もう二度と譲りません
「なあ、麻由里────優太の親権を譲ってくないか?」
そう言って、離婚届の親権欄を指で叩いたのは────私の夫……というのも腹立たしいけど、配偶者の寺田秋斗だった。
仕事帰りのためスーツ姿の彼は騒がしい店内を一瞥し、コーヒーに手を伸ばす。
じっとこちらの出方を伺う彼の前で、私は眉間に皺を寄せた。
この人、自分が何を言っているのか分かっているの?
優太はまだ二歳で……母親が必要な歳なのに。
大体、離婚することになった原因は────貴方の浮気でしょう!
そんな貞操観念の欠片もない人なんかに、子供を預けられる訳ないじゃない!
テーブルを挟んだ向こう側に居る秋斗を睨みつけ、私はギュッと手を握り締める。
正直、『ふざけるな!』と罵りたい気持ちでいっぱいだが……他の人の目もあるため、我慢した。
『ファミレスだからか、子供の姿もあるし……』と考えつつ、私は小さく深呼吸。
「とりあえず、理由を伺いましょう」
頭ごなしに反対しても相手に納得してもらわなければ意味がないため、私は話し合う姿勢を見せる。
まあ、あくまでポーズだけだが。
可愛い一人息子を渡すつもりなんて、微塵もない。
『絶対こっちで引き取るんだから!』と意気込む中、秋斗────の隣に座る茶髪の女性が、身を乗り出す。
「理由なんて、一つに決まっているじゃないですか〜!優太くんのためですよ〜!ほら、片親って可哀想でしょ〜?子供には、やっぱり両親が揃っていた方がいいと思うんです〜!」
鼻につくほど甘ったるい声を出し、腰をクネクネさせる彼女は────秋斗の会社の後輩であり、不倫相手でもある一条紗奈さん。
ネイルも化粧もバッチリで可愛らしいワンピースを着こなしており、まさに今風のお嬢さんという印象。
とてもじゃないが、育児と家事に追われて辟易している私とは似ても似つかない。
ジーパン・Tシャツというラフな格好の自分を見下ろし、少しだけ惨めになる。
────と、ここで秋斗がコーヒーカップをテーブルの上に置いた。
「大体、専業主婦だったお前がどうやって優太を養うんだ?どうせ、パートの掛け持ちだろ?」
「しばらくはそうかもしれないけど、資格とか取って……それに貴方達からの慰謝料や養育費があれば、当分は問題ないだろうし」
「え〜!?私達の懐を当てにしているんですか〜!?有り得な〜い!母親失格ですよ〜!」
ここぞとばかりに野次を飛ばし、紗奈さんは目を真ん丸にした。
かと思えば、気の毒そうな表情で空虚を見つめる。
「片親で貧乏なんて、優太くん本当に可哀想〜!私達なら、そんな思いさせないのに〜!」
「っ……」
無遠慮に突きつけられた現実を前に、私は歯軋りした。
言い返す言葉が見当たらなくて……。
現状のまま行けば、優太に苦労を掛けるのは確実……。
社会的立場という意味でも、経済的格差という意味でも私は秋斗達に劣っているから。
『そんなの愛情でカバーすればいい』と思うかもしれないけど、それで優太を幸せに出来るかどうかは分からない……。
現実と理想の狭間で揺れ、私は唇を強く噛み締める。
最高の環境を与えてやれない現状が、悔しくて……己の無力さを呪った。
と同時に、秋斗が身を乗り出す。
「麻由里、俺達は子供を作らない予定だ。優太に目いっぱい愛情を注ぐ、と約束する」
『紗奈も実子のように可愛がると言っている』と付け足し、秋斗は真っ直ぐこちらを見据えた。
俺達を信じてくれ、とでも言うように。
確かにそれなら、虐待やネグレクトの心配は減る。
少なくとも、二人の子供と差をつけられて優太が苦しむことはないだろう。
『兄弟が居ない分、優太にお金を掛けてもらえるだろうし……』と考え、私は少しだけ心が傾く。
だが、しかし……我が子と暮らす道を諦め切れない自分が居た。
「お二人の話は、よく分かりました。でも、親権は……」
「麻由里さんのエゴで、優太くんを不幸にするんですか〜?」
断られる雰囲気を感じ取ったのか、紗奈さんはすかさず言葉を遮った。
嫌味ったらしい口調でこちらの弱い部分を的確に突いてくる彼女に、私は思わず押し黙る。
優太の親権者を決めるにあたって、一切私情が入っていないか?と問われれば、答えはNOだから。
「優太くんの幸せ、ちゃんと考えてくれています〜?毒親になるつもりですか〜?」
「っ……」
『自分の幸せのために子供を利用している』という鋭い指摘に、私は歯を食いしばった。
『そうじゃない』と反論出来ない自分が、情けなくて……涙を流しそうになる。
優太の幸せのために、私は親権を手放すべき……?
でも、不倫に走るような人達が親なんて……それこそ、苦労するんじゃない?
