魔法勝負
ラブラドルたちモリオン調査団を見送って、スフェーンはアレクサンドルを守るために居残った。怪物の縄張りの中である以上どこにも安全はないが、それでも直接相対して踏み潰されるよりはましだ。目に見える範囲で手の届く場所にいてもらわなくては、護衛としてのスフェーンの役目が果たせない。近くにいてさえくれれば、護衛として剣にも盾にもなれるだろう。
先に接敵したラブラドルたちがどうしているか。スフェーンには特別な目などないので何もわからず、ただ無事を祈ることしかできない。アレクサンドルならば把握できることだが、魔法に集中しているところを自分の安心のためだけに邪魔するほどスフェーンは愚かではない。安心というのは、自分こそが主にもたらすべきものだ。それが護衛というものだ。
地鳴りがして、戦いが始まったことを察する。単なる自然現象ではない。これは怪物が暴れている揺れだ。ラブラドルたちが危険の最中に飛び込んだ証明。これから、敵が来る。きっとスフェーンたちのほうにも。
果たしてそれがいつか――スフェーンが気を張っていると、しばらくして仲間たちが向かった先、洞窟の穴の奥のほうから、何かが近づいてくる気配があった。
「……? こいつは……」
穴から這い出てきたのは、腕だった。血を流す、切断された腕。それが個別に意識を持っているかのように、腕一本だけで、うぞうぞと地面を動き回っている。それがスフェーンを、アレクサンドルを狙って飛び跳ね、襲い掛かってくる。
「アレクサンドル様には触れさせない――!」
スフェーンが剣で斬りつけると、大して耐久はないのか、容易く肉を割くことができた。それでもなおゆっくりと這おうとしているのを、手の甲のあたりを狙って剣を突き刺すと、ようやく動きが止まった。
今までこの洞窟で見た魚とはまた別の存在だ。宙を泳ぐのは奇妙ではあったが、あれはあれだけで生き物らしい形をしていたが、この腕は違う。腕だけしかない。目もない、口もない、腕に似た怪物なのではなく正真正銘の腕なのだ。ラブラドルたちが向かった先からやってきたということは、ホークスが操る怪物が、彼らの攻撃をすり抜けてこちらまでやってきたというところだろうか。
詳しい検証を進めるより先に、再び腕がやってくる。断面から血を零しながら、何をどうして周辺を把握しているのか、あるいはしないままに突き進んでいるのか、次々とスフェーンたちのほうに向かってくる。
「どういう理屈で動いてるンだこいつ! どれだけ来ようが触らせんが!」
「その調子で頼む。もうしばらく動けない」
「お気になさらず!」
スフェーンが怪物の腕を相手に斬ったはったを繰り広げる一方、アレクサンドルはその後ろで、大地に身を委ねている。身を護ることは、スフェーンがやると言ったのだから、任せる。アレクサンドルは最前線の仲間の支援だけを考える。
自己を融かし、世界と繋がる。魔法によって何かを支配するのなら、それそのものに近づかねばならぬ。
それは繊細な作業だ。アレクサンドルの持つ過去視の魔眼はあらゆる物事の理解に役に立つが、この大地に染みついた悠久の過去全てを視るには、たかが人間一人の器では足りない。必要な情報だけを選び取り干渉するのでなければ、理想を引き寄せる前にアレクサンドル自身の精神が崩壊してしまう。一切の無駄は許されない。神経を研ぎ澄ませ、貝の石の力を呑み込み、支配の糸を張り巡らせる。
洞窟の中に作り上げたこの一室全てが今、アレクサンドルの城であった。そしてこの部屋が鉱山の一部であるならば、アレクサンドルもまた、同様のものである。ホークスが山の一部として魔法を行使している今、二人は限りなく近い存在だ。どちらがより上手くやれるか。これは魔法使いとしての力比べだ。
魔眼の焦点は限りなく現在に近い刹那の過去、ラブラドルたちの居場所に合わせている。ホークスの動きを視て、ラブラドルたちを襲う洞窟の改変を妨害する。今のところそれは上手くいっている。
ホークスは今、直接アレクサンドルの居場所を改変できていない。せいぜい、手近な場所に尖った岩を生み出しながらラブラドルたちの相手をして、アレクサンドルのほうには怪物の分身を送り込んでくる程度。それは彼に魔眼がないからだ。事前の準備も足りていない。正確な位置を把握しきれず、どれほどの力があれば勝負になるかもわからず、繋がっている通路から尖兵を送り込むだけ。凶悪な怪物に違いはないが――アレクサンドルの魔法のほうが、速い。
――やれる。今ならば。
照準を合わせる位置を変える。範囲をより狭く。山の一部たる、ホークスただ一人に。
◆◆◆
――男の話をしよう。
ハリー王子に拾われて、男は生来の名を捨てた。元より家族にも見捨てられた身であり、他に手を差し伸べてくれるような人間もいなかったので、何ら不都合はなかった。
新たな主は社交界では噂好きとして名が通っているだけあって、あらゆる方面で情報通であり、それを活かすだけの政治力があった。目立つ立場にありながら、隠し事が上手かった。男の処刑を回避するため、見張りの兵士を買収して情報統制をし、処刑当日には替え玉を用意して男を王都から脱出させた。それほど手間をかける価値を見出してくれたことに心打たれ、男は王子に忠誠を誓い、彼の求めに応じてあらゆる仕事の手伝いをすることとなった。
