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『また明日、目玉焼きを焼こう』  作者: 久遠 睦


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それぞれの戦場、静かなる誓い

第三章:それぞれの戦場、静かなる誓い


1. 牙城を降りる決断

 月曜日の朝。いつも通りの時刻に家を出た和真かずまが向かったのは、顧客の元ではなく、自社の重役会議室の扉の前だった。

 彼はこの十五年間、トップセールスとしてこの会社を支えてきた自負がある。営業職は彼の天職だった。人と会い、信頼を築き、数字を積み上げる。その報酬で家族を養い、佳乃よしのに苦労をかけないことが、彼の男としての矜持だった。

「……内勤への異動、ですか?」

 部長の驚きに満ちた声が、静かな部屋に響く。

「水沢、君はうちのエースだ。今、君に抜けられるとプロジェクトへの影響は計り知れない。事情は分かったが、介護休暇や時短勤務では無理なのか?」

 和真は真っ直ぐに上司を見つめた。

「申し訳ありません。妻の病気は、片手間で支えられるものではありません。抗がん剤治療は過酷です。子供たちもまだ学生で、家を守る人間がいなくなります。私が営業の第一線にいては、緊急時に駆けつけることも、日々の食事を作ることもままなりません」

 和真にとって、これは単なる「職種の変更」ではなかった。これまで築き上げてきたキャリアの、いわば「一時停止」あるいは「後退」を受け入れる儀式だった。

 しかし、昨夜、佳乃が眠れずに真っ暗なリビングで一人震えていた背中を思い出すと、迷いは消えた。

「給与の減額も、昇進の遅れも覚悟しています。ただ、妻を独りにしたくないんです。お願いします」

 深々と頭を下げる和真の背中には、一家の主としての、そして一人の男としての、悲痛なまでの決意が宿っていた。会社側も、彼のこれまでの貢献を考慮し、特別に後方支援部門への異動を承諾した。

 デスクを片付け、長年愛用した営業車を返却する時、和真は一度だけハンドルを強く握りしめた。

(佳乃、俺の戦場は今日から変わる。お前を、絶対に死なせないための場所へ)


2. 欠けた椅子のある食卓

 佳乃が入院した初日の夜。水沢家のキッチンは、かつてない混乱に陥っていた。

「ねえ陽太ひなた、洗濯機の洗剤ってこれ? 柔軟剤はいつ入れるの?」

「知るかよ。いつも母さんがやってたじゃん」

 高校生の美緒みおは、佳乃が書き残してくれた『家事ノート』を片手に、眉間にシワを寄せていた。中学生の陽太は、いつもなら佳乃が綺麗に畳んで置いておいたはずの体操服が見当たらず、イライラしながらクローゼットをかき回している。

 だが、二人は決して「疲れた」とか「面倒くさい」とは口にしなかった。

「……私がご飯作るよ。陽太は風呂掃除と、洗濯物干して。お父さんが帰ってくるまでに終わらせるよ」

 美緒の声には、長女としての、そして佳乃の娘としての責任感が滲んでいた。

 かつて佳乃が立っていた場所に立ち、慣れない手つきで包丁を握る。玉ねぎを刻むだけで、涙が止まらなくなった。それは玉ねぎのせいだけではないことを、美緒は知っていた。

 三人の食卓。一つだけ空いた椅子。

 和真が帰宅し、美緒が作った少し味の濃い肉じゃがを口にする。

「……美味しいよ。ありがとうな、美緒」

 和真のその言葉に、家の中の空気がわずかに緩む。

「明日から、お父さんは定時で帰れるようになる。家事の分担、もう一度しっかり決めよう。お母さんが、いつ帰ってきてもいいようにな。家の中がぐちゃぐちゃだったら、あいつ、怒るだろ?」