紗奈さんは育児経験なんてないだろうし……って、これは私の詭弁か。
親権を得たいがためにそれらしい言い訳を並べる自分に気づき、肩の力を抜いた。
人間としての底の浅さが露呈したようで、ひたすら惨めになる。
でも、おかげで覚悟を決められた。
「……分かり、ました。親権は譲ります」
出来るだけ平静を装いつつ、私は親権の放棄に同意する。
正直、優太をあちら側に渡すのは身を切るように辛いが……しっかりした養育環境と愛情を用意してくれるなら、片親で貧乏よりずっといい筈。
不倫された妻という立場では納得いかないが、そもそも親権問題に不倫は関係ない。
実際、不倫した方に親権が渡るケースもあるらしいから。
「でも、その代わり面会はきちんとさせてください。出来れば、優太の入学式や卒業式にも同席したいです」
『譲るところは譲り、主張するところはしっかり主張しなければ』と思い、私は面会権を求めた。
極力頻繁に会いたいと願う私に、秋斗は難しそうな……そして、とても申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「悪い、麻由里。面会もナシの方向で頼む」
「なっ……!?どうして……!?」
まさか優太と会う機会さえ奪われるとは考えておらず、声を荒げた。
『こちらの主張は正当なものでしょう!』と言い募り、私は身を乗り出す。
ここだけは絶対に譲れない、と思って。
『私の人生から完全に優太を切り離すつもり!?』といきり立つ中、紗奈さんはゆるりと口角を上げた。
「だって、二人も母親が居たら混乱しちゃうでしょ〜?養育にも、良くないだろうし〜!」
「それは……」
確かに母親が二人というのは、世間の常識からかけ離れている。
ある程度、大きくなれば育ての親・生みの親と分別出来るだろうけど……優太はまだ二歳。
そんな違い、分かる訳がない。
『もし、お友達の前で母親が二人居ることを喋ったら……』と悩み、私は顔を歪めた。
周囲に白い目で見られるのは、必然だから。
まだ私や紗奈さんがヒソヒソされる分には、いい。
でも、親の価値観が子にまで影響を及ぼしてしまったら……その結果、仲間外れにでもされたら悔やんでも悔やみきれない。
『でも、優太ともう会えないのは……』と決断を躊躇っていると、秋斗が言葉を紡ぐ。
「今なら麻由里のことは大して記憶に残らないだろうし、紗奈を母親として充分受け入れられるだろう。だから、我慢してくれ────これも、優太のためなんだから」
『母親なんだから、子供の幸せを一番に考えろ』と主張する秋斗に、私は何も言い返せなかった。
至極真っ当な意見だと思うから。
これも、優太のため……私さえ我慢すれば、全て丸く収まる。
我が子は、きっと……幸せになれる。
目に焼き付いている優太の笑顔に、私はそっと表情を和らげる。
まだ苦悩や葛藤は残っているものの、我が子を思えば全て切り捨てられた。
『親権を取りたいというのは、私のエゴ』と己を律し、椅子に座り直す。
「分かりました。面会もナシで構いません。優太のこと、よろしくお願いします」
「ああ」
「任せてくださ〜い!超絶いい子に育て上げちゃうんで〜!」
『私、子供大好きなんですよね〜!』と語り、紗奈さんは明るい笑みを見せた。
一気に上機嫌になる彼女の横で、秋斗はいそいそと親権欄に自分の名前を書き込む。
そしてペンを置くと、おもむろに腕を組んだ。
「それで────慰謝料についてなんだが」
どことなく緊張した面持ちで話を切り出し、秋斗はチラリと紗奈さんを見る。
「悪いのは俺達だから幾らでも払うつもりだが、優太の教育費もあるから……そこだけは配慮してくれ」
『頼む』と言って、秋斗は深々と頭を下げた。
自分達の生活のためではなく優太のためと述べる彼に、私は一つ息を吐く。
……そんな風に言われたら、大きく出られないじゃない。
子供に心底甘い自分を自覚しながら、私はじっと秋斗の旋毛を見つめた。
「……じゃあ、一人二十万ずつで」
興信所の調査費用と同額の四十万を請求すると、秋斗は勢いよく顔を上げた。
『いいのか!?』と目を輝かせ、見るからに嬉しそうな表情を浮かべる。
不倫による慰謝料の相場は五十万〜三百万だから、もっと掛かると考えていたのだろう。
実際、私も二百万くらい吹っ掛けるつもりだったし。
優太を引き取る場合、お金はいくらあっても足りないから。
「財産分与も法定通り、半々で構いません。その分、優太の教育費や遊興費に回してほしいので」
遊び盛りの今だからこそ存分に甘やかして欲しいと思い、私は財産分与の見直しを提案した。
本来であれば、7:3の予定だったのに。
「本当か!?ありがとう!マジで助かる!」
『借金せずに済みそうだ!』とはしゃぐ秋斗に、私は黙って相槌を打つ。
複雑な心境を一生懸命、覆い隠して。
収支がプラマイゼロになっただけで、私は充分。
『私が高望みすればするほど優太を苦しめる』という先入観により、全て秋斗達に譲った。
『悔しくないのか?』と問われれば答えは否だが、母親として出来ることはもうこれしかない。
じんと痛む喉に気づかないフリをして、私は離婚届にサインする。
────こうして、私は寺田麻由里から二宮麻由里に……既婚から独身に戻った。
◇◆◇◆
「……呆気なかったわね」
慰謝料の振り込まれた通帳を前に、私はそっと目を伏せる。
これでようやく、秋斗達と関わらずに済むというのに……気分は暗い。
その原因は言うまでもなく、優太で……早くも不安を募らせていた。
紗奈さんと上手くやれているかしら?
昨日、会った時は随分と緊張しているようだったけど……。
最後に見た優太の顔を思い出す私は、会いに行きたい衝動へ駆られる。
でも、約束は約束。何より、これは優太のため。大人しく身を引くしかない。
今の私に出来るのは、優太に養育費を払うことだけ。
「まあ、たった三万だけど……」
離婚してから日がまだ浅いこともあり、私は無職。
とりあえず色んな会社に面接を申し込んでいるが、書類選考の時点で落とされることもしばしば。
やはり、資格なしの専業主婦には厳しいようだ。
出来るだけ早く仕事について、たくさん稼いで……それで、優太に送る養育費を増やしたいんだけど。
『現実問題、難しいかな……?』と思案しつつ、一人暮らしのアパートを見回す。
そのとき────ポストから持ってきたチラシが、目に入った。
『受験』『資格』と銘打ったソレを前に、私は
「そうだわ。お金に余裕があるうちに、資格を取るのはどうかしら?」
と、閃いた。
慰謝料や財産分与を負けてあげたとはいえ、手元にはそれなりに纏まったお金がある。
当分は働かなくても、生きていけるだろう。
なら、いっそ正社員登用に向けて準備するのも一つの手だ。
もちろん、平坦な道とは言えないでしょうけど、一度挑戦してみないと何も分からないし……何より、無理だったら『パート掛け持ちにしよう』と割り切れる。
自分に正社員として働く力はなかったんだって、納得出来るから。
「そうと決まれば、行動開始ね」
────と意気込んだのが、十八年前。
私もすっかりオバサンになってしまったものの、それなりに充実した日々を送っている。
というのも、何とか司法書士の資格を取って働いているから。
おかげで生活には困らないし、優太の養育費も上げられた。
高校や大学の入学費用まで負担出来たため、親としての役目は一応果たしたと思っている。
だから────という訳じゃないけど、最後に少しだけ……本当に少しだけ、優太の姿を見たい。
後ろから、チラッと眺めるだけでもいいから。
成長した我が子の姿を思い描き、私は成人式の会場へ足を運んだ。
さすがに中へ入るような真似はしないが、周囲は若者だらけのため目立ってしまう。
ごめんなさい、私みたいなオバサンが居たら邪魔よね。
でも、お願い……今だけ、許して。
私は独身で両親とも死別してしまったから、もう家族が優太しか居ないの。
祈るような気持ちで『少しだけ、我慢して』と願い、私は会場周辺をグルグル回る。
が、優太らしき男性は一向に見つからない。
もう十八年も経ったから、外見が大分変わってしまったのかも……。
母親の私なら見つけられると思っていたけど、これじゃあ難しいわね。
満員電車並みに人でごった返した会場周辺を前に、私は『仕方ない……諦めよう』と決意する。
さすがにこれ以上、若人達の邪魔をするのは憚られるため。
『読みの甘かった私が悪いのよ……』と自制しながら、駐車場へ足を向けた。
その瞬間、
「────母さん……?」
と、後ろから声を掛けられる。
何故だかよく分からないが、私はこのとき『優太だ!』と確信を持っていた。
声なんて、幼い頃に比べたら大分変わっている筈なのに。
「優太……!?」
腹の奥から溢れ出す母性に突き動かされるまま、私は後ろを振り返った。
と同時に、絶句する。
だって、そこに居るのは────ボロボロのジャンバーとジーンズを身に纏う、痩せこけた青年だったから。
とてもじゃないが、二十代前半の若者には見えない……。
でも、どことなく優太の面影はあった。
ど、どういうこと……?何でこんな格好なの……?
