数日後に控えた朝のことだ。

 佳乃よしのはいつものように、病室の硬い枕から頭を持ち上げた。首筋に、妙な違和感があった。湿り気を帯びた、細い糸のような感触。

 ふと枕元に目を落とした瞬間、佳乃は息を止めた。

 真っ白なシーツの上に、黒い「塊」が散らばっていた。

(……あ……)

 声にならなかった。震える指先で、自分の髪に触れてみる。力を入れたわけではない。ただ、そっと撫でるように触れただけなのに、指の間には、驚くほど簡単に、数え切れないほどの髪の毛が絡みついてきた。

(嫌……。嫌よ、まだ……)

 看護師からは言われていた。「二週間ほど経つと、抜けてきますよ」と。覚悟はしていたはずだった。心のどこかで準備は整えたつもりだった。けれど、実際に自分の体の一部が、命を失った植物のようにハラハラと零れ落ちていく光景を前にして、佳乃の心は真っ白に凍りついた。

 彼女は、狂ったように何度も髪を手で梳いた。梳けば梳くほど、髪は抜ける。

 排水溝が詰まる。ブラシが黒く染まる。

 それは、自分という人間が、バラバラに崩れていく音のように聞こえた。


2. 鏡の向こうの境界線

 病室の洗面台。佳乃は、長い間その前に立つことができなかった。

 三週間前までは、美容院で「少し若々しく見えるように」とオーダーし、白髪を染め、丁寧にブローしていた。四十五歳の自分を、それなりに愛そうとしていた。

 意を決して、佳乃は鏡を見た。

 そこにいたのは、かつての「水沢佳乃」ではなかった。

 抗がん剤の副作用で土気色になった肌。隈の浮き出た目元。そして、まばらに剥げ落ち、無残な姿になった頭部。

(誰……これ。……私なの?)

 佳乃は、鏡の中の自分を拒絶するように目を閉じた。

 内臓を病んでいることは、外からは見えない。けれど、髪を失うことは、自分が「病人」であることを世界に、そして自分自身に、嫌というほど突きつける。

 女性としての誇りが、粉々に砕けて足元に散らばっているような気がした。

(和真さんに、見せたくない……。子供たちに、こんな姿……。怖い。自分が自分じゃなくなっていくのが、こんなに怖いの?)

