40 船旅が始まった
私はプールサイドに並べられたラウンジチェアに腰掛け、豪華客船の旅を全力で楽しむ皆の姿を眺めていた。大賢者は水着姿で私の隣のチェアに横たわり、プールで遊んでいる子供たちを見ながら煙草を吸ってアイスまで食べている。太すぎず細すぎず、無駄のない締まったその体は傷ひとつない綺麗なものだった。
一方プールではキラとピィちゃんが魔法で水を操り、お互いを攻撃し合いながら遊んでいた。鼻に水が入っただの、水着がめくれるだの、窒素するだのと、主にキラが大騒ぎしている。彼女の杖は水に浸かっても大丈夫なのだろうか。もしダメだったら、後でちゃんとケアしてあげることにしよう。
「ところで2週間もの間、何をすればいいんですか?」
船の目的地であるバンクーバーまでは2週間かかる。今にして思えば、絶対にもっと早いプランがあったはずだが、33日間という絶望的な数字を最初に提示された私は冷静になりきれず、彼が発見したこのプランを受け入れてしまった。
「えぇ? 別に何もしなくたっていいよ。 寝てりゃあ、着くんだし」
大賢者は小さなテーブルの上に置かれた大容量のアイスの箱から直接スプーンで中身をすくって口の中に放り込んだ。
「そんな食べてて、よくその体型が維持できますよね?」
「まぁね。その分、魔力消費してるし。お前は痩せすぎだけどな?」
「いや、これでもかなり……あなたの食事管理のおかげで肉が付きましたよ。あ、ちょっと!!」
大賢者とキラに誑かされて買わされた、布面積の少ない水着姿を隠すために羽織っていたサマーカーディガンを白くて細い手がめくろうとした。
「なんで隠す? タルの水着、見たいのに」
その手の犯人はキラだった。遊び飽きたのか、プールの中にはピィちゃんだけが残っていた。彼女は私の腰掛けるチェアに座って密着してきた。このところ彼女はエロスへの興味が激しくなってきていた。その対象が私に向けられたのだ。
「どスケベ水着見たいよなぁ……でも、ダメだよ。タルが見ていいって言わないと、犯罪になっちゃうから」
大賢者がキラに優しく世の中のルールを教えた。私も私で、どうしてこんな水着を買う決断をしたのかといえば、人生初の豪華客船の旅に驕り昂りの気持ちがあったことは否めなかった。結果、身の丈に合わない自分の姿に後悔している今がある。
「うるさい。お前みたいな筋肉はキライだ」
今日の喧嘩はキラの方から口火を切った。
「なんだおめぇ!? ゼノなんか本性あらわしたら、もっとバキバキだろうが!?」
体を起こして全力で少女の相手をする成人男性は、私が知らない間にピィちゃんの真の姿を彼女に対面させた事がある旨の発言をした。
「うん。だから、アレもキライ。私はもっと優しそうなムニムニが好きだ」
過去の事もあり、キラはすでに嫌いな男のタイプが出来上がってしまったようだ。ひとつの可能性を潰した大賢者の罪がまたひとつ増えた。
「……あっそ。じゃ、ユリエルにでも会いに行くか?」
罪の意識からであってほしいが、とりあえずのところ引き下がった大賢者は弟の名前を出した。
「ユリエルはムニムニなのか?」
「おう。この前コンビニで買ってやった、あんまんよりもふっかふかよ。なにせ、俺の弟だからな」
最後の自慢はちょっと意味がわからない。それに、ムニムニとふかふかは違うんじゃないだろうか。
「ユリエルは優しいのか?」
「そりゃもう、ユリエルの性格は界隈では有名よ。砂糖よりも甘いなんて言われてる。間違っても惚れるなよ? 妻帯者なんだから」
「だったら、会ってみたいな……」
キラが期待を込めて頬を紅潮をさせた。汚い大人がいたいけな少女に、また無責任に夢を見させている。この始末はどうつけるつもりなのだろうか。ユリエルとあまり喋ったことはなかったけれど、優しそうな印象もなかった気がする。ユリエルに関しては大賢者と正反対の、あまり喋らない知的な男だったと記憶している。
「いつか絶対に会わせてやる。それまではこの写真で我慢しろ」
大賢者は何もない所から1枚の写真を取り出し、キラに手渡した。呪いによって姿が変わったユリエルの体格に驚いているのだろう、キラは口を開けて写真を食い入るように見つめていた。
「……良い」
感想の後に、じゅるりとよだれをすする音がした。
「えっ?」
思わず困惑の声が出た。キラはまさかのそっちの趣味だった。
「なかなか見どころのあるやつだな。写真だけで弟の良さがわかるとは」
大賢者は満足そうに笑ってアイスを頬張った。
「隣の女はこの前の小さき者か?」
キラは写真を傾け、私に確認してきた。写真には仏頂面の恰幅のいい大男と、その大男の身体に満面の笑みでしがみつくように抱きついている小柄な女性が一緒に写っていた。
「そうだね……」
すごいな、この写真……。写真に写る二人の性別から表情から体型から、すべてが正反対だった。
「……だったら、チャンスかも」
何がだろうか。キラは一人で何かを企み、勝手に好機を感じていた。
「弟の妻のメアリーだ。会った時は気をつけろよ? そいつ、お前の魔法が一切効かんかもしれん」
またわけのわからない、新しい情報が舞い込んできた。メアリーにキラの魔法が通じないとは、どういう理由があってのことなのだろうか。肝心のキラは写真に夢中になって話を聞いていなかったが、私はその話に大いに興味を惹かれた。
「知りたいか、タル?」
大賢者が私の心を読んだかのように尋ねてきた。
「……それって、この前言っていた、完全耐性の話とはまた別のものという事でしょうか?」
