54 『葦原の末裔』
その男は弥終と呼ばれる日本の留置場に拘留されていた。
「一〇七番、引受人が現れた。出ろ」
看守が男の名前を呼んだ。弥終留置場居住・一〇七番。それが今の男の名前であった。
「……おいおい。今、何時だと思ってやがるんだぁ?」
呑気にイビキをかいて寝ていた男は開口一番に不満をあらわにした。留置場の中は最低限の明かりだけが灯され、外は真っ暗闇に包まれていた。
「文句を言いたいのはこっちの方だ。消灯時間中の釈放なんて、今までに前例がない。いいから、さっさと立ち上がって出ろ。そしてもう二度とその汚い面を見せるんじゃないぞ?」
「へいへい、わかりましたよ……」
あまり反省した態度を見せず、男は身に覚えのない身元引受人の正体のことを考えていた。
男の身元を引き受けたのは30代半ばの魔女だった。赤いフレームの眼鏡をかけている以外は装飾品はしていない。髪は束ねられていて清潔感があり、化粧は抑えめで美人だったが、どことなく神経質そうな表情をさせた女だった。男は記憶をたどったが、その魔女との面識は一切なかった。手続きはすでに済ませていたのか、その魔女は黙って自分についてくるように動きだけで男に指示した。男も黙ってそれに従った。
敷地外に出て留置場の壁が明るく照らされたところまで歩いてくると、やっとのことで魔女が口を開いた。
「それにしてもくっさいわね!? 信じられない!! オッサンだし、デブだし、小汚いし、本当にあなたが葦原の末裔なの!?」
それは男が期待する罵倒の言葉だった。魔女の口にした言葉は事実であり、拘留されるまで男は浮浪者同然の生活を送っていた。
「タバコくれ。そしたら質問に答えてやる」
腫れぼったい厚みのある瞼の下で、瞳をドロリと濁らせた男が笑いながら言った。男は身につけている物もボロボロで、ボサボサに伸びた髪は乱れに乱れ、髭や体毛も整えられておらず、目も当てられない姿をしていた。
「ダメ。まずはお風呂に入ってもらいます。こんな状態でお嬢様に会わせられないわ。ちゃんと見れるように身なりを整えて、タバコはそれから」
「ふーん。じゃあ、俺の返事もそれから」
「お好きになさい!! 外神財閥の令嬢の前でも、そんな態度が取れるものならね!?」
「外神……?」
住居、財産、戸籍、そして名前。売れるもののすべてを売り払い、売れないものはすべて捨て去っていた男は世の中の流れに疎かった。男のような存在を魔法社会は『見放されし者』と呼んだ。そんな男でも外神の名前は知っていた。むしろ日本中で、その名前を知らない者はいなかった。
「そんな大金持ちが”見放されし者”に何の用があるんだ?」
「質問は許しません!! また留置場に戻りたくないでしょう!? 黙ってこちらの指示に従いなさい!!」
「たまんねぇなぁ……」
すでに魔女は男に狙われていた。そんなことは露知らず、魔女は相手の異質な魔力に気付きもせずに態度を一貫させてしまった。
「いい!? それ以上無駄口は叩かないで!!」
「すまんすまん。そういう意味じゃねぇ。あんた、いい女だなぁ?」
「悍ましいこと言わないで!!」
女がヒステリックに叫ぶと男は恍惚とした表情を浮かべたが、それ以上は何も喋らなくなった。やがて上空から降って来た巨大なイヌワシが音もなく二人の事を掴んで再び夜空に舞い上がった。
とある高層ビルの屋上で降ろされた男は、ヒステリックな魔女に言われるがままにビルの中まで連れられ、建物内にある一室で身なりを整えさせられた。もともとの容姿があまりよろしくないためか、髪の毛や着ている物が綺麗に整えられても、全体的に不格好で見違えるように変わることはなかった。
身だしなみを整えた男は同じ魔女に今度は無機質な部屋へと案内された。左手側に設置された大きな窓の外ではビルの群れが夜の闇の中で光り輝いていた。室内は天井も壁も白一色で染められているが、床には一本の赤い絨毯が敷かれ、一番奥の一段高くなった場所までそれが続いていた。何人もの魔法使いたちが赤い絨毯を挟んで横並びで立ち、一段高くなった場所では誰も座っていない緻密な装飾の施された一脚の椅子が重々しく佇んでいた。
「皆で椅子取りゲームでもするのかな? 大丈夫? 君たちみたいなものは負け慣れてないんでしょ? おじさんに負けちゃったら、君たちの精神は保てるの?」
「いい加減にして!! くだらない事を言うのはやめて、そこに立って!! 黙って待ちなさい!!」
男は魔女に言われたように椅子の置かれている一段高くなった場所の少し前に立った。その様子を見届けると、ここまで案内を務めた魔女は大げさなため息をついてから魔法使いたちの隊列へと加わった。列に並んだ全員が睨みつけるような視線を男に送った。男は一人一人と目を合わせ、笑いながら手を振ったり、ウインクをしたり、投げキッスをしたりした。
