終焉
魔法というものがある。世界に在る現象に纏わる法則にしてそれを操る手段。旧き神秘に触れるための知識にして知恵。かつては御伽噺であったそれは、悪精霊の脅威によって誰の目にも実在するものとして映るようになった。今も百腕巨人だの宙を泳ぐ魚だのと、スフェーンは自分の想像より外側にあった不思議なものを見せつけられている。
アレクサンドルが魔法の戦いに集中している間、スフェーンはただひたすら、地面を這いまわる怪物の腕を斬り続けた。目もなく口もなく、人を殺すためだけに魔法の力で動かされている、生きてはいないもの。百腕巨人の一部にされていた肉塊。血を流すだけ流して、やがて枯れていくもの。それらは力強く暴れ、スフェーンの手足に取り付いて肉を捩じり骨を砕こうとしてきた。全てが異様なものたちだった。
その尋常ならざる怪異を前に、スフェーンは決して膝をついてはいけなかった。そんなもののために、アレクサンドルを害されるわけにはいかなかった。スフェーンの何の特別さもない視界ではアレクサンドルの魔法は理解しきれないが、この主が真剣に国を護ろうとしていることについては、すぐ傍で見てきたので知っている。それだけわかっていれば、無心で剣を振り続けられる。アレクサンドルはスフェーンが守るべき主であり、スフェーンが愛する故郷を守ってくれる魔法使いであり、領主だ。例えスフェーンの力がなくとも一人で全て解決できるかもしれないが、それはスフェーンが彼を支えることを放棄する理由にはならない。重い荷物ならば一人より二人で担ぐほうが楽に決まっている。そういうときに手伝いをするくらいのことは、ただの人間でもできる。この怪物を追い払うくらいのことは、スフェーンであっても、できる。襲い来るものを全て、斬りつけて、投げつけて、徹底的に潰し続ける。
どれだけの時間そうしていたか。やがてひときわ大きな音が響いた後、化け物の腕たちが全て動かなくなった。操り人形の糸が切れたように、完全に停止した。それと同時、アレクサンドルが地面に倒れ伏して――「アレクサンドル様!」スフェーンは慌てて主の状態を確認した。何やらアレクサンドルが扱う魔眼というものは体に負担がかかるものらしいことは聞いているが、それにしても肝が冷える。万が一があっては護衛役の名折れだ。
「息はある……」
意識はないが、目立った怪我は見当たらない。医者の見立てではないので確実というわけではないが、緊急の状態ではなさそうだった。スフェーンがふう、と口から吐き出した息は、思いのほか大きくなった。緊張が解けて、膝から力が抜けていく。
未だ鉱山の奥底で、帰還するまで何も終わったとは言えないのだが、何か一区切りついたような気分がしている。単純にスフェーンも相応の疲弊がある。一度気持ちの糸が切れてしまうと、きびきび次の行動に移るというのもなかなか難しい。あまりにも、くたびれていた。
アレクサンドルの気道確保にだけ気を付けて、スフェーンはそのまま腰を下ろして休息をとることにした。他の仲間たちを探しに行くにしても、巨大イカで移動するほどの距離を歩いていかねばならないのだから、その間アレクサンドルを連れていくにも置いていくにもリスクが大きい。
「ウワなんか腕っぽいのがいっぱいある」
「取り逃したのが結構こっちに来ていたかッ」
そうしているうちにラブラドルたちがイカに乗って戻ってきた。皆どこかしら怪我をしているが、生きているようだ。そして彼らが帰ってきたということは、戦いが終わったということだった。良い報せだった。スフェーンは体を起こして声をかけた。
「お疲れ様です、皆さん」
「兄上はご無事かッ」
「直接攻撃してこようとしてたのは仕留めましたンで、アレクサンドル様も自分も大きな怪我はしてません。でもこいつらの動きが止まったような頃にアレクサンドル様も気を失われて」
ラブラドルもアレクサンドルの様子を確認して、特に慌てなけらばならないような状態ではないと判断したようだった。
