1 秘匿戦争
コーヒーを片手にダイニングテーブルについた私は、いつものようにラジオをつけた。
『……続いては、おめでたいニュースです。先日大賢者になられたばかりのレオナルド・セプティム・アレキサンダー氏の弟であり、大魔導士のユリエル・セプティム・アレキサンダー氏が入籍を発表しました。お相手は一般の魔女の方ということです。アレキサンダー家といえば超がつくほどの名門ですが、大のマスコミ嫌いとしても有名です。しかし我々は今回、特別にご本人からメッセージをいただくことができました』
スピーカーから聞き馴染みのある名前がポンポンと2つも出た。コーヒーを口に含んだ私は久しぶりに聞くことになる男の音声に耳を傾けた。
【残念ながらマスコミで働くような無能どもには、俺様の言葉は理解できないだろう。だが一応、忠告だけはしておく。弟の幸せを少しでも乱すような真似をしてみろ。その時は……おどれら、ただじゃすまさんど?】
たまらずコーヒーを噴き出した。その音声は期待したものと違う、あの人格破綻野郎の声に間違いなかった。
『……え? あっ、大変失礼いたしました!! 音声の乱れがございました!! 只今の音声はユリエル氏のものではございません!! 訂正してお詫び申し上げます!!』
どうやら放送事故だったようだ。事故ならば仕方がない。すべてを忘れることにしよう。それよりも、ユリエルの声が聞けなかったのは残念だった。少し前までは仕事上の関係で縁のあった男だ。弟の方は兄とは違って……いや、冷静に思い返すと彼も鼻につく態度が目立ったかもしれない。
魔法界の超名門アレキサンダー家。一部例外もいるが、彼らは滅多に表社会に姿を現さないことで有名だ。私の経験と憶測に過ぎないが、そうあってくれ続けた方が魔法界のためになる人たちであると思われる。
アレキサンダー家6代目当主のティナ・エーデル・アレキサンダーは今を時めくポーションマスターで、化粧品や薬など数多くの商品を世に送り出している。また『美魔女100傑』では殿堂入りを果たしているほどの美貌の持ち主としても知られている。
その夫エドガンは非魔法族出身でありながら、我々の社会生活に大きな変革をもたらした発明家だ。生活雑貨から大型調度品まで、いわゆる魔道具と呼ばれるものを次々と発明し、今や彼の発明品を持たない魔法使いは皆無とさえ言われている。
長男レオナルドは大賢者であり、母親譲りの端正な顔立ちを持った危険人物である。他の特徴としては幼稚、大食漢、馬鹿などといった点が挙げられる。
そして今しがた結婚報道のあった次男ユリエル。彼は私と同じ国際魔法警備局に勤めていた時があった。とは言っても配属部署が違い、私は特防課で彼は特攻課。特防課と特攻課は犬猿の仲にあり、彼と直接やり取りをした記憶はあまりなかった。
特攻課との不仲の理由はたくさんあったが、主なものとしては向こう側の捜査の線引きが曖昧だったという事実があった。我々の管轄の事件に突如として割り込んできて解決し去っていく。彼らが介入した後に我々に残されたのは後始末と引責だけ。当然、特防課の人間からすれば特攻課に対する恨みは募るばかりであった。
噴き出したコーヒーを魔法でカップに戻した。コーヒーは噴き出す前と寸分の違いもない状態に戻りはしたが、とても飲める気になどならなかった。
――あの男だったら、きっと何も気にせずガブガブとこのコーヒーを飲む。しかも、気持ちの悪いセクハラ発言をしながら――
私は頭を振って想像した邪悪を振り払った。
こんなことではいけない。彼らとの旅はすでに終わっている。あのワンダーランドはもうおしまいなのだ。これからはちっぽけな、ただの一般人として、この歪な世界を生きていかなければならない。
決意を新たにした私は椅子に深く座り直し、姿勢を楽にしてから目を閉じた。
瞼の裏には鮮明な記憶が甦った。
秘匿戦争というものがあった。
関わったものたち以外は誰も知らない、凄惨な戦いが。
最後の決戦場では鼻をつくような腐敗臭と生暖かい不快な風が吹いていた。
確かに私はあの場所にいたのだ。
いた、というよりも正しくは這いつくばっていた。
悪質な魔界の土は臓器のような熱を帯びていた。
神格に対して耐性を持たない私は、何もすることができなかった。
身を粉にして平和のために戦い抜いても
最後に出来たことはただ傍観することだけ。
魔界の赤黒い空の下、周囲を崖に囲まれた窪地の中心で
