8.ケセラの使者
食事の片づけを終えたばかりの室内は、ゆるやかな静けさに包まれていた。作戦会議は何となくうやむやになってしまった。
そんな中、ティリスが風呂場から水瓶を抱えて出てきた。水瓶はティリスの背丈と変わらぬほど大きく、中には半分ほど水が入っている。
「水を換えに行ってきます」
何も持っていないかのような平然とした顔で言う。しかし、その水瓶の重量を考えれば、普通の人間なら両手どころか荷車でも必要になる代物だ。
イケメンなのに、足が速く、戦いに長け、プラス力持ちだなんて。三冠王どころか四冠王じゃないか。
「私も行っていい?」
私は傍らに立てかけてあったバットを手に取りながら言った。ここ数日間ずっと持ち歩いているせいか、もはや体の一部のようにしっくりくる。
「ぼくも行くぞ」
アイルが小さく手を挙げる。結局、3人で湖へ向かうことになった。
湖へ続く小道は木々に囲まれ、ところどころで鳥のさえずりが響く。木漏れ日が揺れながら足元に模様を描き、涼やかな風が髪を揺らしていった。
ティリスは軽やかな足取りで進んでいく。私とアイルは遅れないように小走りだ。なにこのミニマラソン大会。
やがて木々が開け、目の前に湖が広がった。空の青を映し、微風に揺れる水面はアイルの髪のようにキラキラと輝いていた。
ティリスが湖のほとりにしゃがみ、水瓶を洗い始める。
――さて、と。
バット×暇つぶしの公式で導き出される解は、素振りしかない。
雨の日のサラリーマンだって、ホームで傘をゴルフクラブ代わりに素振りしているものだ。
バットを構え、足を引いて、ぐっと腰に力を込めて振り抜く。シュッと風を切る音が心地いい。
何度か繰り返していると、
「それは面白いのか?」
アイルが少し離れたところから声をかけてきた。
「暇つぶしよ、暇つぶし」
「やることがないなら、少し歩かないか?」
「お姉さんをデートに誘ってるの?」
「は?」
「……何でもないです」
私は肩をすくめ、バットを近くの木に立てかけた。
アイルと並んで湖のほとりを歩く。波が岸辺をなでる音が心地よいリズムを刻んでいる。
ふと、アイルが立ち止まり、何かを拾うように腰を曲げた。
「どうしたの?」
アイルは姿勢を戻し、こちらを見上げる。金色の髪が陽光に照らされ、淡く輝いている。青い瞳は湖の水面と同じ色。まだ子どもとはいえ、10年後が楽しみすぎる容姿だ。
「ちょっと、こっち」
手招きされ、同じ目の高さになるように腰をかがめる。
アイルは手に持っていた白い花を、私の髪にそっと挿した。一瞬、ハーブのような淡く澄んだ香りがした。
剣豪からお姫様にジョブチェンジした気分だ。
「可愛いな」
相手がいくら子どもとはいえ、そんなことを言われてドキドキしない女子はいない。
「え、私? そんなこと――」
「いや、その花。この辺にしか咲いてない、幸せを運んでくる花なんだ」
そこ否定する必要ある? 憮然としていると、アイルが少し笑った。
「うんうん、アイリも可愛いよ」
心の声を読まれてしまった。私、わかりやすいのかな。
「ガキのくせに生意気」
喜んでるのはおくびにも出さない。出すもんか。心の奥底に封印してやる。
「そうだね」
アイルは心なしか寂しそうな表情になった。急に大人びて見える。
「ぼくはまだ小さくて、弱くて、何もできないから。ティリスとアイリに頼ってばかりだ」
声のトーンが落ちる。一国の王という重責を受け止めている声。
「でも、アイリは何も心配しなくていい。必ずもとの世界に帰すから」
青い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。その言葉には迷いがない。
「ぼくは王様だから。約束は必ず守る」
この小さな王様の威厳はどこから来るのだろうか。
「信じるからね、王様。JKとの約束は絶対よ」
その時。木の影から人影が現れた。
アイルと同じくらいの年頃の女の子が2人。髪型から表情までまったく同じ。双子だろうか。
「「ごきげんよう、アイル様」」
2人同時に発せられた声は、音程まで寸分違わない。シンクロ率ハンパない。
「誰だ?」
アイルの声には明らかな警戒が滲んでいた。この反応からして、どうやら知らない顔らしい。
「突然失礼します。わたしたちはケセラから来ました」
ケセラ。平和的に同盟を持ちかけてきている国。その名を聞いた瞬間、頭の中で地図が展開する。
「ここのところクレイズの動きが活発化しているので、心配になりまして」
クレイズ。明日にでも軍を差し向けてきそうな侵略国家。ティリスから聞いた話が脳裏をよぎる。
「アイル様のお力になれないかと思いまして」
「お初にお目にかかります。ミミです」
「ハナです」
2人は交互に名乗った。小学校の卒業式でみんなで順番にしゃべるやつみたいだ。
……ん? 耳と鼻? 名前? どういうセンス?