「大層お疲れなのだな。こちらでは兄上に魔法で助けていただいた場面がいくつもあったッ。我々の未熟がゆえか……しかし何はともあれ悪の討伐は完了したッ!」
「素晴らしいことですね」
「ああ、勿論、最高の結果だッ。このことを、モリオンに残してきた仲間にも、王都の陛下にも伝えねばならんッ」
仲間たちは皆、それぞれに顔を見合わせた。発光するイカの顔ひとつと、イカスミで発光する顔がふたつと、あとは疲れや怪我でぼろぼろの顔がいくつかあるだけで、冴えた顔は特になかった。日頃からあれこれ考えを巡らせている冴えたアレクサンドルは今は寝ている。
「これって真っ直ぐ上に行けたら外出れるンですかねえ。横は……どこまで続いてるかわからんし」
ホークスの行動によって――多少アレクサンドルの手も加わったが――洞窟の形状は複雑に変形している。現在地がはっきりしない以上、地の底で横に道を掘り進めても出口へ辿り着ける確証が持てない。この洞窟は鉱山の一部であり、鉱山自体は山頂付近の石灰部分を削り取って穴を広げている形状をしている。とにかく上には本来の出口があるのは間違いない。方向感覚が正しいのならば。
「我々は馬車を山の上に置いてきたのですから、上で合っているとは思いますが」
「ホークスに転移させられてから大体何もわからんくなったが……幸いにも我々にはイカという強い味方がいるからなッ! 行けるッ!」
「ありがとうでっかいイカ」
「たくましいでっかいイカ」
「そこから出口を探すわけですが、もし戦いの余波で道が崩れている場合はどのように?」
「……なんとか……穴とか開けられないか? ツルハシはないが代わりは何とでもなるだろう」
「それ雑にやったらもっと崩れたりしません?」
「こんな地の底にいつまでもノンキしていたらどこかに穴を空ける前に崩れてくる可能性もある」
「雑なのはいけないが素早くいかねば」
「おれは素早くは動けないんですけど」
「おまえ足いかれたもんな」
多少胡乱な議論ではあったが、結局のところ、いつまでもこんなところにいられないというのが全員の結論だった。ただでさえ多くの犠牲者が眠る場所だ。折角生き残った自分たちまでその仲間入りするわけにはいかない。
自分たちが降りてきた穴のところから上を見上げる。この部屋自体、アレクサンドルが魔法で洞窟を改変して作り出した空間で、イカが通れるように穴や通路を広げた場所だ。入ってこられたのだから、ここから出ていく分には、出られるだろう。その穴のさらに上には、ホークスに喰い荒らされはしたが、まだ生き残っている光る魚が宙にいるのが見える。その灯火だけでは天井までは見えない――つまり空は直接見えないわけだが、果たして出口を見つけられるだろうか。
「マ、考えても仕方がないッ! 携行食糧にも限りがあるのだッ! さっくり地の底から脱出ッ!!」
仲間たちの中にある漠然とした不安感は、そうしたラブラドルの号令で吹き飛ばされて、皆イカに乗り込んでいく。未だ目を覚まさないアレクサンドルも慎重に乗せて、最後にスフェーンが乗り込もうと一歩踏み出す。そのとき、違和感があって、彼は足元を見た。
「おや」
太い腕が一本、スフェーンの足を掴んでいた。切断された断面から零れた血が、黒く固まり始めている。それがまだ怪物の一部として動いていたものか、すっかり停止したものを歩いているうちに気が付かずひっかけたのか。それに心が宿っているのか、そうだとして、それがホークスなのか、被害者の誰かなのか。何もかも判別はつかなかった。
「あんたが何者であれ、連れてはいけねえよ。死んでンだから、大人しく土の中で寝てろ。地上に出ていきゃあんたみたいなのは怪物でしかないんだ。討つべきものとして滅多打ちにされるのは、もうこれきりにしておきな」
腕を振り払って、改めてイカに乗り込む。死者の欠片はそれ以上、生者を追いかけてはこなかった。




