16.クレイズへ
目を覚ます。
カーペットに直に寝る生活にも、すっかり慣れてしまった。布団がなくても意外と熟睡できるものだ。自分の適応能力、さすがだわ。
窓ガラスに映る自分を見て、思わずはっとする。
肌はつやつやで、髪もしっとりサラサラ。寝ぐせとも無事にお別れできた。このまま二度と再会したくない。
今日の私、ますます美しい……。
「腹でも痛いんですか?」
背後からティリスの低い声が響いた。
ティリスはいつも私より早く起きている。一度くらい寝顔を拝んでやろうと思っているのに、
毎朝、気づけばもう起きている。まるで年寄りかニワトリだ。
「もー。ちょっとぐらい気分よくさせてよ」
口を尖らせて軽く抗議するが、ティリスは特に気にした様子もない。
しかし、彼の姿を見てからあらためて窓ガラスに映る自分を見ると、思わずため息が出た。
――なんだろう、この敗北感。
同じ人間なのに、キラキラ度が違いすぎる。月とスッポンとはよく言ったもので……。いや、やめよう。こんなこと考えていたら悲しくなるだけだ。がんばれ、自分。
「窓を見るといい気分になれるんですか?」
ティリスが私の隣に並び、不思議そうに窓ガラスを覗き込む。
「ちょ、やめてよ!」
慌てて飛びのく。
「比べちゃうでしょ! ほんとやめて! がっかりしすぎて死ねるわ! 死因が「がっかり」とか、自分どんだけ悲しい人生なんだってなるじゃん!」
「アイリは時々、意味不明なことを言いますね」
ティリスはきょとんとした顔のまま、私のローファーを差し出してきた。
驚いたことに、洗ってある。それだけじゃない。細かい傷が消えている。磨かれ、まるで新品のようにピカピカだ。
「え、洗濯だけじゃなくて、靴磨きのスキルも持ってるの?」
まじまじとローファーを眺めながら訊ねる。ティリスは何も言わず笑みを浮かべるだけだ。
幸い、昨夜のマッサージのおかげか、足の痛みもない。エルド湖の水、万能薬かよ。
これなら、いつものローファーで行けそうだ。やっぱりJKはローファーじゃなきゃね。
「おはよう、2人とも。早いな……」
アイルが枕を抱えたまま、眠そうに目をこすりながら起きてきた。日曜の朝、アニメを見るために無理やり起きてきた子どものようだ。
ふらふらとこちらにやってくる。寝ぼけ眼のまま、もそもそと足を引きずるように歩いてきて、そのまま私の肩にもたれかかってきた。
「ん……あと五分……」
「いや、もう起きなさいってば!」
あわてて肩を揺するが、アイルは顔をうずめたまま、ぐずるように「むぅ……」と唸る。
なに、この無防備な甘え方。反則でしょ。
「アイル、起きてください」
ティリスが冷静に声をかけると、アイルは「うーん……」と小さく伸びをして、ゆるゆると顔を上げた。
「……ティリス、朝ごはんある?」
「ありますよ」
「やった……」
ふにゃっとした笑みを浮かべるアイルを見て、私は思わず口元を押さえた。
……今の、やばくない? なんかすごく子犬っぽかったんだけど!
まだ目をこすりながら、半分夢の中にいるみたいなアイルを見て、私は思った。
――このままでいい。
彼が時折見せる大人びた表情もいいけど、こういう無防備で可愛らしい一面は、できるだけ長く見ていたい。
いまはこのままでいい。無理に大人になる必要なんて、どこにもない。
「さ、朝ごはん食べたら出発するわよ」
ジャクロウが騒々しく次の問題を持ち込んでくる前に――と、心の中で付け加えた。
***
昨日、よしこを探して歩いた山道を再び進む。遠くで聴き慣れない鳥のさえずりが響いている。
昨日の疲れがまだ抜けきっていないはずなのに、不思議と足取りは軽い。
木々の隙間からピンクと水色の建物が覗く。アイルの父母が暮らす別荘だ。
視界の端に、巨大なトンボがのろのろと進んでいるのが映った。超鈍足のトンボ型チャリ。牛歩戦術かよ。あれで空を飛ぼうとしているなんて、ライト兄弟もびっくりだ。
ちらりとアイルを振り返ったが、とくに表情は変わっていなかった。
――さらに歩を進める。
先頭はティリス、真ん中がアイル、最後尾に私。基本的にしんがりを務めるのは隊長の役目だけど、アイルを最後尾にするわけにはいかないのでこれでOK。
そろそろ休憩したいな、と思ったところで。
視界がぱっと開けた。
振り返ると、エルド湖が広がっている。穏やかな水面が陽光を反射し、光の粒が踊るようにきらめいていた。何度見ても美しい。
その美しさに口笛を吹こうと思ったけど、残念ながら私は口笛が吹けなかった。ひゅう、と空気だけが漏れる。
「結構歩いたね」
空気の音をごまかすように言い、立ち止まってうーん、と背伸びをする。
時刻は正午を過ぎた頃か。そろそろお昼にしてもいい時間だ。
「そうだな。我が国を出てからだいぶ進んだ。食事にしようか」
アイルもエルド湖を眺めながら言う。
――ん?
「え、今なんて?」
「食事にしようか」
「じゃなくて、その前!」
「我が国を出てから……?」
「えええっ!? ここ、もうクレイズなの?」
「ああ。父上の別荘を過ぎると、そこから先はクレイズの領地だが?」
それが何か? と言いたげなアイルの青い目が、不思議そうに私を見つめる。
「って、国境超えた感ゼロなんですけど! 税関とかパスポートとか、何かそういうのは?」
「ぱすぽぉと?」
「国の外に出るときに必要な許可証よ!」
アイルが首を傾げ、ティリスの方を見る。ティリスもハテナマークを浮かべて眉をひそめる。
「アイリの国では、国を越えるのに許可が必要なのですか?」
「そりゃそうでしょ。パスポートがないと……」
――ないと、どうなるんだっけ? そもそも、なんで必要なんだっけ?
「アイリの国にはそういうイベントがあるのですね」
ティリスが興味深そうに腕を組む。
「いやいや、イベントじゃなくて。お約束というかトラベラーズチェック!」
ってなんだっけ? と思いながら口にする。海外旅行の経験がないのでつまみ食いした知識のカケラしか持ち合わせていなかった。
「だって、こんな簡単に他国に入れちゃうなんて……」
そりゃ、他国からの刺客や使者がどんどん来ちゃうわけだわ。納得した。
「国同士の関係が安定していれば問題ないんだがな」
アイルが苦笑しながら口にする。ちょいちょい刺客に狙われてる王様として、苦笑で済ませられる問題じゃないっつーのに。
「そもそも、土地は誰のものでもなかったのに、所有者を決めて区切ったのは人間だろう?」
うわお。国の所有者の頂点にいる王様がそれ言う?
「……まいっか」
私はとりあえず面倒な思考を手放して、美しいエルド湖を見下ろした。
隣の国から眺めていると思うと、そのキラキラした湖面は不思議とさっきより遠くに感じた。