しかしアイルは、2人の名前にはまったく反応しなかった。
「ケセラから……?」
アイルは私をかばうように一歩前に出た。背中に私を隠し――まあ、身長差があるから盛大にはみ出してるんだけど――ミミとハナを鋭く見据える。
猛タヌキの時はとっとと逃げ出したくせに、急に男らしくなっちゃって。
耳と鼻――ミミとハナは、どこか読めない笑みを浮かべながらアイルを見つめる。
「同盟の話をしに来たのか?」
アイルの声が凛と響いた。
「もちろん、それもありますが……」
「急いては事を仕損じますから」
「早急に進める話ではないので、ご挨拶とご機嫌うかがいです」
「我々は敵ではありませんから」
2人は交互に話す。途切れも、間もなく、まるでひとつの意志で動いているように。
「もちろん、平和的に同盟を結べるなら願ってもない。僕はこの国を戦場にしたくない」
アイルはなおも私をかばう体勢のまま、毅然と言い放った。しかし、ミミとハナは表情を変えない。まるで感情を持たない人形のように。
「でも、いまケセラと同盟を結べば、他の国とのバランスが崩れるのも分かっているだろう。今はまだ、その時ではない」
「もちろん、存じております」
2人はまったく同じ角度で、まったく同じ動作でお辞儀をした。
「わたしたちを信じてください」
「ケセラはエルドロウを裏切りません」
顔を上げる。相変わらず感情の読めない顔。まだ幼いからだろうか。もう少し大きくなれば、もう少し人間らしくなるのかもしれない。
「アイル様!」
走ってくる足音とともに、ティリスの声が響いた。
これで3対2。いざとなったら押し勝てる。
「ティリス様、初めまして」
「ティリス様、ごきげんよう」
ミミとハナの挨拶波状攻撃。本当に息がぴったりだ。
――ん? 待てよ。アイルとティリスには挨拶したのに、私にはなし?
いや、でもそんな理由で文句を言ったら、ただのクレーマーだ。私がこの世界に来てまだ日が浅いから、顔が売れてないだけだ、きっと。
ふと、ミミとハナがこちらを見ていることに気づく。ティリスの登場で、ついでに私の存在にも気が付いたらしい。
「ども、ルーキーの棚星愛莉です」
つい、嫌味っぽい挨拶をしてしまった。こんな小さな子ども相手に、大人げない。
「アイリ様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、アイリ様」
私をかばっていたアイルの前に、ティリスが立つ。気づけば、はからずも縦一列に並んでしまっていた。体育の授業か。
「同盟のお話ですね。急にいらっしゃると困ります」
「ふふ、ごめんなさい」
「お2人のお顔を見ておこうと思いまして」
「噂に違わずお美しい」
「本当に、お美しいこと」
ミミとハナは楽しげに言うと、言葉の余韻を残しながら木々の奥へと消えていった。