まもなく、男を付き従えた若い魔女が椅子の前に転移して現れた。
男の方は身の丈七尺はあろうかという大男で、1本の毛も残さず綺麗に剃りあげられた頭髪が特徴的だった。サングラスと前開きのシンプルな黒のローブの他に余計なものは身につけておらず、いつでも戦闘態勢に入れる恰好をしていた。
若い魔女の方は長く艶やかな髪を腰まで伸ばしていて、一直線に切られた前髪の両端は体格に合わない豊かな胸元まで伸ばされていた。黒目が大きく、左目にある泣きぼくろは女の持つ憂いのある雰囲気を際立たせていた。右腕には星と月がモチーフとなったチャームブレスレットのようなものをしていて、ローブは暗い紫色の生地に黒の籠目があしらわれたものを着ていた。
若い魔女は優雅に座り込み、大男がその動きに合わせて椅子を動かした。大男は座った魔女の右後方に位置取り部屋全体を視界を入れると、背筋も視線もまっすぐ伸ばしたままピタリと動きを止めた。
「お待たせして申し訳ございません。はじめまして。外神桜子と申します。貴方が葦原の末裔の方ですね?」
「はて、どうだろうねぇ?」
男はとぼけ続けた。微動だにしない隊列の中でピクリと反応した魔女が一人だけいた。
「お戯れは結構ですわ。とうに調べはついておりますの。だけど、どうしてもわからない事があります。失礼ですが、貴方お名前をお持ちではないのですか?」
調べれば調べるほど、桜子は男の特異性に気がついた。男は名前はおろか、住所も戸籍すらも売り払っていた。かといって、借金をしていて金に困っているわけでもなく、まるで自ら望んですべてを捨て去るような行為をしていた男の過去は不気味ですらあった。男の経歴は裏社会にわずかばかり残された断続的なものと、日本各地で起こした軽犯罪による投獄履歴だけであった。
「名前? お嬢ちゃんにはわからないかもしれないけど、侍には何もいらねぇんだよ。ただ侍う所だけがあれば生きていけるのさ」
「……『無我』ということですか。お侍様ですものね?」
桜子は、しばし考えてから再び口を開いた。
「決めました。今日からあなたの名前は無我です。葦原無我と名乗りなさい」
「そりゃど-も。それよりもタバコをくれ。俺を迎えに来たあの姉ちゃん……名前なんて言うんだ?」
無我は自分を迎えに来た魔女を指差して、桜子に聞いた。
「椿のことですか?」
「ああ。約束したのに、あの椿ちゃんがタバコくれなかったからさ」
「タバコよりも、もっといいモノがありますの」
「待て待て。待てよ、お嬢ちゃん」
せせら笑いながら無我が桜子の話を遮った。
「約束も守れないやつの話なんて聞けねぇ。さっさと出しな?」
「……金剛」
桜子が指示を出すと、彼女のそばにいた大男が懐からシガレットケースを取り出し男にタバコを渡そうとした。
「へへっ。ありがとさん」
無我はシガレットケースを自分の手に引き寄せタバコをくわえると、火も出さずにその先端だけを燃焼させ、吸った煙をゆっくりと吐き出した。
「……こんな不味いタバコ、どこで売ってるんだ? ニオイも味も、口当たりも、品が良すぎてまったく趣を感じねぇ。まあ、しゃあなしか。はいっ、それじゃあ続きをどうぞ?」
ふてぶてしく煙をくゆらせている無我を快く思う者は誰一人いなかった。この場での処刑を願う魔女すらいた。ただ一人、プライドをかなぐり捨てて彼に縋ることを決めていた桜子だけが、その不遜な態度を許した。
「金剛」
またしても名前だけ呼ばれた金剛が、今度は黒く塗られた鮫皮の鞘に納められた一本の刀を懐から取り出して桜子に手渡した。
「あ~……なるほどぉ……」
刀を見た無我は合点がいった様子で、吸っていたタバコを床に投げ捨て足で揉み潰した。彼はその場に片膝をつけて桜子に向かって首を垂れた。桜子はそれまでに積もりに積もらせた鬱憤を笑顔に変えて無我に向けた。
「これを渡す前に、あなたが本気で私に仕える覚悟があるのかを試させていただきます」
「……なんなりと」
「外神家に反目する仙王寺と呼ばれる一族がいます。この者たちが組織する反社会的勢力を討ち滅ぼしていただけるかしら?」
「承知」
立ち上がった無我が真っ先にしたことは、隊列の中にいた椿に近づいて声をかけることだった。
「俺の妻になって葦原の子を産んでくれないか? こんな小娘に仕えるのも、そろそろ潮時だろう?」
無我の処刑を願っていた椿は勝ち誇った笑みを浮かべて彼に言った。
「いいわよ? もしも、あんたが生きて帰れたらの話だけどね?」
「小娘?」
「行ってきま~す!!」
かくして『葦原無我』としての新たな生を受けた男は夜の街へと消えていった。仙王寺家とそれに関わる組織がこの世から消滅したのは夜が明ける前の事であった。




