4.風呂にて
お風呂は、お風呂じゃなかった。
いや、正確には、わたしの常識の中でお風呂と呼べるべきものではなかった。
2畳分ほどのスペースに直径1メートルほどの水瓶が設えられており、そこにたっぷりと水が入っている。
そう、水。お湯ではない。
寒くないから水浴びでいいか、と自分を納得させる。
石の床の上に正座して、水瓶から手で水をすくって体にかける。冷たい水が肌を打ち、一瞬ひゃっとした。だが、すぐに慣れた。
手桶も洗面器も、もちろんシャンプーもボディソープも洗顔料もない。ひたすら水洗い。
「せめてクレンジングほしかったなー」
学校仕様の薄いメイクとはいえ、ファンデーションを塗っているのでしっかりと洗顔したかった。
いや、そんな贅沢を言ってはいけない。肌を傷つけないよう、何度も水で顔をこすった。
その時、背後でギィッと扉が開く音がした。
――ん?
「俺も一緒に入っていいですか?」
疑問形なのに、その声はすぐ背後から聞こえた。ティリスの声。私の返事を待たずして入ってきたらしい。
「え? え? え?」
あまりの出来事に頭の中に「?」マークが溢れ返る。
「いいわけないじゃん! コンプラ的にダメ! 絶対ダメ!!」
きゃあ、と悲鳴を上げつつ両腕で体を抱えてその場にうずくまる。早く出ていけ!
「せっかくだから背中でも流そうかと――」
まったく悪びれる様子もなく隣に座る気配。ザバっと水の音がする。
「バカなの? ねえ、実はバカだったの!?」
猛抗議しつつ顔だけ上げて睨みつける。いくらイケメンでもやっていいことと悪いことがある!
――しかし。
「……」
隣に座っていたティリスの姿は、予想に反して――。
「女の子、だったの?」
「ん? 男だと思ってたのか?」
蹴りを入れたくなった。
***
実質、水浴びのような風呂から上がる。
「あー……パックしたい」
風呂上がりといえばスキンケア。ヘアケアもしたい。
「ぱっくとは?」
「世間の冷たい風にさらされてるお肌へのご褒美よ」
「アイリは不思議なことを言う」
「そういうティリスは、肌も髪もきれいだよね」
同性だと分かった瞬間は絶望したが、現金なもので、逆に距離が縮まった気がする。
ティリスのシミひとつないすべすべの肌と、天使の輪が輝くツヤツヤの髪。羨ましくて、つい見入ってしまう。
「そうか? こんなもんだろう」
無頓着なのか、ティリスはきょとんとしていた。
私といえば、シャンプーもリンスもコンディショナーもない。ヘアパックもヘアオイルもない。ドライヤーで乾かすことすらできず、滅びゆくキューティクルの心配しかない。
ないものねだりはやめよう。
テーブルに視線を移すと、3人分の食事が並んでいた。ティリスが用意してくれたのだろうか。
パンとサラダとスープ。見慣れた昼食と変わらず、ほっとする。
さっき見たときは椅子が二脚しかなかったが、一脚増えていた。よく見ると、木箱を積み上げただけの即席の椅子だ。バランスよく座らないと、ダルマ落としのように崩れそう。
扉が開き、アイルが目をこすりながら起きてきた。
「あー、よく寝た」
寝て、起きて、食べて……王族の暮らしは優雅で羨ましい。
「どうぞ、アイル様。お食事の用意ができております」
椅子取りゲームが始まるかと思いきや、アイルが座ったのはその木箱だった。体重が軽いせいか、特にぐらつくこともない。
「さ、勇者さ……アイリも、どうぞ」
ティリスが勧めてくれる。遠慮なく椅子に座ると、お腹がぐうと鳴った。そういえば、この世界に来てからまともな食事は初めてだ。
少し前の私なら、イケメンの前でお腹を鳴らしたことに自己嫌悪で立ち直れなかったかもしれない。
でも今は何ともない。だってイケメンはイケメンでも、男装の麗人だったのだから。元の世界に帰ったら、『ベルばら』を読もう。
食事が始まる。パンもサラダもスープも、見た目通りの味で安心した。
「ちなみに、一つ聞いておきたいんだけど」
私が切り出すと、アイルもティリスも食事の手を止めることなく、視線で返事をした。
「私が呼ばれた理由って、国を護るためなんだよね?」
「そうだ。ぼくの願いが通じたんだ」
と、アイル。
「ということは、国が平和になったら元の世界に帰れるんだよね?」
ここが一番重要なポイントだ。
「たぶん――いや、おそらく、じゃなくて、きっと! きっと帰れるとも!」
モゴモゴしながらアイルが答える。
なんだ、その微妙な回答。
「アイル様は、召喚の祈りは熱心に学ばれていましたが、返却の祈りはこれからですもんね」
ティリスがさらりと言う。
「え、なにそれ。返却って、レンタルビデオじゃないんだから!」
「れんたるびでおとは?」
アイルがきょとんとする。
しまった、馴染みのない単語だったか。いや、それ以前に、この世界にはレンタルビデオがないのか。
――いや、そうじゃなくて。
「勇者様は、早く元の世界に帰りたいのですか?」
ティリスが静かに尋ねる。
「アイリでお願いします。そりゃそうよ。自分の家に帰りたくない人なんている?」
それに――。
私は野球部のマネージャー。マネージャーは部活動を支える重要な仕事だ。練習のサポート、選手のケア、監督や指導者との打ち合わせ。
そして、何よりも。
「最重要ミッションは、キャプテンのハートを射止めること!」
「……」
「……」
アイルとティリスは顔を見合わせた。
私の熱い気持ちが伝わったのだろうか。
「ちなみに、キャプテンの名前は雄沙よ。だから私を『勇者』と呼ぶのはナシで」
アイルとティリスは、あまり表情を変えず、とりあえず頷いた。
「あー、まあ、その、なんだ。アイリが元の世界に帰りたい気持ちはよくわかった。ぼくも返却の祈りを習得できるよう、鋭意努力しよう」
場をまとめるように、ゆっくりとアイルが言う。
「困難に立ち向かい努力されるお姿、ご立派です」
ティリスが目頭を押さえる。
……なんだ、これ。
食事が終わり、ティリスが片付け始める。
私はアイルの寝室の扉に貼られた地図の前に立ち、腕を組んだ。
「ぼくが描いた地図だ。分かりやすいだろう?」
「分かりやすいけど、それ以外の要素がまったくないね」
マルだけで構成された簡素な図。社会の授業で使う白地図だって、もう少し飾りっけがあるだろうに。
中心の小さなマルをトンと指でつつく。
「守りの一手じゃ、状況は変わらない。穴熊で相手の王が取れる?」
「あなぐまとは?」
「攻めの手が必要よ。攻撃は最大の防御って言うでしょ」
その時。
――バタンッ!
大きな音とともに玄関の扉が乱暴に開き、黒い影が飛び込んできた。ひとつ、ふたつ、みっつ――。
「え?」
アイルが座るイスの周囲を、3つの黒い人影が取り囲む。ギラリと光る刃が、それぞれの手に握られていた。
突然のことに、体がまったく動かない。
目の前の光景が現実とは思えず、時間がゆっくりと流れる。
ナイフが振り下ろされる。
助けなきゃ……!
そう思うのに、体は微動だにしない。