ご飯はちゃんと食べているのよね……?
お世辞にも『幸せそう』とは言えない様子に、私は目を白黒させた。
混乱のあまり何も言えずにいると、優太がちょっと嬉しそうな……でも、恨めしそうな表情でこちらを見つめる。
「ねぇ、母さん」
目にいっぱいの涙を溜め、優太はガシッと私の肩を掴んだ。
かと思えば、
「────どうして、俺を捨てたの……?」
絞り出すような声で、最高の恨み言を吐く。
はっ……?捨てた……?誰が誰を?
私はただ、優太のためを思って……って、ちょっと待って?
さっきは気が動転していて気づかなかったけど、どうしてこの子────私の存在を知っているの?
紗奈さんを本当の母親だと思い込んでいる筈の優太に、私は戸惑いを覚える。
『どこかのタイミングでバラしたのか?』と思案しつつ、とりあえず顔を上げた。
これだけは伝えなければ、と思って。
「優太、私は貴方のことを捨ててない。ただ、実際に親権を手放した訳だから、そう思われても仕方ないかもしれない」
私の肩を掴む優太の手にそっと触れ、『大丈夫、ここに居るわ』と示す。
少しでも優太を安心させようと気遣い、私は柔らかく微笑んだ。
「ねぇ、優太。良ければ、私の家に来て話をしましょう。離婚のこと、しっかり話すから」
『ここでは人目もあるし』と言い、駐車場に停めた自身の愛車を指さした。
すると、優太は案外素直に応じる。
まだ警戒心は残っているものの、一先ずこちらを信頼する気になったようだ。
『良かった』と安堵しつつ、私は愛車で自宅へ向かった。
「ここが私の家よ。ちょっとボロいけど、我慢してね」
出来るだけ優太にお金を渡したくて、色々節約していたため、住処は十八年前と変わらない。
『引っ越す手間も時間も惜しかったし』とここ十数年の記憶を振り返し、アパートの前に車を停めた。
と同時に、降りる。
「こっちよ」
「う、うん……」
おずおずと助手席から降りて私の後を付いてくる優太は、外付けの階段を登る。
物珍しそうに辺りを見回す彼の姿に、私はクスリと笑みを漏らした。
なんだか、小さい頃の優太とそっくりで。
不良みたいになっていたらどうしようかと思ったけど、そんなの杞憂だったわね。
いくつになっても、優太は優太よ。
溢れ出る母性をそのままに、私は部屋の扉を開ける。
「さあ、入って。狭いから、足元気をつけてね」
扉を全開にして先に入るよう促す私に、優太は『お邪魔します……』と言ってから中へ入った。
なんか、変な気分ね。自分の家に優太が居るだなんて。
まるで、夢でも見ているよう。
『もし、そうならどうか覚めないで』と願いつつ、私も玄関へ足を踏み入れた。
しっかり施錠してから靴を脱ぎ、優太の居るであろう居間へ向かう。
すると、そこには────泣いている我が子の姿があった。
「ゆ、優太……!?どうしたの……!?」
『もしかして、体調不良!?』と焦りながら、私は傍へ駆け寄る。
本気で119しようか迷う私を前に、優太は慌てて顔を上げた。
「い、いや……違う。そうじゃなくて……俺のこと本当に忘れてなかったんだな、って思って……」
タンスの上に置かれた写真立てを見つめ、優太は『小さい頃の俺……』と呟く。
どことなく、ホッとしたように……そして、嬉しそうに表情を和らげる彼に、私は戸惑いを覚えた。
『まるで愛に飢えた子供のようね……』と眉尻を下げ、とりあえずティッシュを手渡す。
「ありがとう……」
「いいえ。それより、離婚のこと話してもいいかしら?」
正直、今すぐ何があったのか問い質したい気分だが……今はとにかく、優太を安心させたい。
私は貴方を邪険にしていた訳じゃないって。
親権を手放したのには、理由があるんだって。
「うん、お願いします」
ぎこちない動作で頭を下げる優太に、私は少し泣きそうになる。
あまりにも他人行儀すぎて。
でも、離れていた年月を思えば当然のことだった。
「じゃあ、書類を取ってくるから少し待っていて」
そう言って隣室に行くと、私は離婚協議書や通帳のコピーを持ってくる。
それらをテーブルの上に並べ、私は腰を下ろした。
すると、優太も正面に正座する。
「まずは離婚理由について、話していくわね。ちょっと……いや、かなりショックな内容かもしれないけど、よく聞いてほしい」
────と前置きしてから、私は離婚にまつわる事柄を事細かに話した。
少しでも、誤解や行き違いがないように。
『何より、こっちにやましいことはないんだから』と考える中、優太は不意に声を上げる。
「えっ?子供……?それに養育費って……じゃあ、俺はずっと……」
困惑気味に瞬きを繰り返し、優太は食い入るように書面を見つめた。
かと思えば、泣きそうな表情を浮かべる。
「ど、どうしたの?何か気になることでもあった?」
堪らず質問を投げ掛ける私に、優太は困ったような笑みを見せた。
話すかどうか迷っているらしい。
「あの……母さんには辛い話かもしれないけど」
「大丈夫よ。正直に話してみて」
出来るだけ穏やかに話の先を促すと、優太はコクリと頷いた。
おずおずと顔を上げ、気遣わしげな視線をこちらに向ける。
「実は、さ……父さんと紗奈さんの間には────一人子供が居るんだ」
「!!?」
まさかのカミングアウトに、私は言葉を失った。
『いつの間に!?』と驚愕する私の前で、優太は複雑な表情を浮かべる。
「俺からすれば、腹違いの弟なんだけど……昔からめっちゃ可愛がられていて、違和感はあったんだ。何でこんなに扱いが違うんだろう?って。それで中学に入った頃、父さんに『お前は連れ子だ』って明かされて……離婚理由なんかは教えてもらえなかったけど、色々腑に落ちた」
『そりゃあ、実の子の方が可愛いよな』と力なく笑い、優太はギュッとズボンを握り締める。
兄弟間の格差を思い出しているのか、なんだかとても辛そうだった。
『理解は出来ても、納得は出来ないわよね』と眉尻を下げる中、優太はじっと手元を見つめる。
「俺、さっきまで『母さんは俺を捨てたんだ』と思っていた。だから、正直……恨んでいた」
己の短慮を責めるように身を縮め、優太はクシャリと顔を歪めた。
かと思えば、おもむろに肩の力を抜く。
「今日、成人式に来たのはほんの気まぐれだったんだ。こんな格好じゃ、笑いものにされるだけだからな。でも、母さんを見つけて……自分でもビックリしたよ。初めて見た筈なのに……母さんの容姿なんて知らない筈なのに、親だって分かったんだから」
『やっぱ、血の繋がりって凄いな』と笑い、優太は顔を上げた。
真っ直ぐにこちらを見つめ返し、目にうっすら涙を浮かべる。
「ごめん、母さん。ずっと誤解していて……それに養育費も……」
震える声で謝罪を繰り出す我が子に、私は小さく首を横に振った。
「いいのよ、それはもう。またこうして会えただけで、私は充分。それに養育費はどうせ、秋斗から『自分で出している』って言われていたんでしょう?それなら、知らなくても当然で……」
「違うんだ……!」
『当然でしょう』と続ける筈だった言葉を遮り、優太は身を乗り出した。
苦しそうに顔を歪め、ギュッと胸元を握り締める彼は何とか声を絞り出す。
「確かに母さんから養育費が振り込まれていることは、知らなかった。でも、そうじゃなくて……えっと……その、俺────中卒なんだ」
唐突に学歴を暴露し、優太は気まずそうに……どこか恥ずかしそうに視線を逸らした。
でも、おかげで少し冷静になったのかいそいそと畳に座り直す。
「本当は進学したかったんだけど、父さん達が『弟に教育費を掛けたいから』ってお金を出してくれなくて……」
「!?」
嘘……!?私は確かに高校と大学の入学費を振り込んだ筈……!
