10.剣をその手に
体の重たさを感じる。
湿った土は柔らかく、ほんのりと冷たい。
野鳥のさえずりと川のせせらぎ。妙に懐かしい響きが、目覚めの時を告げている。
「生きてる」
まるで他人事のような呟き。
ゆっくりと体を起こし、辺りを見渡す。深い自然に囲まれた景色。木々の間から光が差し込む様は、現代日本の山中の景色と何ら変わらない。
座ったまま、カイトは額を押さえてうなだれた。
「夢じゃ……なかった」
どうして異世界なんかに来てしまったんだろう。そんな風に後悔する日がこようとは夢にも思っていなかった。むしろ、夢オチであってくれたらどれほど嬉しいことか。
首にかかったタリスマンを確認して、カイトは天を仰いだ。
「ははっ」
思わず笑いが漏れた。
吹っ切れたわけじゃない。開き直ったわけでも、ましてや狂ったわけでもない。
どうしようもなさすぎて、もう笑うしかないのだ。
立ち上がり、服についた土を払う。
「さぁ、行くか」
再び川沿いを歩き出す。こうなったらもうヤケクソだ。何をしなくともどうせマナ中毒で死ぬのなら、最後まで足掻いてみせるのが男の意地だ。
木々の間を縫い、額を伝う汗を拭って、大地から盛り上がる木の根に足を取られそうになりながら前に進む。
それからしばらく。
「……これって、道か?」
人一人がやっと通れる幅の分だけ生い茂った草が踏み倒されている。真新しい足跡が幾つも重なって残されており、それなりの人数がここを通ったことを示していた。
森に入って初めて見つけた他人の痕跡である。希望を抱くに十分な進展だった。
「まだ、遠くには行ってなさそうだな」
自然に独り言が大きくなる。
ここまで踏ん張った甲斐があった。先の見えなかった孤独がようやく終わる。
カイトは知らず駆け出していた。心が生き返ると、体も軽くなった。足跡を追い、先を急ぐ。
そしてついに、数人の後姿を視界に捉えた。
「っ! おーいっ!」
力の限り叫ぶ。それは助けを求めるというよりは、助かったことへの安堵と歓喜が声になったものだった。
カイトの呼びかけに気付き、前を行く者達が一斉に振り返る。鎧を身に着けた数人の兵士達。
彼らの前まで辿り着き、カイトは膝を杖に息を整える。事情を説明しようと顔を上げたところで、
「あ」
カイトは改めて、自身の不運を嘆いた。
クディカの指示でカイトを地下牢へ連行した兵士が、そこに立っていた。軽鎧をボロボロにした青年。その顔に見覚えがあるのは、腹を殴られた恨み故だ。
「お前……!」
カイトの姿を認めるや否や、彼は怒りの形相で手槍を構えた。
鋭い穂先を突きつけられ、カイトの体が強張る。安易に呼びかけてしまった自らの浅慮を呪ったが、今更悔やんでも仕方ない。そうだ、ビビっている場合じゃないんだ。
「待ってくれ! 違う、誤解なんだ!」
「何が誤解か! 裏切者め!」
身に覚えのないスパイ容疑をかけられたまま砦は陥落した。しかも、敵が侵入したのはカイトが捕らえられていた地下牢である。
あくまで偶然の産物であったが、多くの者はそう思わない。むしろ、カイトが魔族の手先でないと考える方が不自然だった。
「奴を捕らえろ! 魔族の間者だ! こいつのせいで皆が殺された! 砦も失った!」
他の兵士達が戸惑いを見せたのも一瞬。各々が厳しい様相で武器を構え、カイトを扇状に取り囲んだ。
「お前が……お前のせいでぇっ!」
兵士が踏み込み、手槍の一撃を放つ。
カイトがそれを避けられたのは僥倖だった。慌てて飛びのこうとした拍子に足を滑らせて転び、結果的に頬を掠めるのみで済んだのだ。
急加速する鼓動。捕らえろと言っておきながら、彼の刺突は殺意に満ちていた。とてもじゃないが話が通じる様子じゃない。
「くっそ!」
カイトに残された選択肢は逃走だけだった。飛び起きて踵を返し、再び森の中を疾走する。
「追え、追え! 絶対に逃がすな!」
草木をかき分けて走り続ける。重たい装備を纏う兵士達に対し、カイトの装いは学生服のみ。障害物が多く起伏の激しい地形は、軽装のカイトに有利に働いた。
とはいえ、背後で鳴り止まない鎧の音が言い知れぬ恐怖を煽る。疲れ切った脚に鞭を打ち、一心不乱に駆けるしかなかった。
勘違いから始まる物語は多くある。だが、こんな展開は不幸にも程があるだろう。こうなったらお望み通り魔族側についてやろうか。そうした方が楽なんじゃないか。
そんなカイトの思考を察したかのように、前方に動く物体が現れる。
漆黒の獣が十匹余り。それらは木々の隙間を縫うようにしてこちらに急接近しており、瞬く間に距離を詰めてくる。
「冗談だろ……?」
こんな時は陳腐な言葉しか出てこない。
前には魔獣。後ろには兵士。
このまま走り続けるべきか、それとも止まるべきか。
カイトの逡巡には目もくれず、瞬く間に肉薄した十数の獣が傍らを駆け抜けていく。
「うおっ」
獣の圧力に煽られ、カイトは地面に叩きつけられた。大地を転がり、ようやく後ろを振り返る。
その時すでに、漆黒の獣達は兵士達に襲い掛かっていた。
「魔獣だ!」
「多い! 連携しろ!」
彼らは武器を握り獣達に応戦するが、そもそも疲弊した身でまともに戦える状態ではなかった。二、三の獣を排するも、劣勢は揺るがない。
