77 物の怪セツコ
早朝は私だけの時間ではなくなっていた。厳寒の中、屋外のウッドデッキには上半身を露わにしたアシハラの姿があった。私という存在を気にかけることもなく、彼は目を閉じて流れゆく雪原と相対していた。
丸みを帯びた極太の腕。馬の太ももが貼りついたかのような胸。厚みのある脂肪の下では強靭な筋肉が存在しているのがわかった。私はその日もガーデンテーブルに座ってアシハラの肉体と魔力を鑑賞し、彼の強さの秘密を自分なりに分析しようと試みた。
観察を続けると、粘り気のある薄くて白い煙のようなものがアシハラの肉体に帯びているのが見えるようになる。これは防御魔法ではなく、これから始まる訓練の開始を知らせる狼煙のような役割のものだ。白い煙はゆったりとしたスピードでアシハラの頭上に細く立ち昇り始めた。
チラチラと粉雪が舞った。空から降り落ちる小さな氷の結晶はキラキラと輝きながらその数を増やした。やがて視界が遮られそうになるほどの規模にまで発展した粉雪たちは突如として空中でその動きを止めた。
まるで時間が止まったかのような風景の中でアシハラはカッと目を見開き、立ち昇らせていた狼煙を消失させた。すると、動きを止めていた粉雪たちが風巻きながら彼の目の前に集まった。白い輝きを放つ粉雪の集まりは空中に一人の若い女を形成した。
真っ白な着物を着た髪の長いその女は物も言わずにニヤリと笑うと、無数の氷柱をアシハラ目がけて放った。
「はっ!!」
アシハラは吐息だけで迫り来る氷柱のすべてを弾き返した。向きを変えた氷柱は先ほどまで女がいたはずの空間を通り抜けた。
「ウフフフフフ……」
背筋の凍るような身の毛のよだつ笑い声が聞こえた。
アシハラは背後をとられていた。女は笑いながら後ろから抱きつくと、アシハラの肉のついた柔らかそうな頬にキスをした。
女の唇の触れた部分が範囲を広げながら凍り始めた。アシハラは燃焼の魔王技術で頬の凍結を溶かしながら女の腕を掴み、その場で一回転。自らの身体で押しつぶすように女を床に叩きつけた。そのはずだったのだが、女はまたしても姿を消してしまった。
「あっつ!! いや、つめたっ!!」
アシハラは一人、背中に当たる床の冷たさに身もだえていた。防寒魔法をしていなかったのは、オジサンのうっかりミスとしか言いようがない。彼の脳は最初に熱を伝え、少し遅れてから正確な温度を伝達し直したようだった。
「ウフフ……」
女が姿を現して苦しむアシハラを見下ろした。肩を震わせながら笑う彼女の右腕は、透き通った氷の大鉈に変形していた。
女は笑いながら床に背中をつけたままのアシハラに躊躇なく右腕を振り下ろした。
「あっぶないって!!」
素早く横に一回転し、間一髪のところでアシハラは大鉈の一撃を避けた。背面だけを使って跳躍したアシハラは再び地面に両足をつけた。勝負がついたのは次の瞬間だった。
アシハラがものすごい速さで女の懐に飛び込んだ。かと思えば、女の四肢と頭部が濡れた床の上に散らばっていた。
女の胴体だけを魔法で溶かしたのだ。どうやって? 見えなかったのだから、わかるわけがない。結局その日も、私はアシハラの魔力の正体を掴むことができなかった。
「ア、アァ……」
床に転がった女の頭が悲痛な声をあげた。ドロドロに溶けかけた女の表情は涙を流しているようにも見えた。
「ほいほい、っと」
アシハラはその場で手指を動かし、いくつかの形を順番に組み上げた。濡れた床がみるみる乾き始め、着物姿の女の胴体が出来上がった。床に散らばっていた四肢と頭が浮遊し胴体に接合すると、肉体を取り戻した女は確かめるように手を開いたり閉じたりした。
「アァ……」
女はホッとしたような声を出してから宙に浮かび上がった。
「待った待った。セツコ~」
アシハラがセツコを呼び止めた。彼女はアシハラの手が届く距離まで下降してきて首を傾げた。
「はい、今日の報酬。協力ありがとう」
アシハラは袴のポケットから飴の入った四角い缶を取り出し、セツコに手渡した。
「ウフフ、ウフフフフ……」
缶を受け取ったセツコは満足そうに笑いながら大空の中に消えていった。
「……お疲れさまでした。何か、飲みますか?」
「あ~……お願いします」
私は朝の訓練を終えたアシハラにようやく声をかけることができた。