テーブルの上に並べた通帳のコピーを漁り、私は目を白黒させた。
動揺を隠し切れない私の前で、優太は額を押さえる。
「多分、母さんのお金は弟の教育費と父さん達の浪費に使われている……本当にごめん」
『俺が気づいていれば……』と零し、優太は肩を落とした。
進学するためのお金はちゃんとあったのに、みすみす手放してしまい、後悔しているのだろう。
……とりあえず、お金のことは一旦置いておきましょう。
このままじゃ、話が進まないし。
『今はとにかく、優太の現状を把握しないと』と自分に言い聞かせ、私は感情を押し殺した。
と同時に、顔を上げる。
「……ち、中学を卒業してからはどうしているの?」
「工事現場で働いている。一応、奨学金を借りて高校に通う道も考えたけど……父さん達に反対されそうだし。仮にOKを貰ったとしても、その奨学金が使い込まれない保証はどこにもないからさ」
「そっ、か」
優太の言葉に、私はただ相槌を打つことしか出来なかった。
だって、あまりにも酷すぎて……。
煮えたぎるこの怒りと悲しみをどうすればいいのか、分からなかった。
でも、これで色々と腑に落ちた。
優太の格好がボロボロだったのは、単純にお金がなかったから。
また、反抗的な態度を取っていたのは私に関する情報が少なかったせい。
極力冷静に現状を分析し、私は『はぁ……』と大きな溜め息を零す。
あの二人……約束を反故にするだけじゃ飽き足らず、優太をこんな目に遭わせるなんて。
養育費の使い込みや子供の出産までは、まだ何とか耐えられた。
でも、優太の将来を危険に晒したことだけは許せない……。
だって、仕事を見つけられなかったら優太は野垂れ死にするしかなかった訳でしょう?
『同じ人間のすることか』と憤り、私は奥歯を噛み締めた。
生まれてこの方、人を恨んだことなどないが……秋斗や紗奈さんに関しては『殺してしまいたい』と本気で思う。
まあ、優太を犯罪者の子供にする訳にはいかないからしないけど。
「とりあえず、事情は大体分かったわ。話してくれて、ありがとう。良かったら、今日は泊まっていって」
『疲れたでしょう?』と優太の体調を気遣い、私は席を立つ。
そして、一通りの家事をこなすと、客間に優太を寝かせた。
もうすっかり大きくなった我が子の寝顔を盗み見、そっと襖を閉じる。
『今だけはどうかゆっくり休んで』と思いながら寝室へ足を運び、私は通帳を引っ張り出した。
そこに表示された貯金残高は、約六百万。
「高校・大学の費用にしては、ちょっと心もとないわよね……」
優太の行きたい学校や学びたい分野にもよるが、諸々計算すると足りない。
だからといって、優太に無茶なバイトをさせるのは嫌だった。
ひもじい思いだって、させたくない。
楽しい学校生活を送ってほしい。
とはいえ、現実問題先立つものがなければ何も出来ないわ。
老後の資金として貯めていた六百万を一瞥し、私はスマホを手に取った。
慣れない手つきでライムを起動し、トーク画面を開くと、
『養育費について話したいことがあります』
と、秋斗に送り付ける。
時刻はもう夜の0時を回っているが、長年優太を苦しめてきた奴に掛ける情は残ってなかった。
全額は無理でも、高校と大学の入学費用は何とか取り戻したい。
優太の弟くんに罪はないけど、やっぱり我が子の養育費を他の子に使われるのは嫌だから。
『我慢ならない』と眉を顰め、私は一方的に会う約束を取り付ける。
もう寝ているのかあちらからの返信は一向にないが、そんなのお構いなしだった。
「さあ、明日から忙しくなるわよ」
半ば自分に言い聞かせるようにして呟き、私も就寝。
まあ、ほとんど寝られなかったが。
『なんだか、妙に興奮しちゃったのよね』と思いつつ、私は朝日を浴びる。
と同時に、身支度を整え、優太を仕事に送り出した。
正直凄く寂しかったが、こちらも色々とやることがあるため心を鬼にした。
待っていて、優太。
必ず準備を整えて、迎えに行くから。
一緒に人生をやり直しましょう。
『母親として貴方を支えたい』と強く願い、私も家を出る。
目的地は自分の職場─────ではなく、とあるカフェテリア。
仕事は今日、有給を取ったため気にしなくてもいい。
だから、思う存分話し合いましょう?────秋斗。
奥の席に座る男性を視界に捉え、私はツカツカと歩み寄った。
「久しぶりですね」
「あ、ああ……そうだな」
突然の呼び出しに戦々恐々としているのか、それとも単純に緊張しているのか……秋斗は若干表情を強ばらせる。
────その隣で、紗奈さんはケロッとしているが。
「貴方は呼んでないのですけど……まあ、いいです。言っておきたいことも、ありましたので」
『秋斗に伝言を頼む手間が省けた』と言い、私は向かい側の席へ腰を下ろした。
店員を呼んでコーヒーを頼み、一先ずおしぼりで手を拭う。
『さて、どこから話そうか』と悩む中、直ぐにコーヒーが運ばれてきた。
『ごゆっくりどうぞ』と述べる店員にお礼を言い、私は視線を前に戻す。
と同時に、表情を引き締めた。
「ライムでも言った通り、今日は養育費の話をするために来てもらいました」
楽しく雑談する間柄でもないため、私は早速本題を切り出す。
すると、秋斗が動きを見せた。
「た、確かに優太はもう成人したけど、まだ大学生で……」
「だから、親として大学卒業まで養育費は払ってほしいんですよね〜」
何とも見当違いなことを宣う紗奈さんに、私は一瞬ポカンとしてしまう。
でも、妙に納得した。
なるほど。すんなり話し合いに応じたのは、養育費の打ち切りを危惧してのことね。
まあ、成人式のあった直後に呼び出されればそう思うのも仕方ないか。
『優太の誕生日も近かったし』と分析しつつ、私は一つ息を吐く。
この人達はどこまでガメついんだろう?と思って。
「恐らく、あなた方の考えているようなことじゃありませんよ」
結果的に養育費は打ち切ることになるだろうが、本題はそこじゃない。
なので、私は二人の発言をやんわり否定した。
すると、秋斗も紗奈さんもどこかホッとしたような表情を浮かべる。
これから、地獄の底へ叩きつけられるというのに。
『呑気なことね』と蔑みながら、私はテーブルの上で手を組んだ。
