10 ホットスプリング
駅に着くなり、私は急いで列車を降りようと立ち上がった。
「おいおい、そんなに急ぐなって」
大賢者は自分の寝台に寝転んだまま、動く素振りすら見せなかった。
「だけど……」
私は列車の乗組員や関係する従業員への迷惑の事も考え、あまり長居はしたくなかった。
「今降りても、人でいっぱいだろう? そんなところに俺が姿を見せたら、どうなると思う?」
私がもう少し若ければ、スーパースターは大変なんだな、とでも思ったかもしれない。残念ながら今の私には、彼の理屈が全く理解できなかった。
「いや……変装すればいいじゃないですか」
私の目の前にいるのは大賢者だ。それぐらいの事は朝飯前のはず。というか、現に私の家に来る途中に立ち寄ったピザ屋で変装をしたと、彼自身が言っていたはずだ。
「えぇ~?」
子供みたいにぐずり始めようとも、目の前の成人男性の考えは私にはさっぱりわからなかった。
「だってぇ……せっかくアイスランドまで来て、そんな事させるのぉ?」
「……わかりましたよ」
呆れた私は自分の寝台に座りなおし、彼の気が済むまで付き合うことにした。
「これから、どこへ行くのですか?」
「温泉コテージ」
「はい? ドワーフのところじゃないんですか?」
この旅の目的は彼の結婚指輪の入手だ。そのためにこれからドワーフのもとに行って、指輪制作を依頼する。その予定はどこへいってしまったのだろうか。
「言っただろう? 超ゆっくり旅をしてやる、って」
「はぁ……」
この男の気まぐれは、いったい何を意味しているのだろうか。私は勘ぐってしまった。一見気まぐれに見える彼の行動には、ちゃんとした意味がある時もある。『も』ということは、無い時も当然ある。つまり、考えるだけ時間の無駄なのである。
「温泉は好きか?」
「いえ、私はあまり」
私は正直に答えた。
「人に裸を見られるのが辛いか?」
「まぁ……そんなところです」
「じゃあ、俺と入るのは?」
「絶対無理です」
お馴染みのやり取りだった。大賢者は温泉や浴場のある場所に行くと、必ず一緒に入ろうと提案してくる。というのも彼は素っ裸で殴り合いとかをする人なので、羞恥心というものが世間一般とは大きく異なっているのだ。
「ふふふ、困ったな。バレないように覗いちゃおうかな」
「ご自由にどうぞ」
大賢者は当然スケベだが、今回の場合は彼が本気でも冗談でもどちらでも良かった。私は彼からの悪意ある魔術を防ぐ手段を持ち合わせていない。だから、こちら側が認知できなければ、それはもう勝手にしてもらって構わない。毎回そんな心づもりで、私はこの人に付き合っている。
「俺はお前のおっぱいの形、結構好きだけどな? 性格と同じでツーンとしてて」
私は寝台の備え付けの枕を掴み、大賢者の顔を目がけてそれを投げつけた。彼は私の攻撃を避けようともせず、クソガキのように笑っているだけだった。
荒涼さの中にも静かなる自然が美しく広がる、おそらくこの国でしかみられない独特の風景の中に件のコテージはあった。周りには他の建物は一切なく、私たち以外の人間の気配すらしなかった。その建物は遠くから見ると、とても小さく見えたが、実際に近づいてみると中規模なログハウスといったところだった。建物は塗料の使われていない丸太が積み重ねられて構成され、中にはきちんとした寝室もバスルームもあり、ダイニングキッチンも、一通りの家具までもが揃っていた。バスルームとは別に屋外に温泉が付いていて、温泉は外から見えないように壁で囲われていた。このような環境でいったい誰が覗き行為をしてくるというのだろうか。内部に犯人がいた場合、こんな壁では防げないのだから、もっと意味がない。とはいえ、バカンス慣れしていない私にとってコテージの整えられた環境は大変ありがたいものだった。
大賢者の勧めもあり、私は早速屋外の温泉をピィちゃんとともに楽しむことにした。
「ピィッ!!」