 佳乃は病室のベッドに戻り、頭から布団を被った。

 外は美しい夕暮れ。窓の外を飛ぶ鳥。笑いながら廊下を通る看護師たち。

 すべてが自分を置き去りにして進んでいく。

 ステージ3という病魔は、私の命だけでなく、「私らしさ」までをも食いつぶしていく。

 絶望という言葉では足りない。それは、自分の存在そのものが、薄墨で消されていくような深い虚無だった。


3. 週末の訪問

 土曜日。和真と、美緒、陽太が揃ってお見舞いに来る日だ。

 佳乃は、あらかじめ用意していたケア帽子を深く被った。眉毛やまつ毛まで薄くなり始めた顔を隠すように、少しだけ色の付いたリップを塗る。

「お母さん、入るよ!」

 陽太の明るい声とともに、ドアが開いた。

 和真が手に持っているのは、佳乃が好きな季節の花と、美緒が作ったというお弁当だった。

「ほら、お母さん。美緒がね、卵焼き頑張ったんだよ。出汁が多すぎて、最初はベチャベチャになっちゃってさ」

 和真が笑いながら報告する。

「ちょっとお父さん、余計なこと言わないでよ!……お母さん、味はどうかわかんないけど、食べてみて」

 佳乃は、精一杯の笑顔を作った。

「ありがとう。嬉しいわ……」

 箸を伸ばし、美緒の作った卵焼きを口にする。

 抗がん剤の影響で、味覚はおかしくなっていた。何を食べても砂を噛んでいるような、金属を舐めているような味がする。

 けれど、その卵焼きからは、美緒がキッチンで格闘した熱気や、自分のために何かをしようとしてくれた思いが、喉の奥に熱く伝わってきた。

「……美味しい。すごく、美味しいわ」

 嘘ではない。魂が、その味を「美味しい」と叫んでいた。

 不意に、陽太が佳乃の帽子を見つめた。

「母さん、その帽子……似合ってるね。なんか、おしゃれじゃん」

 中学生の息子なりの、精一杯の気遣い。佳乃は胸が締め付けられた。

「そう? ちょっと気分転換に被ってみたの」

「ああ、可愛いよ、佳乃」

 和真がそっと、佳乃の背中に手を添える。

 佳乃は知っていた。彼らが、佳乃の帽子の下に何があるのかを察していることを。そして、それを「いつも通り」として受け入れようと、必死に自分たちの感情を押し殺していることを。

 家族の明るさが、どれほど無理な力で支えられているか。

 それが見えるからこそ、佳乃はまた、一人になった時に泣きたくなるのだ。


4. 髪を切る日

 ある夜、佳乃は和真に電話をかけた。

「和真さん……お願いがあるの」

「なんだい? 何でも言ってくれ」

「次の面会の日……バリカンを持ってきてくれない? ……自分でやるのは、ちょっと勇気がなくて」

 電話の向こうで、和真が息を呑むのがわかった。

「……わかった。俺がやるよ。綺麗にするからな」

 数日後、病院の許可を得て、人目のつかない処置室を借りた。

 椅子に座る佳乃。鏡は見ないようにした。

 背後に立つ和真の気配。バリカンの、低い振動音が部屋に響く。

 一束、また一束と、残っていた髪が床に落ちていく。

 佳乃は膝の上で、自分の手をぎゅっと握りしめていた。

「佳乃」

 和真が、耳元で囁く。

「髪がなくなっても、お前はお前だよ。俺の愛する、たった一人の妻だ。……何も変わらない。綺麗だよ、今も」

 その言葉を聞いた瞬間、佳乃の目から熱いものが溢れ出した。

 女として終わってしまったのではないかという恐怖。

 醜い姿を愛想尽かされるのではないかという不安。

 それらすべてを、和真の不器用で、真っ直ぐな言葉が溶かしていく。

「……ありがとう……和真さん」

 髪を失ったことで、佳乃は皮肉にも、目に見えないものの重さを知った。

 美しさとは、豊かな髪や若々しい肌にあるのではない。

 自分を想い、自分を必要としてくれる誰かの眼差しの中にこそ、自分の価値はあるのだ。


5. 決意の再出発

 病室に戻った佳乃は、もう鏡を避けることはなかった。

 帽子を脱ぎ、ツルツルになった自分の頭を優しく撫でる。

 それは、過酷な闘いに挑んでいる自分の「勲章」のように思えた。

(髪は、また生えてくる。先生もそう言った。……でも、今のこの苦しみや、家族の優しさを忘れたくない。私は、絶対に治して、家に帰る。和真さんと白髪になるまで寄り添って、美緒と買い物に行って、陽太の結婚式を見るんだ……)

 絶望感は、完全には消え去ってはいない。

 毎晩、副作用に悶え、骨の奥が疼くような痛みの中で「もう楽になりたい」と思うこともある。

 けれど、そのたびに家族の顔を思い浮かべる。

 和真の力強い手。美緒の不器用な料理。陽太の優しい気遣い。

 この絆がある限り、私は折れない。

 ステージ3という巨大な壁を、私は家族という鎖を握りしめて、一段ずつ登っていく。

「負けないわよ……」

 佳乃は暗い病室で、一人小さく呟いた。

 それは、神への祈りでもあり、自分自身への誓いでもあった。

 半年という長いトンネル。その入り口に立ったばかりの彼女の瞳には、かつての日常にはなかった、鋭く力強い「生の光」が宿り始めていた。


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