無機質な宣告、有色の愛
第二章:無機質な宣告、有色の愛
「一週間後」という期限は、まるで首にかけられた見えない鎖のようだった。
佳乃は、日常という仮面を被りながら、その鎖が少しずつ締まっていくような息苦しさを感じていた。スーパーのレジで「ありがとうございました」と微笑むたび、心の一枚裏側では『私はあと何度、この言葉を言えるのだろうか』という黒い問いが頭をもたげる。
その日は、朝から雨が降っていた。
再検査の結果を聞きに行く日。佳乃は一人で病院へ向かうつもりだった。しかし、前日に病院からかかってきた一本の電話が、彼女の防波堤を粉々に砕いた。
『水沢佳乃さんのお宅でしょうか。明日の検査結果の件ですが……できれば、ご主人様と一緒にご来院いただけますか?』
事務的な、あまりにも事務的な声。
その一言が、何を意味するか。四十五年という歳月を生きてきた佳乃には、痛いほどわかった。ドラマや小説の中の出来事だと思っていた台詞が、自分の耳に突き刺さる。
電話を切った後、佳乃はしばらく受話器を握ったまま、キッチンの床にへたり込んだ。指先が冷たくなり、奥歯がガタガタと震えた。
「……嘘。嘘よ。まだ、決まったわけじゃない」
その夜。仕事から帰った和真は、いつものように「ああ、疲れた」とネクタイを緩めた。その見慣れた光景が、今はひどく遠い世界の出来事のように思える。
「和真さん……」
夕食の後、子供たちがそれぞれの部屋へ引き上げたのを見計らって、佳乃は切り出した。
「話があるの。……隠していたことがあって」
佳乃は震える手で、バッグの底に隠していた再検査の通知と、今日届いた電話の内容をすべて打ち明けた。
和真の顔から、みるみるうちに色が失われていくのがわかった。彼は黙って通知を読み、それから佳乃の震える手を、両手で包み込んだ。
「……ごめんなさい。心配かけたくなくて、一人で済ませようと思ってたの」
「馬鹿だな、佳乃」
和真の声は低く、わずかに掠れていた。
「夫婦だろ。俺を誰だと思ってるんだ。……大丈夫だ。まだ『悪い結果』が出たわけじゃない。先生は念のために俺を呼んだだけだ。明日、一緒に行こう。な?」
その夜、佳乃は一睡もできなかった。隣で眠る和真の温もり。壁一枚隔てた向こうにいる子供たちの気配。それらすべてが、明日には指の間からこぼれ落ちてしまうのではないかという恐怖に、明け方まで震え続けた。
翌日、総合病院の診察室前。
隣に座る和真は、佳乃の手をずっと握っていた。彼の掌は少し汗ばんでいて、それがかえって、彼もまた必死に恐怖と戦っていることを伝えてきた。
「水沢さん、中へどうぞ」
看護師に呼ばれ、重い扉を開ける。
診察室の中は、驚くほど無機質だった。
白い壁。金属製の椅子。デスクトップパソコンの青白い光。
医師は、佳乃たちが座るのを待って、一度短く息を吸い込んだ。その僅かな沈黙が、死刑執行前の静寂のように感じられた。
「検査結果が出ました」
医師の指がキーボードを叩き、モニターにいくつかの画像が映し出される。素人目にもわかる、いくつかの影。
「悪性リンパ腫です。詳しく調べた結果、病期はステージ3。……リンパ節以外にも広がっています」
その瞬間、佳乃の中で何かが『パチン』と弾けて消えた。
視界から色が失われ、白黒の世界になる。
医師の口が動いている。何パーセント、プロトコル、副作用、生存率……。言葉は耳に届いているはずなのに、脳がそれを受け入れることを拒否していた。
(悪性……? 私が? ステージ3って、もう手遅れなの? 私がいなくなったら、美緒のお弁当は誰が作るの? 陽太の泥だらけのユニフォームは? 和真さんは……和真さんはどうなるの?)
心の中の声が、悲鳴となって渦巻く。
医師の言葉が遠のき、水中深く沈んでいくような感覚。佳乃は自分の意識が、肉体を離れて診察室の天井から、自分たちを見下ろしているような錯覚に陥った。そこに座っているのは、もう自分ではない誰かのような気がした。
診察室を出た後のことは、断片的にしか覚えていない。
会計を済ませ、駐車場へ向かう。
外はいつの間にか雨が上がり、眩しいほどの陽光が差し込んでいた。その明るさが、今の自分には耐え難い暴力のように思えた。
帰りの車中。ハンドルを握る和真が、静かに言った。
「佳乃」
名前を呼ばれ、彼女はようやく現実の世界へと引き戻された。
「……大丈夫だ。先生も言っただろう、治る可能性があるって。今は医学が進んでるんだ。ちゃんと治療したら、また元通りになれる」
和真は一度、言葉を切って、前を向いたまま続けた。
「……みんなで頑張ろう。俺が、全力でお前を支えるから。独りで戦わせない。絶対にだ」
和真の横顔に、佳乃は初めて見るような決意の光を見た。彼はいつも穏やかで、一歩引いているような男だった。その彼が、今は家族を繋ぎ止めるための、唯一の錨になろうとしている。
帰宅後。リビングには、部活から帰った陽太と、勉強中の美緒がいた。
逃げ出したかった。けれど、この子たちに隠し通すことはできない。
佳乃は、和真と一緒に子供たちを食卓に座らせた。
「あのね……」
佳乃の声は、今にも消えそうだった。
和真が代わって、事実を伝えた。お母さんが病気であること。来週から入院して、強い薬を使って治療すること。
話し終えた後の沈黙が、永遠のように長く感じられた。
美緒は、握りしめた拳を震わせ、じっとテーブルの一点を見つめていた。陽太は、信じられないというように佳乃の顔を見た後、ゆっくりと視線を落とした。
二人とも、叫んだり、問い詰めたりはしなかった。
ただ、大粒の涙が、ぽたぽたとテーブルにこぼれ落ちた。その音さえ聞こえるような、悲痛な沈黙。
「ごめんね……ごめんね、こんなことになって」
佳乃が泣きながら謝ると、美緒が顔を上げ、掠れた声で言った。
「……謝らないでよ。お母さんは、何も悪くないじゃん。私……家事、やるから。陽太も、自分のことは自分でするよね?」
陽太が、何度も何度も頷く。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。
「うん。俺、掃除も洗濯も覚える。母さんは、治すことだけ考えてよ」
子供たちの、不器用で、真っ直ぐな愛。
絶望の底にいた佳乃の心に、小さな灯がともった瞬間だった。
翌週からの入院が決まり、生活は一変した。
「家のことは、俺がやる。美緒と陽太も手伝ってくれる。佳乃、お前はただ、俺たちの元に帰ってくることだけを考えてくれればいいんだ」
入院前夜。
佳乃は、しばらく離れることになる家を掃除した。
キッチンの油汚れを拭き取り、冷蔵庫の中身を整理し、家族へのメモを書き残す。
(私は、この家に帰ってきたい。このキッチンで、また目玉焼きを焼きたい。美緒の卒業式も、陽太の試合も、全部見届けたい)
絶望は、まだそこにある。
抗がん剤という未知の治療への恐怖。失われていく髪。変わっていく自分の姿。
けれど、それを上回る「生きたい」という意志が、家族の愛によって形作られていった。
私は、独りじゃない。
私が守ってきた家族が、今度は私を守ろうとしてくれている。
翌朝。佳乃は、短い髪を整え、家族に見送られて病院の門をくぐった。
長い、半年間にわたる孤独と愛の闘いが、ここから始まる。