ハリー王子は日頃から王都と領地を行き来している。拠点であるモリオン領は、山の多い土地でよそから人が来ることは少ない。せいぜい出入りがあっても鉱山から算出した石灰を売る商人くらいのものだ。王都からも離れているため、男が潜伏するにはこれ以上ないほど適しているが、それと同時にハリー王子の様々な探究もこの土地に隠匿されていた。政治、経済、戦略、戦術、そして――魔法。
「スモーク家には力が足りない。単なる兵士の数もそうだが、祖父も伯父も母も誰もかれも頭が悪い。唯一誇れるのは先祖の遺産があることだけだ。この金を力に換えねば、スモーク家の悲願は叶わぬ。そのためのあらゆる手段を考えているわけさ」
「魔法というのは、魔法使いでなければ届かぬ領域ではないのですか」
「歴史に伝えられる魔法使いとて人間には違いない。それがどのように魔法を扱ってきたか、幾つか記録が残されている。精霊がどうのこうのと小難しい話はあるが、手順が決まっているものならば、誰でも真似して扱えるはずだ。きみも学者なのだから、心当たりはあるだろう。自然の世界には何か法則があって、条件が合っていれば同じ現象が起きる。魔法もそうさ。現代において魔法使いは王族の前に現れていないが、それはただ誰も真剣に過去の研究をしようとしていないだけのこと。もしもこれが上手くいくのなら、こいつは世界を変革する力になり得るだろうね……」
ハリー王子の考えは、正しいものだった。男はハリー王子の助手として、研究に必要な資料や資材を調達し、それらが王都に知られないよう帳簿の改竄にも協力した。そして過去の記録から魔法について学び、可能な限り試していくうちに、魔法使い特有の目がなくとも、魔法らしいことができるようになった。
魔法には、魔力と呼ばれるものが必要だ。魔法使いの目はないが、これまでの実験の中で、何か特別な宝石か、生き物の血肉があれば魔力の代用になることがわかっていた。宝石については、どれが使えるものなのか、魔法使いでないと区別がつけられないため、当たり外れがあった。鉱山から石灰と共に光る石が採れることがあり、これは概ね使えるものだったが、数が少なかった。血肉ならば、大きな魔物を狩れればそれで充分だが、こちらはこちらで危険が伴う。家畜で代用しようとすると、商人たちの間で金回りや消費先について噂になってしまう。ゆえに知られずに済むことから進めた。男が最初に目をつけたのは罪人の死体だった。誰もその行く末を気に留めない。次は物乞い。薄汚れた相手を助けたがる者はいない。身寄りのない老人。モリオンの地に所縁のない旅人。孤児。さらには救貧院。寄付金を増やしてやれば、自然と余り物を多く出荷してくれるようになった。
そうして集めた素材によって、人々が恐れる魔物を操ることが、その魔物を作り出すことが叶った。世間では第一王子と第二王子の二人が次代の王候補として有力視されていたが、その下馬評を覆すには、怪物さえ従えるだけの力が必須だった。やがて第二王子と同腹の末の王女が頭角を現してきた頃、より強大な力を手に入れる目途が立った。旧き時代に封印された精霊を使役する――これが成功すれば、既存の軍隊など無価値に成り下がる。
問題は、その精霊を呼び出す儀式には、今まで以上に多くの材料を用意する必要があったことだった。力の強すぎるものを制御するのは難しい。呼び出すだけでも膨大な魔力を要求され、そのうえ手綱を握れる範囲に押さえつけるためには適正のある器が必要だった。その時点で、男が調達できる素材には限りがあった。全てを揃えるには、一歩届かない。
「戦力として考えるだけならば、既に成功している百腕巨人の再現体を増やすほうが簡単ですが……」
「だろうね。しかしあれは言うことを聞かせられる魔物でしかない。王都には精鋭の騎士たちもいる。それだけで全てを覆せるほどではないだろう。より強い力を得られる機会があるのなら、それに挑まぬわけにはいくまい。器は適当に見繕う。当てはある」
「さようで。しかし魔力の代替がまだ追いつきませぬ。救貧院からの補充も今月は数が少なく」
「何、心配はいらないとも。捧げものならば向こうから勝手にやってくる。伯父の誕生日が近いからね。母も一度王都からモリオンに戻るし、他の親族も祝いのためだと言って集まる予定だ。親族だけでもそれなりの数だが、皆家臣や使用人どもを引き連れてくる。全員まとめて儀式に協力してもらえばいい」
「お母上までも……?」
「僕に王たるを望むのなら、僕の求めに応えてくれるのが筋だとは思わないか? いかなる無能であれども我が治世の始まり、その礎となれるのなら本望だろうよ。どうせ連中は他に何の役にも立ちはしないのだから」
男は何も止めなかった。ハリー王子の望むままに儀式の準備を手伝い、そして、大地を揺るがす怪物と共に国土を蹂躙しに向かう王子を見送って――そのまま、主を失った。
◆◆◆
魔眼が届いた。魔法使いとしての力量が、敵を上回った。それで目的は果たされる。この瞬間を待っていた。そして。
「――愚かなことを。優れた者が評価されるのが正しいなどと、まるで自分が絶対に優れていると思い込んでいなければ出てこない言葉よ。主を二度も負けさせておいて、とんだ恥知らずもいたものだ。思い上がりも甚だしい」
アレクサンドルが抱いたのは、怒りだった。




