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『また明日、目玉焼きを焼こう』  作者: 久遠 睦


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綻びの予兆

第一章:綻びの予兆

 朝六時十五分。

 カーテンの隙間から差し込む光は、磨き上げられたフローリングの上に細長い道を作っていた。

 水沢佳乃みずさわ よしのは、その光の道を横切ってキッチンへと向かう。まだ冷ややかな空気の中で、最初に行うのはお湯を沸かすことだ。ガスの青い炎を見つめていると、止まっていた一日がゆっくりと動き出す感覚がある。

 佳乃は四十五歳。週に四日、近所のスーパーでレジや品出しのパートをしている。

 夫の和真とは結婚して二十年近くになる。大きな情熱に身を焦がすような時期はとうに過ぎたが、今ではお互いの呼吸だけで、その日の機嫌や体調がわかる。

 高校生の娘・美緒は、近頃少しだけ反抗期めいた尖った口の利き方をするようになったが、それでも夜、佳乃が洗濯物を畳んでいると、ふらりと隣に来て学校での出来事をぽつりぽつりと話し始める素直さを持っていた。中学生の息子・陽太は、野球部の練習に明け暮れ、泥だらけのユニフォームを毎日リビングに放り出すが、食卓では佳乃の作る唐揚げを世界で一番旨そうに食べる。

 特別な贅沢はいらない。

 お徳用の洗剤を安く買えたこと。

 家族が残さずご飯を食べてくれること。

 和真と並んでテレビを見ながら、たわいもない冗談で笑い合うこと。

 そんな、砂粒のような小さな幸せを拾い集めて形作る日々が、佳乃にとってはかけがえのない宝物だった。この穏やかな水面のような生活が、永遠に、あるいは少なくとも子供たちが巣立つまでは続くと、彼女は信じて疑わなかった。

 十月の半ば。空が一段と高く、透き通るような青を見せた日のことだった。

 パート先の提携病院で、定期健康診断が行われた。

 毎年恒例の行事だ。視力の低下に苦笑いし、少しだけ増えた体重に「明日から間食を控えよう」と心に誓う。そんな程度のものであるはずだった。

「佳乃さん、今年はどうされますか? オプションの検診」

 受付の看護師に声をかけられ、佳乃はふと足を止めた。四十五歳。同僚のパート仲間との会話でも、近頃は更年期の悩みや、親の介護の話が増えていた。

「そうね……。念のため、がん検診も追加しておこうかしら」

 それは、ごく軽い、お守りを買うような気持ちだった。自分には関係のないことだと思いながらも、主婦として、母として、健康を維持することは一種の責任だという自負があった。

 検診自体は、何事もなく終わった。

 バリウムの不快感や、採血の瞬間の小さな痛み。そんな日常の一部として、検診の記憶は佳乃の頭の中から数日で消えていった。

 綻びは、二週間後に届いた一通の封筒から始まった。

 買い物から戻り、夕食の買い出しが入った重いエコバッグを玄関に置いたときだ。ポストから溢れんばかりのチラシに混じって、その白い封筒はあった。

 病院の紋章が入った、厚みのある封筒。

 佳乃は、キッチンのカウンターに立ち、指先で封を切った。何気なく取り出した結果通知の紙。その一番上の項目に、赤く太い文字で刻まれていた言葉。

『要再検査』

 一瞬、文字の意味が理解できなかった。

 視界が歪んだ。

 心臓が、耳元で激しく鐘を打ち鳴らすような音を立てる。

「……え?」

 佳乃は紙を何度も見返した。間違いではないか。名前を確認する。水沢佳乃。生年月日。すべてが自分のものだ。

『血液検査およびリンパ節の状態について、精密検査が必要です。速やかに総合病院を受診してください』

 無機質な活字が、冷酷な宣告となって佳乃に襲いかかる。

 その日の夕食の準備は、まるで幽体離脱をしているような感覚だった。

 玉ねぎを刻む包丁の音が、やけに遠く聞こえる。

 自分が今、何を作ろうとしているのか。レシピさえ頭からこぼれ落ちそうになる。

「お母さん、今日のご飯なに?」

 陽太が部活から帰ってきて、リビングに明るい声を響かせる。

「……ハンバーグよ。あなたの好きなやつ」

 振り向いて微笑む佳乃の顔は、果たしていつもの母親の顔をしていただろうか。頬が強張り、唇がわずかに震える。幸い、陽太は空腹を満たすことしか頭にないようで、彼女の異変には気づかなかった。