アシハラ曰く、白い着物の女セツコの正体は雪の物の怪らしい。『物の怪』という概念は私にはよくわからないが、それは精霊や妖精よりも、もっと自然のエネルギーに近しい存在とのことだ。
アシハラは毎朝の訓練を欠かさなかった。今日のような物の怪との実戦を交えたものから、座禅を組んだ精神的なものまで、その内容については幅広く執り行っている。
テーブルの上にはショウガとレモンの香りを立ち昇らせた二つのティーカップがあった。私はそのうちの一つをアシハラの目の前に置き、もう一つは自分で楽しむために手に取った。今日はたっぷりとメープルシロップを入れて爽やかな香りを台無しにしてやると、彼も微笑んでそれに続いてくれた。
「刀、今日も使わなかったですね?」
どういうわけか、アシハラという男は訓練で腰に携えた妖刀を一度も抜くことがなかった。私はどうしてもその点が気にかかった。
「抜かなくても分かるから」
返された言葉はそれだけだった。私としては何が分かるのかが分からなかった。きっとそれは一線を越えた者にしか理解できないことなのかもしれない。
頭ではそういう風に理解できても、彼を焚きつけたい気持ちになってしまった。誠に勝手ながら、私は毎回アシハラが刀を使う姿を期待しながら訓練の見物をしているのだ。
「……『刀は武士の魂』なんじゃないですか?」
「う~ん……まぁ、一般の方はよく言うよね? そんな感じのことを」
「じゃあ一般の方代表の私にもわかるように、どうして刀を使わないのか説明してくださいよ」
肯定も否定もしなかったアシハラの言葉に少しだけ嫌な印象を受けた私は、オジサンの濁った瞳でもわかるように大げさに口を尖らせた。
「いや……ごめんね? わかりやすく、か……」
その困ったような笑顔は今日も優しげだった。
「刀ってねぇ……いらないん……だよねぇ? 本当は」
「いらない!?」
意外過ぎる返答に私は彼の表情よりも声を困らせた。
「言い過ぎたかも。でも、今の俺にはあんまり……うん、いらない事には変わりないかな」
ちっとも要領を得ない。なんなんだ、このオジサン。私は頑張ってもう少しだけ話を掘り下げてみることにした。
「それはあれですか? 無駄な部分を省いて、そぎ落としていく、みたいな。そういう類の話ですか?」
どこかで見聞きしたことのある情報を当てはめてみる。アシハラのような実力のある経験者、いわゆる達人と呼ばれる人たちは次第にそうなっていくという話を小耳に挟んだことがあった。
「それは……ただ、老化現象を言い換えただけだよね? 実際、そういうやつって……いるにはいるけど、無駄とか癖がないわけだ。そうなると、こっちの印象には残らない。学べるものがないんだよね。だから、後世にも残るわけがないよね? そういう人間は。その理論を貫いているとしたら、遺すものすらないはずだし。もし、そういう人間が魔法史に残っていたとしても、それはその人の事を理解出来てない周囲の人間がさ、そうやって勝手に勘違いして解釈しているだけの話であって……」
いい加減にしろよ、クソジジイ。さっきから逆の事ばっかり言って。話が長いし、さっぱりわからない。それ以上我慢できず、ついに私は笑ってしまった。
「……アシハラさんって本当、説明が下手ですよね?」
「う……ごめんねぇ?」
アシハラは気まずそうに笑った。
感覚派なのか、口下手なのか、あるいは両方か。きっと私のような一般人がいくら分析しようとも、分からないから達人なのかもしれない。私が分かってしまったら、彼はその時に達人でなくなる。そう解釈することにしよう。
「だから結局、オジサンが言いたいのは……」
オジサンが口を開いた。どうやら要点をまとめてくれるようだ。
「刀には刀の魂がある。俺はそいつを理解してやらないといけない……っていうこと」
言えたじゃないか。つまり、アシハラは刀の魂を理解するために強くあるということだ。……たぶん、そういう事だと思う。
「それって刀だけじゃくて、他の魔道具にも言えそうですね?」
「……刀のみならず、か。ありがとう。良い言葉に出会えた」
若くもなく、容姿が優れているわけでもない。それでも、へんてこな中年侍のアシハラが持っている真心だけは伝わってきた。
もうじきにキラが起きてきて、ここへやってくるだろう。そしたら彼女は、いつものようにアシハラとじゃれ合いを始める。私はゆっくりと紅茶を口に含み、その複雑な味わいを楽しんだ。