「単刀直入に言いますね。優太の養育費────使い込んでいるでしょう?」
確信を持った声色でそう言うと、秋斗はあからさまに動揺を示す。
「は、はっ……?何のことだか、さっぱり分からないんだけど……」
「言い掛かりはやめてくださ〜い。私達はちゃ〜んと優太くんを大切に育てていますよ〜」
紗奈さんも援護射撃し、『事実無根』と言い張った。
ここまで堂々と嘘を吐けるなんて、実に恐ろしい女である。
まあ、そうやって余裕な態度を取っていられるのも今のうちだが。
『化けの皮を剥がしてあげるわ』と目を細め、私は口元に手を当てた。
「あら、そういう割には────弟さんに随分とお金を掛けているみたいですけど」
「「!?」」
まさか次男の存在を知られているとは思わなかったのか、二人はハッと息を呑んだ。
若干表情を強ばらせながらこちらを見つめ、ギュッと手を握り締める。
「な、何のことだかさっぱり……」
「隠しても、無駄ですよ。もう証拠はありますから」
────というのは、真っ赤な嘘だけど。
さすがに昨日の今日で、証拠集めは出来なかった。
でも、きっと優太に言えば写真やらなんやら手に入るだろう。
『最悪、興信所に頼めばいいし』と楽観的に考え、私は強気な態度を貫く。
そんな私を見て観念したのか……秋斗と紗奈さんは項垂れた。
「お、弟を作ったことは申し訳ないと思っている」
「せっかく、お腹に宿った命を殺すことは出来なかったんですよ〜」
『同じ母親なら、分かるでしょ〜?』と言い、紗奈さんは目を潤ませる。
こちらの同情を誘うように。
「でもでも!たったそれだけで、養育費を使い込んだとか言われても……」
「優太は中卒なんですよね?」
「えっ……?」
間髪容れずに切り込むと、紗奈さんは頬を引き攣らせた。
『何で知っているの……?』とでも言うように目を白黒させ、黙り込んでいる。
半ば放心状態にある彼女を前に、私はニッコリと微笑んだ。
「中卒なのに、どうして高校や大学の費用が必要になるんですか?」
「っ……!」
ここぞとばかりに核心をつく私に、紗奈さんは何も言い返せなかった。
混乱気味に唇を噛み締め、ただ俯くだけ。
隣に座る秋斗も同様だ。
便宜上仕方ないとはいえ、我が子を中卒呼ばわりするのは心が痛むわね……。
望んでそうなったならまだしも、秋斗達に強制されて進学を諦めたみたいだから……。
やるせない気持ちを胸に抱え、私は深い深い溜め息を零す。
『それでも、同じ親か』と叱りたくなる衝動を抑え、背筋を伸ばした。
「私からの要求はただ一つ。高校・大学に掛かった費用を全て返してください」
「なっ……!?そんなの無理だ!総額いくらになると思っている!?」
反射的に否定の言葉を吐き、秋斗は必死の形相でこちらを見据える。
まあ、ここまでは想定内。
だって、合計したら千を超えるし。
裁判してもいいけど、今は優太に時間を割きたいから話し合いで終わらせたいところ。
『多少の減額は仕方ない』と考えているため、私は落ち着いて次の言葉を投げ掛ける。
「では、せめて入学費用だけでも……」
「それも無理だ!」
「はい?」
かなり譲歩したにも拘わらず要求を突っぱねられ、私は眉間に皺を寄せた。
『さすがにちょっとワガママ過ぎない?』と苛立つ中、秋斗は乱暴に前髪を掻き上げる。
「ウチに今、お金はないんだよ!郁人の大学受験に向けて、塾とか教材とかにお金を掛けているから!」
「!?」
『郁人』というのは、恐らく秋斗と紗奈さんの間に出来た子供の名前だろう。
つまり、寺田家の次男は現在十八歳……もしくは、十七歳と思われる。
もっと小さい年齢を想定していた私は、これでもかというほど驚いた。
だって、もしかしたら郁人くんは────離婚協議の段階で、紗奈さんのお腹の中に居たかもしれないから。
生年月日にもよるけど、もしそうなら……二人は最初から優太を大切にするつもりなんて微塵もなかったことになるわ。
最悪の可能性に気づいてしまい、私はキュッと唇を引き結んだ。
『そうじゃない』と信じたくて、恐る恐る口を開く。
「……ねぇ、郁人くんは何月生まれなの?」
敬語も忘れて直球で質問を投げ掛けると、秋斗は怪訝そうな表情を浮かべた。
「はっ?〇月生まれだけど、それがどうし……あっ」
ようやく自分の失言に気づいたのか、秋斗は慌てて口元を押さえる。
が、もう遅い。
「そう……〇月生まれなら、離婚協議の段階で妊娠していることには気づいていたわよね?」
「……」
「それなのに、『自分達の子供は産まない。優太だけを愛する』って言ったんだ?」
「っ……」
図星だったのか、秋斗は唇を噛み締めて俯いた。
隣に座る紗奈さんも、バツの悪い顔で視線を逸らす。
まるでイタズラがバレた子供のような反応に、私は失笑を漏らした。
不倫した末に結ばれた二人とはいえ、そこまでクズじゃないと……子供には優しく接する、と信じたかった。
『私の読みが甘かった』と反省し、奥歯を噛み締める。
悔しくて悲しくて今にもどうにかなってしまいそうだったが、店内で騒ぐ訳にはいかないためグッと堪えた。
皮膚に爪が食い込むほど強く手を握り締めながら、秋斗に目を向ける。
「ねぇ、どうして親権を主張したの?お腹の子を産む気があったなら、優太にこだわる理由はなかったんじゃない?」
可愛がるつもりのない子供を何故引き取ったのか分からず、私は疑問を投げ掛けた。
が、相手は答えない。
『何かやましいことでもあるのか』と訝しみ、私は眉間に皺を寄せた。
「まあ、離婚協議のときは優太のことも大切に思っていたとして……ここまで差をつけるくらいなら、私に連絡するべきじゃなかった?」
『言ってくれれば、いつでも引き取ったのに』と告げ、秋斗の行動を責める。
でも、またもやスルーされた。
不貞腐れた子供のような態度に、私は苛立ちを覚える。
『誰のせいでこうなっているの!?』と怒鳴り散らしたくなった。
「実の親子を引き裂いた挙句、養育費の使い込みまでして……貴方達は一体、何なの?疫病神か、何か?私達親子をこんなに追い詰めて、本当最低ね。同じ人間だと思えないわ」
「っ……!」
我慢出来ずに嫌味ったらしい口調で責めると、秋斗は大きく肩を揺らす。
一応罪悪感というものはあるのか、今にも泣きそうな表情でこちらを見つめた。