 夜、和真が帰宅した。

「ただいま。ああ、いい匂いだ。今日はハンバーグか」

 和真の穏やかな笑顔。それは、佳乃が一番守りたいものだった。

 営業職で外を回り、人間関係に揉まれながらも、家では決して仕事の愚痴を言わない。そんな夫に、確証もない不安をぶつけていいのだろうか。

「……和真さん、おかえりなさい」

 喉まで出かかった言葉を、佳乃は飲み込んだ。

 ――ただの再検査よ。数値が少し外れていただけ。きっと、何かの間違い。

 自分にそう言い聞かせることが、彼女に残された唯一の防衛本能だった。和真に心配をかけたくない。家族のこの温かい空気を、自分の勝手な怯えで壊したくない。

 佳乃は、封筒をクローゼットの奥、自分だけのバッグの底に隠した。

 翌日から、佳乃の心には黒い霧が立ち込めた。

 パート先でレジを打っていても、お客様との会話が頭を素通りしていく。

「五百二十円のお返しです」

 口は動いているが、脳裏にはあの『要再検査』の赤い文字が焼き付いて離れない。

 ふとした瞬間に、自分の体を探る。首の付け根、脇の下。何か違和感はないか。少しだけ膨らんでいるような気がして、青ざめる。いや、気のせいだ。昨日までは気にならなかったじゃないか。

 検索エンジンの検索窓に「リンパ節 腫れ」「再検査 血液検査」と打ち込みそうになっては、スマートフォンを置く。正しい知識が欲しいわけではない。ただ、「大丈夫だ」という確証が欲しいだけだった。

 一人で病院へ行く決意をしたのは、それから三日後のことだ。

 和真には「友達とランチに行く」と嘘をついた。二十年の結婚生活で、こんなに重い嘘をつくのは初めてだった。

 総合病院の待合室は、深い沈黙と、低い囁き声に満ちていた。

 電光掲示板に表示される番号。

 佳乃は、膝の上で組んだ自分の手をじっと見つめていた。指先のささくれ。家事で荒れた皮膚。それは、自分が懸命に生きてきた証のはずなのに、今はひどく脆く、頼りないものに思えた。

 自分の番号が呼ばれたとき、佳乃は心臓が口から飛び出しそうなほどの動悸を感じた。

 診察室のドアを叩く。

「失礼します……」

 座っていたのは、冷静沈着そうな中年の医師だった。

「水沢さんですね。検診の結果を拝見しました。いくつか追加の検査をします。今日は採血と画像診断を行います」

 淡々と進むプロセス。

 横たわったベッドの冷たさ。

 ゼリーを塗られた超音波検査のプローブが、自分の体の上を滑る感覚。

 モニターを見つめる技師の表情を、佳乃は必死に読み取ろうとした。しかし、彼らは鉄の仮面を被ったように何も語らない。

「検査結果が出るまで、一週間ほどかかります」

 医師の言葉に、佳乃は呆然と頷いた。

 一週間。その時間が、今の佳乃にとっては永遠のようにも感じられた。

 病院を出ると、外は秋の夕暮れに染まっていた。

 オレンジ色の光が街を包み、仕事帰りの人々が家路を急いでいる。

 誰もが、自分の明日が今日と同じようにやってくると信じている顔をしていた。

 佳乃も、ほんの一週間前まではその一人だったのだ。

 家に戻ると、美緒がリビングでテスト勉強をしていた。

「あ、お母さん。ランチどうだった?」

「ええ……美味しかったわよ。おしゃれなカフェでね」

 佳乃は、自分の声が上ずっていないか細心の注意を払った。

「いいなあ。今度私も連れてってよ」

「ええ、もちろん。試験が終わったらね」

 その約束が、果たせるのだろうか。

 ふいに、鼻の奥がツンとした。

 美緒の背中を見つめながら、佳乃はキッチンに立つ。

 ――大丈夫。きっと、ただの疲れよ。精密検査の結果、「異常なし」って言われて、笑い話にするの。

 和真に内緒で病院に来たことを、「あなた、私ったらこんなに心配性なのよ」って、夕食の時に打ち明けるんだ。

 しかし、佳乃の心に宿った一滴の不安は、静かに、確実に、彼女の精神を侵食していった。

 夜、隣で眠る和真の規則正しい寝息を聞きながら、佳乃は暗闇の中で目を開けていた。

 もしも。

 もしも、悪い結果だったら。

 この温かい布団。

 明日も続くはずのパート。

 子供たちの成長。

 それらすべてが、自分から奪われてしまうのだろうか。

 佳乃は、布団の中で自分の体を抱きしめた。

 これまで当たり前だと思っていたことが、どれほど細い糸で繋がっていたのかを、彼女は初めて知った。

 暗闇の中で、一筋の涙が耳に流れ落ちた。

 彼女は祈った。神様がいるのなら、どうかこの平穏な日々を奪わないでください。私の何を引き換えにしてもいいから、家族の笑顔を、このまま守らせてください。

 あの日までは、このままずっと続くと思っていた。

 小さな綻びに気づくまでは。

 一週間後、再び病院を訪れるその日が、佳乃の人生を決定的に変える「運命の日」になることを、彼女はまだ、心のどこかで否定し続けていた。


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