別に大きく歴史は変わる事ではないがそれでも歴史が変わった話
1793年--
フランスも革命が起こり、皆が国王と言う悪を倒し輝かしい未来を信じていた頃。とある夫婦がいた。
夫婦の名はアルベール・バレ(以降はバレと表記する)とセゴレーヌ・バレ(夫と区別つける為に以降はバレ夫人と明記する)。元は裁判長とナニーだったが数奇な運命によって今ではフランスを革命へと導いた革命政府の議員の一人となった。
そんな彼等はとある子供---ルイ十七世を養育する事となった。
本来は靴屋のアントワーヌ・シモンとその妻マリー・ジャンヌが保護者となる筈だったが、アルベールはシモンが養育者として不適切な人物だと思っており、そんな彼が育てるよりかバレは裁判員であり、バレ夫人ナニーでもあるとしての経験がある自分の方が適任だとダストンに願い出てそれが叶った形だ。バレとジョルジュ・ダントンは同じコレージュ(フランス前期中等教育機関の事)の同窓として親しい仲だった。
そんな訳でルイ十七世は母と姉と叔母がいるタンプル塔から別の修道院へと離れ離れとなり、バレ夫婦が就任する事になった修道院へと移動された。
家族と離されたルイ十七世はバレ夫妻から『シャルル』と呼ばれた。家族と離されたルイ十七世はビクビクと可哀想に怯えてはいたが、バレ夫妻の人柄のお陰で少しずつ馴染みつつあった。
バレ夫妻、特にバレ夫人はルイ十七世(以降はシャルルと表記する)を普通の子供と同じ様に育て、時には家事の手伝いをさせたり、近所の赤ん坊の子守の手伝いをさせた。しかもバレ夫人はシャルルと近所に住んでいた子供達と一緒に勉強させたり遊ばせたりした。彼女はシャルルが何時でも市民として生きていける様に尽力していた。
最初の頃は王宮に住んでいた頃とは違う生活に酷く戸惑っていたが、それでも子供故か不便たが自由な生活に直ぐに慣れ、遂には同年代の市民の子供達と友達になれた。
少なからずシャルルは『良き市民』の道を順調に進んでいた。
因みにだが、シャルル達に見張りがいたがその見張り達はバレ夫妻の知り合いだった為、ある程度の事は黙認していた。
彼はダントンと二人で酒を飲んでいた時に零したそうだ。
『確かに国王は全ての責任を取って貰う為に処刑される事は仕方がない。正直私は反対だが……だが、絶対に王妃は処刑させてはならない。彼女は処刑される理由がないからな。ただもし、もしも何か罪を捏造して処刑に持ち込んだら私達はその事に慣れて次々と無実の人間をギロチンにかけられる気がするんだ』
彼はその事を妻に笑いながら『アイツは相変わらず心配性だ』と話していたが、その彼が罪らしい罪もなくギロチンに掛けられたのは言う訳でもない。
バレの恐れていた通りに王妃であるマリー・アントワネットは処刑をされた。
数多ある罪の中でシャルルに対して近親相姦を行った罪に対してバレ夫妻、特に夫人は激怒した。彼女が懇意にしている新聞に怒りの投稿を行った。
『王妃には愛人がいるのに何故我が子と性行為をするのか! それに被害者であるルイ十七世は否定しています。幾ら王妃をギロチンにかけたいからと言ってやってもいない罪、ましては子と近親相姦など全ての母親、全ての女性達に対する侮辱です!』
この投稿は女性達からの高く支持され、その強さにやむなく王妃の妻から近親相姦が消された。
まぁシャルルにでっちあげの罪を書いた書面にサインをさせるなんてバレ夫妻が許す訳がない。どっちにしてもマリー・アントワネットの我が子への近親相姦の罪の立証なんて夢のまた夢の話だ。
この事は革命政府の議員を激怒させ夫であるバレにも批判の的となったが、ダントンやロラン夫人(バレ夫人とは親しい間柄だった)が取り成した為、なんとかギロチン送りにはならなかったが、マクシミリアン・ロベスピエールの派閥に夫婦揃って嫌われた切っ掛けとなった。
