16.もう逃げない ①
カイトの意識は、停電から復旧した照明のように突如として覚醒した。
ぼやけた視界。混濁した思考。喉の渇きが小さな咳を誘い出す。
古ぼけた梁と天井。布団と呼ぶにはあまりにも頼りない布きれ。背中から伝わるベッドの硬さに少しばかりの圧迫感を覚えた。
「生きてる」
思いの外しっかりとした声が出た。今度こそ間違いなく死んだと思ったが、どうやら死神にひどく嫌われているらしい。
「ここは……」
カイトは視線を彷徨わせる。
広々とした部屋には何十ものベッドが等間隔で並んでおり、負傷した男達でいっぱいだった。包帯でぐるぐる巻きにされた者。呻き声を漏らす者。ぼうっと天井を眺めている者。怪我の話題で談笑している者。年齢も、負傷の度合いも様々だ。
「気がついたか」
枕元で声。
目を向けると、浅黒い肌をした長身の青年が太い腕を組んでカイトを見下ろしていた。
「調子はどうだ。体の痛みや違和感は?」
尋ねられて、カイトは自分の身体に意識を向ける。
多少の倦怠感はあるが、別段気になるところはない。指先はちゃんと動くし、握力もしっかりある。視覚や聴覚はむしろ好調だった。
体を起こしてみる。背中に多少の痛みを感じたのは、硬いベッドで寝ていたせいだ。白い貫頭衣に包まれた五体は、傷もなくきれいな状態である。
「傷痕もなく元通りとは。信じられん」
カイトの様子を鋭い目つきで観察した青年は、まったく信じられなくなさそうに呟いた。
「えっと……」
あなたは誰で、ここはどこで、果たして自分はどうなったのか。
そんなカイトの疑問を察して、青年が口を開く。
「デュールだ。クディカ将軍の副官を務めている」
二十代半ばくらいだろうか。精悍で生真面目な顔つきからは、力強い軍人然とした印象を受ける。
「ここはデルニエールの療養所。モルディック砦から撤退した負傷兵達が治療を受けている。君がここにいるのは、フューディメイム卿の計らいによるものだ」
デュールの表情は固く、口調は淡々としている。
カイトは何度か部屋を見渡して、ようやく状況を理解した。
(助かった、のか)
頭が働くようになると、森の中での記憶が徐々に蘇る。
魔獣の咆哮。兵士達の死に様。初めて握った剣の重みと、戦いの恐怖、痛み、高揚。
ソーニャとの交わり。そして、全身が砕け散る感覚。
(夢じゃない。あれは、夢じゃなかった)
甘美な快感も、おぞましい激痛も、確かに体が覚えている。
思わず自分を抱きしめる。体の芯が凍り付き、力んだ全身が小刻みに震えていた。
「その感情は、生き残った者の特権だ。余すことなく味わっておけ」
青年はカイトから目を逸らし、部屋の負傷者たちを見渡す。
「じきに慣れる」
そんな言葉は耳に届かない。
束の間の睡眠によって、カイトは普段の感性を取り戻していた。剣を手に命をやり取りをした自分が信じられない。
獣を突き殺した感触が、まだこの手に残っている。
「俺は」
カイトは極度の興奮状態にあった。奇声をあげたり暴れたりには至らずとも、呼気は乱れ目は虚空を泳いでいる。
同時に、自分の中に冷静な部分があることもまた自覚していた。すんでのところで心を支えているのは、妹との約束を守ったという自負、矜持であった。
負けてしまった。死にかけもした。
けれど逃げなかった。勇気を振り絞り、敵に立ち向かった。
「俺は、ちゃんと戦った」
今のカイトにとっては、それだけが確かな誇りであった。
やがて震えは収まり、呼吸も整ってくる。
深呼吸を一つ。カイトは傍らの青年を見上げた。
「君を救ったのはフューディメイム卿だ。感謝を忘れないように」
カイトの脳裏に、穏やかな美女の微笑みがよぎる。
(感謝……?)