かと思えば、テーブルに勢いよく拳を叩きつける。
「うるさい!それもこれも全部、お前のせいだろ!」
「はっ?」
訳が分からず素っ頓狂な声を出す私に、秋斗は歯軋りする。
「本当はもっと円満に別れる筈だったんだ……!優太の親権だって、別に欲しくなかった!でも、浮気がバレて、慰謝料やらなんやら請求されてさ!だから────」
鋭い目つきでこちらを睨みつけ、秋斗は表情を険しくした。
「────子供を利用して、お前に色々妥協させようと思ったんだ!」
「!?」
衝撃のあまり固まる私に対し、秋斗はどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
『ちょ、ちょっと……』と窘める紗奈さんの声なんて、耳に入っていないようだ。
「まあ、あんな高額な養育費が手に入るとは思ってなかったけどな!まさに棚ぼただよ!今まで俺達のためにご苦労様!」
もう全部吹っ切れてしまったのか、秋斗はこれでもかというほど身の内を曝け出す。
人間の汚い部分を凝縮したような態度に、私は吐き気を覚えた。
思わず口元を押さえながら俯き、カタカタと震える。
「じゃ、じゃあ優太のことを大切に思っているというのは……」
「嘘に決まっているだろ!お前の産んだ子供なんて……優太なんて、これっぽっちも可愛くない!」
勢いに任せてとんでもない事実を暴露すると、秋斗はハッと鼻で笑った。
『あんなクソガキ興味もねぇーよ』と零す彼の横で、紗奈さんは額に手を当てている。
『あちゃー』とでも言うように。
さっきまで、優太を虐げてきたのは……邪険に扱ってきたのは継母の紗奈さんかと思っていたけど、実際は秋斗だったのね。
優太に離婚のことを明かしたのも、彼みたいだし……。
優太から聞いた話を思い返し、私は両手で顔を覆った。
あまりにもショック過ぎて、上手く感情を呑み込めない。
『しっかりしないと』と、理性では分かっているのに……。
「何で……?貴方、実の父親でしょう?仮にも血の繋がった子供に、そんな言い草……あんまりだわ。親としての愛情はないの?」
つい恨みがましい口調で責めてしまい、私は後悔するものの……もう後の祭りだ。
『感情的になったって、いいことはないのに……』と反省しつつ、指の隙間から秋斗の顔色を窺う。
────と、ここで彼が失笑を漏らした。
「悪いけど、アレを愛したことなんて一度もない」
我が子のことをまるで物みたいに言う秋斗は、酷く冷め切った表情を浮かべていた。
あまりにも非情すぎる言い草に、私はようやく────怒りや憎しみを覚える。
さっきまであった悲しみは、どこかへ消え失せてしまった。
この人はどれだけ、優太をコケにすれば気が済むの?
そっと顔から手を離し、私は真顔で秋斗を凝視した。
腹の底から湧き上がる衝動を前に、私はゆっくりと口を開く。
「……にして」
「はっ?なんて?」
「いい加減にして……!」
テーブルに勢いよく両手を叩きつけ、私は立ち上がった。
『はぁはぁ』と肩で息をしながら秋斗を睨みつけ、歯を食いしばる。
と同時に、財布やスマホを掴んだ。
「絶対に許さない!優太の十八年を台無しにした責任は、必ず取ってもらうからね!」
そう言うが早いか、私は千円札を投げ捨て店の外に出た。
その瞬間、我慢していた涙が次から次へと溢れてくる。
ごめん……ごめんね、優太!
あんな人達に親権を渡しちゃって……!
私が間違っていたわ!たとえ、裁判になってでも貴方を手放すべきではなかった!
これ以上ないほどの後悔と罪悪感を募らせ、私は愛車に乗り込んだ。
そして少し走らせると、人気のない道路脇に停まる。
この状態で長時間運転するのは不味いと思って……。
「ふっ……ぐ……っ……」
我慢しきれず嗚咽を漏らしながら、私はハンドルにそっと額を当てた。
どうして、あのとき秋斗達の口車に乗せられちゃったんだろう?
片親でも幸せにしてみせるって、啖呵を切っていれば……こんなことにはならなかったのに。
「結局のところ、自信がなかったのよね……だから、楽な道を選んでしまった」
『優太を不幸にしたのは自分だ』と自覚し、奥歯を噛み締める。
嗚呼、あの頃に戻りたい。
そしたら、今度こそ親権を……優太を手放さないのに。
あんな人達の思い通りになんか、させないのに。
たとえ辛くても、貴方と生きる道を選ぶのに。
「お願いよ、誰か……私をあの頃に戻して!」
言うだけ無駄だと分かっていても、願わずにはいられず……切実に逆行を望んだ。
その瞬間────ブーブーとスマホのバイブレーションが、耳を掠める。
音やリズムからして、恐らくメールの受信通知だろうが……今はとても見る気になれない。
でも、職場からの連絡だったら無視出来ないわよね。
『今日は無理を言って休ませてもらったし……』と思い、私は仕方なくスマホを手に取った。
一先ず通知画面を開き、メールの受信フォルダへ飛ぶ。
すると、そこには見知らぬメールアドレスが……。
『なら、無視してもいいか』と考え、私はすぐ画面を暗くしようとする────ものの、うっかりメールの文面を開いてしまった。
「あっ……」
小さく声を漏らす私は、慌ててスマホの電源に指を掛ける。
『こんな時に何をやっているんだか』と呆れながら……。
でも、画面に表示されたある単語に目を奪われ、結局電源は落とせなかった。
「────逆行……出来るの?」
思わず独り言を零し、私はまじまじとスマホの画面を眺める。
期待するだけ無駄なのは分かっているが、どうにも目を離せず……メールを読んでしまった。
なるほど。つまり、戻りたい日時をメールで返信すればいいのね。
「────って、なに本気になっているのよ……どうせ、スパムか何かでしょう?」
『もしくは宗教勧誘とか……』と述べ、私はスマホから視線を上げる。
でも、画面は決して閉じなかった。
これこそが、私の答えだろう。
い、一回だけ……一回だけ、返信してみましょう。
『ダメでもともと』と自分に言い聞かせながら、私は返信画面を開く。
そこに十八年前の離婚協議の日時を打ち込み、僅かな期待を込めて返信した。
────と、ここで猛烈な目眩に襲われる。
えっ?何……?私、どうしちゃったの?