久方ぶりに最愛のピィちゃんの体を念入りに洗ってやる。人間で言えば5歳児に相当する体重と身長。性別はオスのようで、人間のように性器も肛門もきちんとついている。もちろんそれらは体の大きさ相応の儚いモノだ。人間とまったく違うのは顔と肌質で、滑りはないが軟体生物のような柔らかな皮膚はなんとも癖になる感触をしている。体色は透明がかった青みの強い黒色。顔はポカンとした表情が骨になったかのような間の抜けた表情をしていて、瞳だけが白く輝いている。この瞳の動向でこちらに感情表現をしたり、コミュニケーションを図ってくる。ちなみに
「ピッピッ」
お尻を洗うと、こういう鳴き声。
「ピュイ~~ッ」
性器を洗うと、こういった鳴き声をあげる。
「はい、終わったよ。お風呂は?」
体の洗浄が終わり、返事はわかってはいたが一応聞いてみた。
「ピピピ~」
ピィちゃんはそそくさと浴場から出て行った。冷たい水の方が好みで湯に浸かるのが嫌いなのは変わっていないようだった。
「ふふっ……さて」
一人残された私は今度は自分の体を流すように洗い、野天に晒された温泉へと足を突っ込んだ。
「くっ……」
寒空の下の湯が肌にしみた。こらえながら一気に肩まで浸かり、空を見上げた。
「ふぅ~~……」
肩の力を抜き、曇天の空を見つめながら、私は彼と出会い異世界へと降り立った時の事を思い出した。
レオナルド・セプティム・アレキサンダーはこちらの説明を最後まで聞くことなく、自らが生み出した異世界へとつながるゲートに仲間を連れて飛び込んだ。私は慌てて彼らの後を追った。
『……あれぇ!? キミ、ついてきちゃったのぉ!?』
異世界に降り立って、彼の第一声がこれだった。
『別にいいけどさぁ……再生の丸薬はちゃんと飲んでから来たのか?』
ゲートに入る前、大賢者はアランに再生の丸薬の入った小袋を渡した。が、そんなもの飲んでいる暇はなかった。もっとも、自分にかけられた呪いを解くつもりが無かった私は彼の言葉に頷いて肯定をした。
『そうかそうか』
彼はニコニコしながら近づいてきて私の肩に手を置いた。次の瞬間
『……てめぇ、俺を舐めてんのか?』
である。友好的な顔つきは鬼の形相に変わっていた。肩に置いてあったはずの彼の手は、気がついた時にはすでに私の喉元を捉えていた。そのまま片手で体を持ち上げられた私は、まばゆい白い光に包まれた。
『だと思った。他の奴らとは少しだけ違ったもんな』
神業だった。私にかけられた呪いを詳しく調べもせずに彼は一瞬で解いてしまったのだ。彼の手に大地を踏むことを許された私は自らの体を触って確かめた。髪の毛も、顔も、鼻も、口も、舌も、手も、足も、肉体のすべてが呪いをかけられる前の状態に戻っていた。
『特防課の一般魔女君、これからよろしく頼む。ところで……君の名は?』
私の名前については出発前にアランがそれとなく彼に伝えていたのだが、彼がそんなものを覚えるはずもなかった。
『……イシュタルと、申します』
私は人生で初めて恐怖を感じながら自己紹介をした。
『長いな。タルにしよう。いいかい、今日からお前の名前はタルだよ?』
彼は勝手に略称まで授けてきて、力強く握手をしてきた。
『よろしく。あ、それと俺と一緒にいる時は嘘をつくなよ? もし次やったら、本気で怒っちゃうからな?』
こうして私はその旅の記録員として正式に彼の一団に帯同することになった。
「ふっ……」
彼との出会いを思い出して鼻先から笑いが漏れた。彼はちっとも変わらないし、これからもそうなのだろう。だけど……。
「タル~!! 晩メシ、何がいい!?」
建物の中から彼の大きな声が聞こえた。
「任せますよ!! 私は全然、何でも大丈夫ですから!!」
「じゃあ~、しゃぶしゃぶ用意してくるわ~!! 一応、魔法で保護しておくからな~!?」
「は~い!!」
なんなんだ、まったく。口を開けば、すぐに食事の話ばかりして……『しゃぶしゃぶ』って何だろう。私は呆れながらも、大賢者の用意する未知の夕餉に期待しながら、平穏な時間にその身を預けることにした。