正直なところ、そんな気にはなれなかった。助かったはいいが、また酷な扱いを受けるのはまっぴらごめんである。この世界の軍人からは敵意を向けられた記憶しかない。スパイ容疑をかけられ、殴られ投獄され、挙句の果てには殺されそうにもなった。
彼らは信用に値しない。ここで安心するなどもっての他だ。
だが、リーティアが耐魔のタリスマンを授けてくれたのもまた事実。彼女がいなければここにくるまでもなく野垂れ死んでいただろう。
カイトの中に、消化できない思いが渦を巻く。
「さぁ、目が覚めたらベッドを空けるんだ。それを使いたい者が順番を待っている」
「空けろって言われても」
「君には行くべきところがある。一緒に来てもらうぞ」
「今からですか? 起きたばかりだってのに……」
「甘えたことを言うんじゃない。君は怪我人じゃないんだ」
デュールは背を向けると一言「ついてこい」とだけ残して歩き出した。
ついていく義理も必要も感じなかったが、従わなければ後が怖そうだ。カイトは渋々ベッドから下りると、心もとない貫頭衣のまま、床に置いてあったぶかぶかのサンダルを履いてデュールを追いかけた。
部屋を出て廊下を歩く。回廊の長さや幅、窓から見える景色からして、この療養所がそれなりに大きな建物だということがわかる。面積だけでいえば高校の校舎一棟に相当するだろうか。
どことなくヨーロピアンな風情を思わせる木造の建物だが、建築様式に疎いカイトに確かなことはわからない。思い浮かぶのは、なんとなくファンタジーっぽいという拙い感想だけだった。
「療養所が珍しいか?」
よほどキョロキョロしていたのだろう。デュールが前を向いたまま尋ねてくる。
「まぁ、すこしは」
そもそもカイトにとってはこの世界の全てが物珍しい。アニメやゲームで見るのと、実際に目にするのとでは臨場感が違う。文字通り、遠い異国の地に来た気分だ。
「どこに向かってるんです?」
「すぐわかる」
もったいぶらず教えてくれたっていいじゃないか。という言葉は喉の奥に押し込んだ。
間もなく目的地に到着すると、扉の前に二人の兵士が立っていた。
兵士らはデュールの姿を見とめると、足を揃えて右手を左肩に当てた。この国における敬礼の作法だろうか。
「ご苦労」
デュールが頷くと、兵士らは機敏な所作で元の姿勢に戻る。彼らは表情こそ変えなかったが、わかりやすい好奇の視線をカイトに注いでいた。
(この人らにとっては、珍しいのは俺の方なんだろうな)
緊張するカイトをよそに、デュールは扉をノックする。
「デュールです。例の男を連れて参りました」
「入れ」
扉の奥から聞こえてきた声に、カイトはぎょっとした。
あの女将軍の声だ。剣を突きつけられた時のことを思い出して、思わず首筋を押さえる。
「失礼します」
扉を開いたデュールが振り返り、カイトに入室を促す。
正直入りたくないが、しょうがない。カイトは渋々デュールの後に続いた。
部屋に入ってまず目についたのは、背もたれの起こされた寝台に体を預けるクディカだった。カイトと同じ貫頭衣。四肢に巻きつけられた添木や包帯が、彼女の重症を物語っている。頭部や片目までに包帯が巻かれており、ところどころ血が滲んでいるのが非常に痛々しい。
「デュール、ご苦労だった。適当にかけていい」
「はっ」
片隅のイスに腰を下ろしたデュールを横目に、カイトは手持無沙汰だった。
クディカの傍ら。簡素な丸椅子に、リーティアがゆったりと腰かけている。彼女は柔和な笑みで眼鏡の弦をくいと上げると、手のひらでベッドの脇を指した。
「カイトさん。どうぞこちらへ」
言われるがまま、カイトは躊躇いがちに二人に歩み寄った。視界の端に小柄な少女の姿があるが、気にする余裕はない。
「ふむ」
クディカの碧い眼が、カイトの全身を隈なく観察する。その眼光は重傷者とは思えないほど鋭く、カイトの居心地を悪くさせる。
「とてもではないが、体が潰れていたようには見えんな。一晩で治ったというのか?」
実のところ、カイトも同じ疑問を抱いていた。思い出したくもないが、確かに巨人に握り潰された。ところが今はそれが嘘のように元通りになっている。
「今度こそ答えてもらうぞ。お前が何者なのか」
 




