11.いつかの記憶
記憶の片隅に追いやっていた言葉がある。
忘れかけていたその言葉を手繰り寄せるように、追憶が閃いた。
殺風景な病室。ベッドの上から窓の外を眺める海璃と、その傍らに立つ海斗。
「あのなぁ海璃。お前、いつまであんなこと続けるんだ?」
「いいじゃない別に。私にとっては大切なことなの」
「絶対安静だって言われてるんだろ。なのにお前ときたら、病室抜け出しておしゃべりばっかして。そんなんじゃ、治るもんも治らないだろ」
海斗はぶっきらぼうに言う。一応これでも妹を心配しているのだ。
「おしゃべり? うーん、おしゃべりかぁ……ふふ、そっかそっか」
海璃が顔を綻ばせた。
「なんだよ」
「ううん。なんだか、嬉しいなって」
「嬉しい?」
「だっておしゃべりするとみんな元気になるんだよ? ありがとう、一緒に頑張ろうねって、素敵な笑顔を見せてくれるんだから」
外出を禁じられていた海璃は、同じ病院の患者達とよく話をしていた。その内容は他愛もない世間話ではあったが、素直で屈託のない海璃の人柄は、病魔に悲観した患者達の励ましとなっていた。
同年代の少女と流行を追いかけたり、強面の青年の恋愛相談をしたり、時には職場の人間関係で悩む看護師を元気づけることもあった。
ある老婦人が死の恐怖を打ち明けた日、海璃はその老婦人が泣き止むまでずっと彼女を抱きしめていた。孫ほど年の離れた少女の真心に、老婦人は病に立ち向かう強さを取り戻したという。
そんなことを、来る日来る日も続けている。絶対安静という医師の指示に従う気などさらさらないようだった。
「バカだろ、お前」
海斗には妹の行動がまったく理解できない。
「いいか? 病人は病人らしく、病気を治すことだけ考えてればいいんだ。みんなが元気になっても、自分の病気が悪化したら何の意味もないだろうが」
「そんなことないよ」
海璃の否定は強かった。
「おにいちゃん。昔さ、家の近くの公園におっきな犬がいた時のこと、おぼえてる?」
「……それがどうしたよ」
「おっきいだけで大人しいワンちゃんだったけど、あの時の私ったら怖くて泣いちゃって動けなくなって」
「あったな。そんなこと」
まだ小学生にもならない幼い頃の話だ。正直、今の今まで忘れていた。
「おにいちゃんだって怖かったはずなのに、一生懸命木の棒を振り回して私を守ろうとしてくれたでしょ」
「馬鹿言え。あんな犬、ちっとも怖くなかった」
「うそ。お母さんから聞いたもん。あとですっごく泣いてたって」
今となってはなんとも滑稽な話だ。
近所の飼い犬だったその犬は、棒を振り回す海斗にじゃれつこうとしていただけだったが、当時はそれが恐ろしくてたまらなかった。
妹を守らなければという思いだけが、彼の足を止め、勇気を引き出した。
一人だったら、きっと逃げていたに違いない。
「私ね。病気になって、入院して、学校にも行けなくなって……どうしてこんな目にあわなくちゃいけないんだろうって、ずっと思ってた。私って、世界でいちばん不幸な女の子なんじゃないかって」
海璃の痩せた頬が、自嘲気味に苦笑を浮かべる。
「それで、ふとその時のことを思い出したの。そしたら不思議と勇気が湧いてきて、私もおにいちゃんみたいになれたらいいなって思ったんだ」
海璃の話はいまいち要領を得ない。海斗は溜息交じりに頭を掻いた。
「で、結局何が言いたいんだ」
煙に巻こうとしているのなら、叱らなければならないだろう。それが兄の務めだ。
ところが次に海璃が口にした言葉は、海斗をしばし唖然とさせた。
「自分が一番辛い時には、誰かの為に戦うんだよ」
その響きは、苛立つ海斗の胸にすっと落ちてきた。
海璃の屈託のない笑みに、一抹の気恥ずかしさを覚える。
「……お前が病室を抜け出すのとどう関係あるんだよ」
「私のおしゃべりでみんなが元気になってくれるんだから、そりゃ頑張っちゃうよ」
「おしゃべりが戦いだなんて、大袈裟だろ」
「そうかもねー」
海璃は嬉しそうに笑っていた。
表情には出さなかったが、カイトの心もまた深い喜びを覚えていた。自分では情けないと感じていた過去の行いが病床の妹に希望を与えていたのだから。
重病人の海璃がこんなにも頑張っている。なら兄である自分がやるべきことは、どこまでも妹を支えることだけだ。
「まぁ、無理だけはするなよ。もしお前に何かあったら、お前の言うみんなが悲しむことになるんだからな」
「うん。わかってる」
海璃は微笑みを浮かべて、再び窓の外に目を向けた。
空は夕焼け色に染まりつつあった。病室の白い壁が、燃えるような赤に彩られていく。
「ねぇおにいちゃん。私のお願い、聞いてくれる?」
しばらくして、海璃がぽつりと呟いた。
「おう、なんでも言ってみろ。けど金がかかることは無理だぞ」
「ふふっ」
小さく笑い、真剣な眼差しを向ける海璃。
「もしおにいちゃんが、これから先どうしようもなく辛くて苦しい目にあったら……その時は、今日のおしゃべりを思い出して」
栗色の大きな瞳に、カイトの呆けた顔が映っている。
「なんだよ。そんなことでいいのか?」
改まって言うものだから、どんな大層なお願いをされるのかと身構えていたが、正直拍子抜けだった。
妹の頭を撫でる。こうしてやると、海璃はいつもくすぐったそうに肩を竦めた。
「それくらいお安い御用だ」
決して忘れない。思い出す必要すらないほどに、深く心に刻みつけよう。
これから先もずっと妹を守っていく。その思いが揺らぐことはない。
そうに決まっているのだから。
「ぜったいだよ?」
「ああ、約束だ」
任せとけ、と海斗は自信をもって胸を叩いた。
海璃の痩せた顔に、どこかほっとした表情が浮かぶ。
この日からちょうど一か月後。
海璃は、静かに息を引き取った。




