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6.よしこ

 夕暮れ時。


 図書館の前には長い影が伸び、橙色に染まった空がゆっくりと紫に溶けていく。湖の方からひんやりとした風が吹き抜け、木々の葉がザザッと音を立てた。


 アイルとティリスと並んで家――いや、宮殿に向かって歩く。


 アイルはビスクドールのように端正な顔をしかめて何やら考え込んでいる。ティリスの横顔は無表情ながら彫刻のように美しい。2人の姿はまるで絵画のようだ。


 そんな2人と並んで歩くのは、まるで童話の登場人物になったようで浮足立ってしまう。


「そういえば、アイル、何を調べてたの?」


 沈黙を破ってしまったせいか、アイルは軽く目を瞬かせて答えた。


「ああ、返却の祈りについて調べていた」


「私のため?」


 それは素直に嬉しい。アイルなりに私のことを考えてくれてたんだ。


「それほど難しい本ではないのだけど、ぼくの読んでいた本を見たんじゃないのか?」


「だって読めないもの」


「え?」


「だから、この国の文字が読めないの。会話はできるのに不思議よね」


「勇者殿にもできないことがあるのだな」


 アイルの言葉には微かな驚きが混じっていた。


「何でもできるみたいに言わないで」


 プレッシャーで胃が痛くなる。手に持ったバットが急に重く感じた。


 その時、背後からすごい勢いで追いかけてくる足音が聞こえてきた。ドカドカと情緒のかけらもない靴音が路面を叩く音が響き渡る。


「ん?」


 違和感を覚えて振り返ると、汗だくのおじさんがこちらへ向かって猛然と駆けてくるではないか。


 新橋の駅前にいる都会のビジネスマンではなく、まるで日本昔話から抜け出したような、ねじり鉢巻に丸ひげのおじさんだ。


「異世界感が台無し……」


 ため息まじりに本音がこぼれる。できれば見なかったことにしたい。


 しかし、おじさんのあまりの勢いに負け、視線が合ってしまった。


「王様! 待ってください、王様! 大変なんです!!」


 息を切らせながらも力強い声で叫ぶその姿に、アイルの視線が向けられた。


「おお、ジャクロウじゃないか。どうした?」


 アイルが親しそうに手を挙げて応じた。


 じゃくろう? 雀郎? ワンチャン漢字で書けそうな名前だ。苗字は絶対に『林家』か『三遊亭』だろうな。


「オラのよしこが……よしこが……!」


「よしこ?」


 緊迫している雰囲気を無視するかのように、私はつい口を挟んでしまった。


「誰、それ?」


「オラの牛っこだぁ!」


 ……牛か。妙に和風な名前だな。異世界に来たはずなのに、ふと懐かしい気分になる。


「よしこが……機嫌が悪いんです!!」


「なんだと!?」「なんですって!?」


 アイルとティリスがほぼ同時に驚愕の声を上げた。その反応の大きさに、私は混乱する。


「いや、牛の機嫌が悪いってそんなに大事?」


 誰にともなく問いかけるが、誰も答えてくれない。代わりにジャクロウが焦燥の色を浮かべながら叫ぶ。


「とにかく来てくだせえ!」


 アイルは即座に駆け出し、ティリスも後を追う。もちろん、私だけ取り残されるわけにはいかないので、全力で追いかけた。


 牛舎に到着すると、そこには見たこともない色の牛がいた。


「……え?」


 よしこ、と呼ばれたその牛は紫と黄緑のツートンカラーだった。どう見ても普通の牛ではない。


「これって……?」


「よしこは去年、森に迷い込んで猛タヌキに襲われたんだ」


 アイルが悲しそうに言う。その視線の先、よしこは不機嫌そうに鼻息を荒くしながら壁に体をこすりつけている。そのせいで背中と体の横の一部の毛がはげ、血が滲んでいた。


「このままじゃ大けがしちまう。よしこに何かあったら大変だぁ――」


 取り乱すジャクロウを、アイルがなだめている。


 私は、そっとティリスに聞いた。


「……そんなに大事な牛なの?」


「ああ。この国の乳製品の9割は、よしこのミルクから作られている」


「えっ」


 ほぼ独占市場じゃない。そんなに牛が希少なのか。


「じゃあ、乳製品のためにも機嫌を直してもらうしかないですね」


 私はよしこの足元を注意深く見た。


「――!?」


 息を呑む。よしこの足元に、何か鋭いものが突き刺さっている。


「これのせいかな……?」


 私はそっと膝をつき、手を伸ばした。よしこは小さく鼻を鳴らし、警戒するように足を踏み鳴らす。


「大丈夫、大丈夫……」


 慎重に指を這わせると、かすかに血が滲んでいた。木の枝ではない。何か鋭利な金属のようなものが皮膚を貫いている。


「これは……!」


 私は深く息を吸い、力を込めてそれを抜き取った。


「っ……!」


 よしこが大きく鼻を鳴らし、跳ね上がる。その場に響く蹄の音。周囲の空気が張り詰めた。


「アイリ!」


 アイルの声が飛ぶ。


「大丈夫、もう抜いた!」


 私は抜き取った物を確認する。光を受けて鈍く輝くそれは、何かの破片のようだった。


「見せてください」


 ティリスが手を出したのでその破片を渡した。


 よしこは数度、蹄を踏み鳴らすと、荒い息を整えて落ち着きを取り戻した。そして、ゆっくりと私のほうを振り向く。


「……まだ、痛い?」


 よしこがそっとすり寄ってくる。毛並みが温かい。


「アイリは牛の機嫌も直せるのか」


 と、アイル。


「さすが勇者様だぁ! よしこを助けてくれてありがとう!」


 ジャクロウが感涙しながら叫ぶ。このおじさん、叫んでばっかりだな。


「ははは……まあ、たしなみですね」


 適当に返しながら、ボーイスカウト時代のことを思い出す。搾乳章を取るときに牛の機嫌の取り方を学んだ。まさか、こんな場面で役立つとは。


 ティリスが手のひらに載せた金属の破片をじっと見つめている。その表情は険しい。


「どうしたの?」


「これ、剣の破片かもしれません」


「剣? こんな粉々に砕けるもの?」


「おそらく、粗悪な材質で作られたものです。こんなものを使うのは、クレイズの兵士かもしれない」


 クレイズ──桜のマークに似た地図を思い出す。この国を囲んでいる隣国の1つだ。


「どうして他所の国の武器がこんなところに……」


「おそらく、今日アイル様を狙った連中のものかと」


「あー、あの……」


 黒い影たち。ティリスにキッチン用具で撃退された刺客たち。まさか、武器まで破壊されていたとは。おたまとフライ返しより弱い武器を持ってたなんて……。


「それって、やっすいワインで煮込むと高級フレンチも不味くなるってこと?」


「アイリは時々不思議なことを言うな」


 アイルが呆れ顔で笑う。褒められた? ……んなわけないか。笑ってごまかしておく。


「何にしても、また来るかもしれません。気を付けないと」


 ティリスは難しい顔のまま、破片をポケットにしまった。


 ジャクロウが、よしこの傷口を水で洗い始めた。たぶん湖の水だろう。


 そこで私はふと気づいた。


 ――そういえば、この水……。


 よしこの毛並みはサラサラだし、ジャクロウの髪やヒゲもやたらツヤツヤしている。どちらもキューティクルが異様に輝いている。まるで高級トリートメントを受けたかのようだ。


まさか、この水の効果なの?


帰ったら試しに水を浴びてみよう。本気の水浴びをしてみよう。


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