もしかして、心筋梗塞……?
じゃあ、このまま死ぬの……?
まだ優太に何も出来ていのいのに……。
『嫌よ、死にたくない』と願うものの、目眩は酷くなっていくばかり。
それどころか、平衡感覚すら無くなっていった。
『嗚呼、どうしよう……?』と本気で悩む中────目眩は急に収まる。
と同時に、
「なあ、麻由里────優太の親権を譲ってくないか?」
と、聞き覚えのあるセリフが鼓膜を揺らした。
ハッとして顔を上げる私は辺りを見回し、驚愕する。
だって、そこは確かに────十八年前の離婚協議の場だったから。
『確か、あのあと直ぐにファミレスは潰れちゃったのよね』と思い返しつつ、私は瞬きを繰り返す。
とてもじゃないが、直ぐにこの現実を受け入れられなくて……。
逆行した、と見ていいのかしら……?
じゃあ、さっきの目眩はその前触れか何か……?
『だとしたら納得が行くわね』と冷静に分析しながら、私は自身を見下ろす。
当時と全く同じ服装であることを確認し、なんだか胸がいっぱいになった。
『本当に逆行したんだ』と実感が湧く中────秋斗に顔を覗き込まれる。
「お、おい……どうしたんだ?」
戸惑いがちにこちらを見つめる秋斗は、先程会った彼より明らかに若い。
まあ、逆行したのだから当然と言えば当然だが。
『でも、なんか違和感あるな……』と考えていると、紗奈さんが身を乗り出してきた。
「優太くんの親権を手放したくない気持ちは、分かります〜。でも、ここは一大人として正しい判断をするべきでは〜?」
前回と同じようにそれらしいことを言って丸め込もうとしてくる彼女に、私はスッと目を細める。
『もうその手は通じないわよ』と思いながら。
貴方達に優太を託して失敗したことは身を持って体験しているため、もう譲る気なんてサラサラなかった。
とはいえ────今すぐ、親権を主張するのはいささか早い。
『きちんと準備してから、ことに望まなければ』と思い立ち、私は席を立った。
「────すみません。今日は帰ります」
「「えっ……?」」
ポカンとした様子でこちらを見上げ、秋斗と紗奈さんは瞬きを繰り返した。
怒鳴りもしなければ泣きもしない私を見て、動揺したのだろう。
『思っていた反応と違う……』と困惑する彼らを前に、私は少しばかり表情を曇らせた。
さすがに淡々とし過ぎたかな?と思い……。
「優太の親権の話を聞いて、気が動転してしまって……考えが整理出来ていないんです。なので、少し時間をください。では」
言い逃げの如く話を切り上げ、私はそそくさと退散した。
『二人が呆然としているうちに』とタクシーを捕まえ、実家へ帰る。
そして優太を寝かしつけると、私は自室に篭った。
パソコンであれこれ調べながら、今後の予定を立てていく。
当分の目標は司法書士の資格を得て、経済的に自立すること。
それまで離婚協議は先延ばしにして、養育実績と弁護士の手配を……あと、念のため司法書士の勉強もしておこう。
十数年仕事してきたんだから大丈夫だとは思うけど、年に一回しかないチャンスを逃したら大変だわ。
『さすがに何年も別居する訳にはいかないし』と考え、私は一発合格を目指す。
資料は図書館から借りることに決め、節約を意識した。
これから一人で優太を育て上げるとなると、お金はいくらあっても足りないから。
「慰謝料や養育費も絞り取って、未来のために備えなきゃ!秋斗達には、今度こそ何も譲らないんだから!」
────と意気込んだのが、約半年前。
私は無事司法書士の資格を取り、弁護士の手配なども済ませていた。
その間、秋斗から『優太だけ可愛がる』だの『片親は可哀想』だのメールで言われたが、私は全て『考えさせてください』でスルー。
とにかく、時間を稼ぎまくった。
正直、調停やら裁判やら起こされたらどうしよう?と思っていたけど、世間体命の秋斗達は我慢する方を選んだみたい。
専業主婦で時間のある私と違って、あっちは仕事持ちだからね。
何度も仕事を休むのは出世に響くし、どこから離婚の話が漏れるか分からないから。
『おかげで予定通り事を運べた』と浮かれつつ、私はスーツに着替える。
秋斗達との親権争いに、そろそろ決着をつけるため。
『さあ、勝負よ』といきり立ちながら、私は待ち合わせの場所へ向かった。
そこにはもう秋斗の姿があり、イライラした様子で腕時計を眺めている。
半年も待たされた上での話し合いのため、一刻も早く終わらせたいのだろう。
それで、紗奈さんは……来ていないみたいね。まあ、当然よね。そろそろ、お腹が大きくなっている頃だもの。
私に妊娠がバレることを差し引いても、連れて来れない筈だ。
母子の健康を考えるなら……。
『優太と私のことはあれだけ蔑ろにしていたのに……』と溜め息を零し、一先ず店へ入った。
すると、秋斗が直ぐに反応を示す。
「こっちだ」
「はい」
『早く来い』と言わんばかりの秋斗の態度に苦笑しつつ、私は同じテーブルへ着いた。
店員さんにコーヒーを頼み、それが運び込まれてから秋斗に目を向ける。
「まずは、これまで謝罪を。ずっと話し合いを延期してしまい、申し訳ございませんでした。今日こそはきちんと離婚致しますので、ご安心を」
「……ああ」
『本当なんだろうな?』とでも言うように眉を顰める秋斗は、小さく息を吐いた。
かと思えば、こちらへ身を乗り出す。
「じゃあ早速で悪いが、本題に入らせてもらう。メールでも言ったが、俺達に優太の親権を譲っ……」
「────譲りません」
相手の出鼻を挫くため、私は敢えて言葉を遮った。
すると、秋斗は面白いほど動揺を見せる。
「はっ……はっ?何で?片親で収入もない麻由理より、俺達に引き取られた方が幸せだろ。それはお前だって、理解している筈……」
狼狽えながらも何とか反論を口にし、秋斗は抗議してきた。
自分にとって、都合のいい言い訳を並べて。
残念だけど、もうその手には乗らないわ。
『絶対に同じ過ちを繰り返さない』と心に決めている私は、準備してきた資料の束を取り出す。
予定通りまずは写真をテーブルの上に並べ、秋斗に見せた。
「この方、分かりますよね?」
「……」
「貴方の不倫相手である紗奈さんです」
向かって右側の写真を手で示し、私はニッコリと微笑む。
「見たところ、お腹が随分と大きくなっているようですが……もしや、妊娠なさったんですか?」
「ち、違う……これは……その……ストレスで過食になって、少し太ってしまっただけだ」
「あら、そうなんですか」
苦し紛れの言い訳を重ねる秋斗に、私はスッと目を細める。
『どれだけ足掻いても、無駄なのに』と思いながら。
私がここ半年、どれだけ頑張ってきたと思っているの?