これは後に王妃の見張り役をしていた兵士の日記から分かった事だが、ひと月に二回程お針子当てに手紙が送られる事があり、検閲したらそのお針子の離れて暮らしている子供の様子を事細かに書かれてた物で、兵士はすんなりとお針子に手紙を渡した。
……その手紙を何故か王妃が毎回の様にお針子と一緒に読み、時には涙を流しながら何度も何度も読み返し、処刑されるその日までずっと送られた手紙を持っていたとか。
また、処刑される前日に恰幅の良いシスターが深夜に王妃と謁見したそうだが、謁見している間に男の子の小さな声が聞こえたそうだが、シスターが帰る頃にはその声が聞こえなくなり、代わりに目元が赤くなった王妃と王女の二人がいたとか。
バレは裁判長として公平にあろうとした。公平であろうとして何度も山岳派と衝突する事があった。そのせいで彼の寿命が縮む事となったが、それでも彼の判決によってギロチン送りになる筈が投獄あるいは財産の没収、もしくは国外追放によって命が助かった者が多かった。
その中の一人があの有名なアントワーヌ・ラヴォアジェで、国外追放と言う形で彼の命を救ったが、そのラヴォアジェは残念な事に風邪を拗らせた結果、肺炎となり亡くなってしまった。ただ、最愛の妻に看取られてベットの上で亡くなった事が唯一の救いかもしれない。
山岳派との思惑とは真逆の立場を取るバレを疎む者が多く、特に『死の天使長』の異名を持つルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストと何度も口論している所を目撃されていた。この頃からサン=ジュストはバレの排除を目論んでいたとされている。
バレは山岳派の人間ではあったが、穏健派のジロンド派の人達と懇意にしている者も多く、何とか拗れてしまった両者の仲を修復しようと動いていたが、残念な事にジロンド派の主要メンバーを捕らえられ処刑された。
処刑されたメンバーの中にバレ夫人を救ったロラン夫人がいた。処刑された知らせ受けたバレ夫人はショックの余りその場で気絶した。彼女は使用人に『恩を返せず申し訳ない』と何度も涙ながらに謝罪の言葉を口にしていた。
この頃からバレは夫婦揃ってジロンド派の人間と近い事を理由に疑いを持たれ(これはサン=ジュストとルイ十七世の養育権を奪われた事を恨んだシモンが暗躍したと言われているが定かではない)立場を悪く
なった。しかもこの頃からバレと仲の良かったダントンもロベスピエールと険悪な状態になっていた。
……自分の運命を悟ったバレは夫人にフランスから逃げる様に伝えたが、『自分もこの件と責任がある』と拒否をした。
それから一ヶ月も立たない内にアルベール・バレとその妻セゴレーヌ・バレは逮捕された。これをきっかけにバレは裁判官とルイ十七世の養育権を剥奪される。
バレは『裁判官の地位を使って職権乱用をした』と夫人は『治安悪化の扇動をおこなった』として二人共に死刑判決を下された。
バレは裁判官らしく反論を行ったが、山岳派に妨害されて碌に反論出来なかった。判決を受けた彼はキッと裁判長と判決に関わった人物全員を睨みつけ。
『罪なき人間を法で殺す事は先の国王でもしなかったぞ‼ お前達はまるで民を虐殺する暴君ネロそのものだ!』
と叫んだ。
これは先に死刑判決を受けた自分の妻に対して激怒した故の発言だった。
裁判から二日後にバレ夫婦はギロチンに送られた。ギロチン台に送られるまで二人はお互い寄り添って静かに時が来るのを待っていた。
先に夫人が執行された。
普段は処刑される人物に向かって市民達は口汚く罵るが、夫人にお世話になっている者達の嘆き悲しむ声が多く、ギロチンが落とされた時は失神する者が男女共に続出した。