一人が負傷し、二人が倒れ、徐々に押されていく。
カイトは突発した戦闘から目が離せなかった。どうすればいいかわからない。何が出来るかわからない。逃げようにも体が動いてくれない。
「あらぁ? あなた、まだこんなとこにいたの」
カイトの体に影が落ちる。降ってきた声には聞き覚えがあった。
「あはっ。敵をおびき出してくれたんだ? 案外お利口さんなのね」
艶やかな銀髪と、血染めの瞳。黒一色で染まったフリルのドレス。
ソーニャ・コワールが、巨人の肩の上で無邪気な笑みを浮かべていた。
「おかげで手間が省けちゃった」
巨人の大きな手に握られたものを見て、カイトは喉をひきつらせた。
馬鹿みたいに太い指の間から、破損した白い鎧が見え隠れしている。垂れ下がった金髪は土で汚れ、元来の美しさは微塵も残っていなかった。間違いなくあの女将軍だ。生きているのか、死んでいるのか。彼女はぴくりとも動かない。
巨人の手からは血が滴っており、独特の鉄臭さがカイトの鼻をついた。
「ほら見て。あの子達、あんなにはしゃいじゃって。獲物を見つけたのがホントに嬉しいみたい」
ソーニャが見つめる先にあるのは、一方的な蹂躙だ。
すでに兵士は半数にまで減っていた。重なり合う三つの断末魔は、肉の食い千切られる音の中に消えていく。獣に群がられた兵士から飛び散る夥しい鮮血。湿った土の上で嵩を増す血だまりに、引き剥がされた装備と肉片が沈む。
カイトの中に激しい嘔吐感が湧いて出た。胃がせり上がり、しかし吐き出す物は何もない。口から出るのは咳と唾液、そして不快の呻きだけ。
「もー! きたないわねぇ」
ソーニャは唇を尖らせて頬杖をつく。
「品のない男は嫌いよ。まったく」
兵士の虐殺現場に目を向けて、彼女は目尻を下げ口角を吊り上げる。まるで小動物同士の和やかな戯れを見る眼差しだ。
狂っている。それがカイトの率直な感想だった。
魔族とは。戦争とは。こんなにも恐ろしいものなのか。
慈悲も躊躇いもない、文字通りの地獄。
残された三人の兵士達は雄叫びをあげ、必死に武器を振るう。勇敢に戦っていると言えば聞こえはいいが、それは単なる行動爆発に過ぎない。彼らの顔は恐怖に塗れ、絶望に染まっていた。
「そーそー。最後まで諦めちゃだめ。頑張れば勝てるかもしれないんだから」
楽しそうに笑うソーニャの傍ら、カイトは呆然自失として動けない。
間もなくカイトの近くに、兵士が一人転がり込んできた。
「くるな! くるなぁ!」
小さな体で闇雲に剣を振り回し、接近する獣を追い払おうとする。カイトよりも幾分か若い兵士だった。
(子ども……?)
体格からして十歳そこそこ。現代日本では小学生高学年くらいの年齢だろう。
そこでやっと、カイトは我に返る。
(うそだろ。こんな子どもまで戦争をしてんのかよ)
カイトは驚きにも増して暗い感情を抱く。怒りや嘆きではない。それは焦燥であり、強烈な罪悪感であった。
「このぉっ!」
革鎧を纏った年若い兵士は、転んだ体勢のまま剣を振り上げる。そこに生まれた僅かな隙をついて、獣の牙が襲い掛かった。腕に噛みつかれ、圧し掛かられ、身動きが取れなくなる。
兵士の手から放り出された剣が、カイトの足下に突き立った。柔らかい土が鈍い音を鳴らす。二匹の獣の下敷きになった若い兵士は、絶叫と共に四肢を暴れさせた。
森に響く恐怖の叫びが、カイトの呼吸を妨げる。
「ああ、なんて可哀想なのかしら。人間ってほんとひどい生き物。いやになっちゃう。こんな小さな子に武器を持たせて、あたし達に殺させるなんて」
どうでもいい。
カイトの視線は足元の剣に固定されて動かなかった。
「ちょっと聞いてる? ねぇ」
剣。それはカイトにとって象徴であった。
冒険。異世界。非日常。成功と実現の象徴。
一振りの剣に思いを馳せ、強き自分を夢見たこともあった。
「……ふぅん? その剣、取らないのー?」
そうだ。
今なら、幼き日に憧れた剣をこの手に取ることができる。
けど。
取ってどうする?
確信がある。この剣を取れば、もう後戻りはできない。戦う力を手にしてしまえば、誰にも、自分にさえ、言い訳は通用しないから。
「あはっ。見てるだけなんだ。あなたも結構いじわるなのね」
馬鹿を言うな。
こんな棒切れ一本で、いったい何ができるんだ。
助けてほしいのはこっちの方だ。
死にそうな目に遭っているのはこいつらだけじゃない。
「俺を殺そうとした奴らのことなんか――」
口をついて出た言葉は、ぐちゃぐちゃになったカイトの心を如実に表していた。
二匹の獣に組み敷かれた兵士に、もはや為す術はない。
革鎧は無惨に喰い千切られ、他の兵士と同じ末路を辿ろうとしている。
無力なカイトは、黙って見ていることしかできない。
「あ」
カイトの心に激痛が走る。
若き兵士はもはや抵抗することさえ許されなかった。残された最後の道は、他者に縋ることだけ。故にカイトと目が合ったのは、避けえぬ必然であったのだ。
「たすけてっ……」
カイトは息を呑む。
「たすけてっ!」
涙を溜めた栗色の瞳が、妹の面影と重なった。