「そうだよ。残念だが、こっちについてはまだ研究中だから、詳しい事は言えない。だが、条件によっては俺やお前の魔法も通じなくなる可能性すらある。どうだ? アレキサンダー家の嫁は恐ろしいだろう?」
「……はい」
それが本当ならば、恐ろしいなんてものじゃない。神格に対する完全耐性持ちで、魔法が効かない魔女なんて聞いたこともない。完全にしかるべき機関の研究対象になる存在だ。
「……だから、アレキサンダー家は彼女の事を?」
「さぁな。母親の考えることなんて、俺にはわからん。ただ、もしメアリーに余計な手出しをするような輩がいれば、俺たちは一家全員でそいつを叩き潰すことになる」
それを聞いて胸をなでおろした。アレキサンダー家の強力な庇護のもとに入った彼女の存在を知り、連れ出せる人間なんてこの世に存在しない。ごくわずかに可能性があるとすれば、もう一人の大賢者ストラデウスぐらいのものだが、それでもおそらくは領主の特権を持ったティナ・エーデル・アレキサンダーには敵わないだろう。
「……いいなぁ」
緊張感のある会話の横でキラはうっとり写真を眺めながら、メアリーの事を羨む声をこぼしていた。
日が落ち、夕食後の晩酌の時間になってもピィちゃんはプールから上がってこなかった。
「大丈夫なんですかね、あれ」
プールに浮かびながら夜空を眺めるピィちゃんの姿を、私は客室内の窓からじっと観察していた。
「元はタコだからな。あっちの方が落ち着くんだろ。あんまり見てやるなって」
大賢者の興味は他にあるようで、船内の案内図と各施設の紹介が為された小冊子を熟読していた。
「おいっ、タル!! カジノがあるってよ!!」
興奮気味に彼が訴えかけてきた。
「行くならお一人でどうぞ。間違っても、子供たちを連れて行かないでくださいね?」
「え~……一人じゃ、つまらないじゃんか」
意外なことに、彼は私と一緒に行きたかったらしい。
「キラも今なら寝てるから、パパッと行ってドカッと勝ってすぐに帰ってくれば、大丈夫だって」
どうやら勝つ気しかないらしい。普通の人間だったら、見通しが甘いの一言で済む発言だが、彼の場合は本当に負けなさそうだから怖い。
「私たちがいない間に子供たちに何かあったら、どうするつもりですか?」
「なにかって、何だよ?」
「例えば……誘拐とか」
「そしたらその誘拐犯は、この世に生まれ落ちたことを後悔することになる。事件は無事解決じゃないか」
「そうじゃなくて……」
この人の問題点は多い。今回の場合、誘拐された側の子供たちの気持ちにまったく添えていない。
「置いていかれた側の気持ちのことも、考えてあげてください」
「なるほどね……それが結婚か。ますます萎えてきた」
この人、ソフィーさんとの結婚に対して前向きじゃないのだろうか。そんな疑問が湧いてきた私は、保留にしていた問題のことを思い切って彼に聞いてみることにした。
「私と一緒に……同じ部屋で過ごしたり、旅をしてて、ソフィーさんは大丈夫なんですか?」
「まぁ……喧嘩する度に一生蒸し返されるだろうな」
まったくダメじゃないか。この人、なんでこんなに平気でいられるのだろうか。
「どうします? 今からでもソフィーさんのところに戻って、彼女のことも一緒に連れていくというのは」
「ないないないないない!! それだけはないぞ、タル」
大賢者は強く、幼稚に否定した。
「どうして……」
私は半ば脱力するように声を漏らした。
「わからないか? 俺たちは今、アイツに一生蒸し返されるほどの旅をしているんだよ。一生だぞ? この価値の高さに気付いてくれよ」
「そういうの、詭弁って言いません?」
「言わなーい。それに、これは俺の独身最後の浮気旅行みたいなもんだからな」
「浮気って……」
彼とそういう関係になった事実はないし、もしそうなったら私の命がソフィーさんに狙われることになるので、これからもそういう関係には絶対にならない。ならないけれど、実際彼は私の事をどう思っているのかは、ずっと気になっていた。
「私と……そういう関係をお望みですか?」
「……」
大賢者が私の目をじっと見つめてきた。冷たく隙の無かった以前の目つきよりも、ずっと温かみのある人間臭い目つきになっているような気がした。ふいに彼は口元を緩めた。
「……ふふっ。いや、今の聞き方はなかなか良かった」
彼はウンウンと頷き、なにやら一人で納得した様子を見せた。
「勘違いしてほしくないが、1年前の俺だったら、間違いなくお前に手を出してたぞ? ただ、今の立場の俺からすると、安易にお前に手を出すよりかは、もっと違う形で交流を深めた方が未来が明るい事に気が付いた。俺にとっても、お前にとっても」
また回りくどい事をいってくる。仕方なく、私なりに内容をかみ砕くことにした。1年前に出会っていたら、私は彼に簡単に抱かれていた。これは紛れもない事実だろう。世界一腕の立つ美しい男に誘われたら、断る魔女なんていない……キラやメアリーように特別な趣味を持っていなければの話だが。そして、彼の言う現在の立場とは、公的なものか私的なものかで大いに変わる。私的なものだとすれば、ただ単純にソフィーさんが怖いというだけであり、公的なものだとすれば、実際のところ何が言いたいのかはよくわからない。大賢者という立場にいる彼に、私の力が必要になるとは思えないからだ。
「難しい事考えるなって。カジノの代わりにあっちで高そうな酒でも漁って一杯やろう」
私たちは客室に備え付けられたミニバーで豪華客船での初めての夜を過ごすことにした。カナダまであと13日。陸で過ごしていた時よりも少しだけ、時間が早く流れているような気がした。