夫人の最期の言葉は『幼い子供がギロチン台に乗った事がありましたの?』と処刑人シャルル=アンリ・サンソンに尋ねた。サンソンは『乗った事はない』と伝えると夫人は安堵したのか死に顔はやすらかな顔だった。
バレはその場にいた全員に向かって『皆の者、今度は自分や親しい者の首が飛ぶと思え! 今の世は王権の世にもそれ位悪化していると思うが良い‼』と伝えた。
そしてサンソンに『うつ伏せではなく仰向けに寝かせてくれ。自分を殺す刃を最期まで見届けねばならない』と言ってそのまま仰向けの状態で死んだ。彼は最期まで視線も逸らさずに静かに自分を殺す刃を見続けた。
サンソンは日記で『これから先、私は沢山の人を死刑する事になるだろう』と悲嘆し、ダントンは突然の友人の訃報に茫然自失の様子で椅子に座り込み、暫く誰が声を掛けても反応を示さなかった。
バレ夫婦を知っている者は皆二人の死を嘆き悲しんだ。だけど一番嘆き悲しんだのはシャルルだろう。
彼は二度も親を奪われた。その後養育者になったシモンは『ルイ十七世』をタンプル塔に連れ戻し、もう一度教育--と言う名の虐待行為を行っていたが、『シャルル』の事を知っていた見張りや『シャルル』の友人の父親や兄達が厳しい目で見張っていたためにそれ以上の無体を働く事は出来なかった。
その後ダントンもギロチン台に上り、そして山岳派のリーダーでもあったロベスピエール達も同じ様にギロチン送りとなった。両者共にバレの様に碌に反論する事が出来なった。
ロベスピエールと共に処刑された者達の中にシモンがいた。彼の死後は新しい保護者を指名されるまで監禁状態だった上にネグレクト状態であった。
バレ夫妻が一通り自分で出来る事は教えていたが、それでも一人の非力な子供ではどうにもならない事が多かった。
ただ、『シャルル』の事を心配した子供達が大人の眼を搔い潜って清潔な洋服や排泄物を入れる容器、体を拭けるタオルや掃除道具等を渡していた。見張りの監視が厳しくなってからはタンプル塔へ潜入する事が出来なかったが、外から何度も大きな声でシャルルの事を励まし続けていた。そのお陰かシャルルはなんとか生きる希望を持ち続けたのだろう。
ボール・バラスが真っ当な保護者を付けて貰い、やっと入浴や独房の掃除等人としての最低限の権利をやっと取り戻したシャルル。
タンプル塔の屋上越しではあったが、友人達と再会出来た彼はやっと子供らしい笑顔と大声を見せてくれたが、その後体調を急激に悪化した。医者も派遣して手厚い治療を受けたが回復せず、シャルルの最期の願いで姉のマリー・テレーズに看取られて十年と言う短い生涯を閉じたのであった。
この急激な体調悪化には一時は毒殺説も流れたが、近年で解剖した結果結核が死因だと判明。最初の頃は友人達の支援があったとは言え、不衛生な独房で監禁された事と友人達と再会出来た事で張りつめたモノが切れて一気に身体を壊したのが原因であろうと判断された。
アルベール・バレは牢屋越しでサンソンと話をしていた。
「……多分、ルイ十七世の保護者になったのが分かれ目だったんだろうなぁ。王子の保護者にならなければきっと私も妻も明日処刑台に上る事はなかったのだろう。今の政府に見限って二人で逃げる事が出来たのかもしれない」
「……王太子の保護者になった事を後悔しているのか?」
サンソンの質問にバレはふっと笑ってゆっくりと左右に顔を振る。
「いや。シモンが保護者になったらきっとシャルルは惨い仕打ちを受けていた筈だ。セゴレーヌとも話し合った末に決めた事だ。その事に関して後悔はない。……本当に幸せだった」
彼の表情は明日処刑される筈に幸せそうな顔だったとサンソンが日記にそう書き示していた。
悲しい最期を遂げた人が多かったフランス革命時代。それでも最期位はほんの少し救われて欲しいと思って執筆しました。