山のような巨躯をしたその神格は私たち人間を見下ろして嗤っていた。
醜く肥えたその姿を見ただけで全身が凍りつき
心臓が止まりそうな感覚に陥った。
あらゆる負の感情に支配された私は
立ち上がる気力すらその神格に奪われていた。
見るだけでこちらの精神を奈落の底に突き落とす。
そんな悍ましい存在と対峙してもなお
2人の魔法使いだけはしっかりと地面に足をついていた。
『テオ!! 支援を!!』
ユリエル・セプティム・アレキサンダーはそれだけを叫び
神格の前に躍り出た。
邪悪なる巨躯の前では彼の姿は石ころよりも小さく見えた。
『……我が友の命、決して安くはないぞ?』
溢れ出る怒気を呼び寄せたかの如く
彼は赤紫色の雷を神格に向かって撃ち落とした。
見間違いではなかった。
それは神々だけに許されたはずの
神話の時代の古代魔法『神の光』そのものだった。
その雷に打たれた者は、燃え尽きるまで決して消えることのない炎に包まれる。
そのはずだった。
神格は雷をユリエルに向かって反射させていた。
そのまま雷は彼の腕に着弾し、あっという間にそこから火の手が上がった。
それを見た神格は身の毛のよだつ嗤い声をあげた。
『……ありがとう、テオ』
燃えていたのはユリエルの右腕だった。
自身が燃えているにもかかわらず、彼は涼しい顔をして仲間に礼を言った。
その横顔は実に美しく、これほどまでに精錬なものは見たことがなかった。
『母さん、父さん、申し訳ありません……』
そういってユリエルは燃え盛る自分の右腕を切断すると、
それを頭上に浮かび上がらせ高速で回転させ始めた。
胴体から離れても燃え続けるユリエルの腕は
巨大な火球となって神格の顔めがけて飛んでいった。
神格は一歩も動くことなく火球を飲み込んでしまった。
ユリエルは嗤っていた。
その顔はさきほど聞いた神格の嗤い声が
簡単に記憶から消え去ってしまうほど悍ましいものだった。
隻腕となったユリエルはすぐに動き出し、見たことも聞いたこともない
おそらく儀式の一種と思われる行動をとり始めた。
神格の周りを魔法で飛び回りながら失った右腕を振って
自らの血を邪悪なる存在に浴びせる。
彼は何かを詠唱をしながら延々とその行為を続けた。
神格も黙ってそれを受け入れるわけではなかった。
当たっただけで肉体を分解させる怪音波。
触れただけで身を切り裂く真空の刃。
闇の光による高速の熱線。
ユリエルは神格から繰り出される苛烈極まる攻撃の数々を
直撃は避けながらも一身に受け続けていた。
肉は裂け、血はさらに滲み出し、彼の肉体はみるみる傷ついていった。
負傷をものともせず、ユリエルは表情一つ変えずに儀式を続けていた。
やがて変化が訪れた。
神格が突如として口から火柱を噴き出し始めた。
新たな攻撃手段かと頭をよぎったが、そうではなかった。
神格は口から出る火柱を両手で何とか押さえ込もうとしていた。
ユリエルは元いた場所に降り立ち、遠方に向かって大声をあげた。
『……テオ!! 』
彼の仲間はいつの間にか
我々を見下ろせそうな崖の上に移動していた。
『……後は頼む!!』
そう叫ぶと、ユリエルは神格の顔に一直線に飛んで行った。
辺りには耳障りな低音が鳴り始めていた。
ユリエルが再び『神の光』を招来した。
今度の対象は神格ではなく、自分自身にだった。
自らの肉体を業火へと変えた彼は
口から目から、鼻から火を噴き出している神格の顔面に迫った。
『ただでは死なん!! 貴様も道連れだ!!』
炎と炎が重なった。
瞬間、低い轟音とともに空間が歪み始めた。
ユリエルと神格は空間ごと圧縮されていった。
空間は小さな球体にまで縮むと、数秒後に一気に膨張した。
膨張した空間は即座に弾け、目を開けていられないほどの突風が巻き起こった。
風が止み、私はすぐさま目を開けて現場の状況を確認した。
神格の姿はどこにもなかったが、ユリエルの姿も見当たらなかった。
ただ一人、見慣れない男が地面に横たわっているだけだった。
奇跡というより他なかった。ユリエル・セプティム・アレキサンダーは、あの美しい容姿と引き換えに自らの体内に神格そのものを封じ込めた。彼は世界を救ったのだ。しかし、その功績は誰にも知られることはなかった。
《チュンチュン》
耳障りな鳥のさえずりが部屋に響き渡った。目を開いた私は来客を告げるその音に舌打ちで答え、しぶしぶ玄関へと向かった。