 和真の精一杯の冗談に、陽太が小さく笑った。

「そうだね。母さん、掃除うるさいし」

 三人は、それぞれが自分にできることを、必死に探していた。母がいない穴を埋めるのではなく、母が安心して戻ってこられる場所を守るために。


3. 無機質な四角い空

 同じ頃、病院の四階。佳乃は四人部屋の、窓際のベッドにいた。

 白いカーテンで仕切られた、わずか三畳ほどの空間。それが、今日からの彼女の世界のすべてだった。

 入院着のパジャマは、自分の体の一部ではないような違和感がある。

 隣のベッドからは、老齢の女性の規則正しい寝息と、時折混じる苦しそうな咳が聞こえる。

 佳乃は、サイドテーブルに置いた家族の写真をなぞった。

(今頃、みんなご飯食べてるかな。お味噌汁、出汁の素の場所、美緒はわかったかしら。和真さん、無理して笑ってないかな……)

 病室の窓からは、街の灯りが見える。

 あの中の一つに、自分の家がある。一週間前までは、自分もあちら側にいたのだ。あちら側とこちら側を隔てる壁は、あまりにも高く、厚い。

「水沢さん、明日から治療を始めますね」

 看護師の優しい声さえ、死刑執行の宣告のように聞こえてしまう。

 ステージ3。悪性リンパ腫。

 その言葉を思い出すたび、佳乃の喉の奥は、鉄を舐めているような苦い味に満たされた。


4. 抗がん剤の洗礼

 翌朝、十時。

 点滴スタンドが、音もなく運ばれてきた。

 色とりどりの薬剤の袋が、まるで毒々しい果実のように吊り下げられている。

「これから入れるのは、R-CHOPアールチョップ療法という、標準的な薬の組み合わせです。少し時間がかかりますから、リラックスしてくださいね」

 腕に針が刺さる。

 透明なチューブを伝って、冷たい液体が佳乃の血管へと侵入してくる。

(これが、私の体の中の『がん』を殺してくれる……。でも、私の大切な細胞も、一緒に傷つけてしまうんだ……)

 一時間、二時間。

 滴る液体のリズムに合わせて、佳乃の意識は朦朧としてきた。

 最初は、腕の血管が熱くなるような感覚。次第に、胃のあたりに鉛を詰め込まれたような重苦しさが広がる。

 想像を、遥かに超えていた。

 午後になると、副作用の第一波が佳乃を襲った。

 激しい吐き気。

 胃の中のものをすべて出しても、込み上げてくる不快感は止まらない。

 トイレに駆け込む力もなく、備え付けの容器を抱えて震える。

(苦しい……助けて、和真さん……)

 心の中で夫の名を呼ぶが、声にはならない。

 体の芯が痺れ、頭の中を攪拌機でかき回されているような眩暈が続く。

 さらに、抗がん剤特有の、強烈な倦怠感。指一本動かすことが、巨大な岩を持ち上げるような重労働に感じられる。

 夜になり、和真が見舞いに来た時、佳乃は真っ青な顔でベッドに沈んでいた。

「……佳乃」

 和真の声が聞こえる。目を開けたいけれど、瞼が重い。

「……ごめん、ね。顔、見せられなくて……」

 ようやく絞り出した声に、和真は力強く、しかし壊れ物を扱うように佳乃の手を握った。

「いいんだ。喋らなくていい。ただ、ここにいるから」

 和真の手の温もりが、冷え切った佳乃の心に、細い光を投げかける。

 副作用に悶えながら、佳乃は泣いた。

 この苦しみが、あと半年も続くのか。

 自分は、耐えられるのだろうか。

 女性としての自分、母親としての自分、妻としての自分。

 それらが、毒のような薬によって、一枚、また一枚と剥がされていく。

(でも、負けない。和真さんが仕事を調整してまで、支えてくれてる。子供たちが、慣れない家事を頑張ってる。……私だけが、ここで諦めるわけにいかない)

 絶望の暗雲の中で、佳乃は歯を食いしばった。

 副作用の苦しみが引くまでの数日間、彼女は何度も何度も、家族と囲む、温かい湯気の立つ食卓を思い浮かべていた。

 それが、彼女にとっての唯一の、そして最強の『薬』だった。


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