貴方から親権を……優太を守るために、あらゆる手を尽くしてきたのよ。
負ける気はしないわ。
急に顔色の悪くなった秋斗を見据え、私は真ん中の写真へ視線を移した。
「こちらの写真には、産院へ入っていく様子が映っていますけど」
「そ、れは……」
そろりと視線を逸らして、秋斗は追求から逃れようとする。
その程度の抵抗で勘弁してやるほど、私は優しくないというのに。
『貴方には恨みがあるからね』と思いつつ、左側の写真を見つめた。
「しかも、あちらの写真にはベビー用品を買っている姿がありますね」
「……」
「まだ言い訳しますか?一応、他にも証拠はありますけど」
「っ……」
悔しそうに顔を歪めて俯く秋斗は、微かに肩を震わせた。
恐らく、資料の出処が興信所であることを悟ったのだろう。
ここまで解像度の高い写真や証拠を揃えるのは、一般人じゃ無理だから。
『それに不倫調査でも、同じ手を使ったからね』と肩を竦め、私は少しばかり前のめりになる。
「妊娠していること、認めて頂けますね?」
「……あ、ああ」
言い逃れは難しいと判断し、秋斗はようやく首を縦に振った。
かと思えば、僅かに身を乗り出す。
「でも、俺達も妊娠しているなんて思ってなかったんだ……!黙っていたことは悪かったと思っているけど、それでも俺は優太と暮らしたい……!だから……!」
「何度言われようと、親権を譲るつもりはありません」
今にも頭を下げてきそうな勢いの秋斗に、私はピシャリと言い放った。
懇願なんてするだけ無駄だ、と。
「あと、貴方の危惧していた金銭問題についてですが」
資料の束から司法書士の資格を取った証明になる合格通知書のコピーを取り出し、秋斗の前に突きつける。
さすがにまだ資格証はないため、こちらを証拠品として提示した。
「この通り、私は司法書士になりました。就職活動はまだですが、選り好みしなければ直ぐにでも働けるでしょう」
「!?」
カッと目を見開き、秋斗は合格通知書のコピーを凝視する。
『嘘だろ……』と譫言のように呟く彼の前で、私は腕を組んだ。
「司法書士の平均年収が高いことは、ご存知ですよね。もちろん、新人では平均ほど貰えないでしょうが、母子二人で暮らしていくには充分だと思います」
『経済面で心配はない』と主張し、私は真っ直ぐに前を見据えた。
「シングルマザーになるという難点に関しては現状どうしようもありませんが、腹違いの子供が居るという難点を持つ貴方達より酷い環境とは思えません。よくて、五十歩百歩と言ったところでしょうか」
秋斗達に託した場合の結果を知っているため、私はあくまで強気な態度を貫く。
ここで弱いところを見せたら、確実に長引くと判断して。
こちらとしても、優太の教育や就職活動に専念したいため出来るだけ早く決着をつけたかった。
『これ以上、秋斗達に時間を割くのは嫌だもの』と考えつつ、私は背筋を伸ばす。
「とにかく、私は絶対に親権を手放しません。慰謝料や財産分与だって、きちんと請求します」
実費だけ支払ってもらって終わりになんて、させない。
前回の失敗を思い浮かべながら、私は自身の胸元にそっと手を当てた。
「貴方達には、何一つとして譲りません」
「っ……!」
こちらの強い意志を感じ取ったのか、秋斗は思い切り顔を歪めた。
『計算が狂った』とでも言うように歯を食いしばり、こちらを凝視する。
何とか解決の糸口を見つけようとする彼の前で、私はフッと笑みを漏らした。
ねぇ、秋斗。貴方も理解しているでしょう?
親権は母親に有利なんだって。
たとえ、調停や裁判になだれ込んだとしても貴方達に親権は渡らない。
養育実績だってないんだから、当然よね。
だから────もう悪足掻きはやめてちょうだい。時間の無駄だわ。
資料の束から今度は離婚協議書を取り出し、秋斗に見せた。
怪訝そうな表情の彼を見据え、私は一つ一つ丁寧に説明していく。
「こちらの要求は親権の譲渡及び、慰謝料五百万と養育費八百万の支払いになります。もちろん、お金関係は全て一括でお願いしますね」
「なっ……!?こんなの不当だ!あまりにも、重すぎる!」
反射的に離婚協議書を手で叩き、秋斗は声を荒げた。
『ふざけているのか!?』と喚く彼を前に、私はゆるりと口角を上げる。
「ええ、ですから慰謝料や養育費は財産分与と相殺で構いません」
「はっ!?俺に無一文で出て行け、と言うのか!?」
噛みつかんばかりの勢いで反論してくる秋斗に、私はスッと目を細めた。
「高給取りの貴方なら、問題ありませんよ。一時的に借金することにはなるかもしれませんが、直ぐに返せる筈です。それに紗奈さんのお金だって、あるでしょうし」
『数ヶ月慎ましく暮らせばいいだけのこと』と跳ね除け、私は頬杖をつく。
全く悪びれる様子のない私を前に、秋斗は狼狽した。
「それは……でも!子供が……!」
「子供が居るのは、こちらも同じです」
「っ……!」
シングルマザーな分、大変なので秋斗達の子供を気遣うつもりはない。
第一、それは親である彼らが何とかするべき問題だし。
『私は私の権利を行使しているだけ』と考え、一切揺るがなかった。
「そんなに不安なら、ご実家に頼られては?」
「……そんなの格好悪いだろ」
拗ねた子供のようにそっぽを向き、秋斗は唇に力を入れた。
ここで『親に迷惑を掛けるから』という発言が出ないあたり、実に彼らしい。
「そうですか。では、ご自分の力だけで頑張ってください。貴方のことなんて、私には関係ありませんし」
「なっ……!?それでも、妻か!」
「不倫を仕出かした分際で、今更夫ヅラですか?見苦しいですね」
「くっ……!」
図星を突かれて俯く秋斗は、少し赤くなっている。
一応、みっともない真似をした自覚はあるらしい。
ギュッと強く手を握り締める彼の前で、私は一つ息を吐いた。
要求の説明も終わったことだし、仕上がりに掛かりましょう。
『これ以上、秋斗の戯れ言に付き合ってられない』と頭を振り、私は顔を上げる。
と同時に、離婚協議書を指で軽く叩いた。
「こちらで合意頂けない場合は、第三者を挟んで話し合うことになります」
「第三者……?」
「はい、例えば────弁護士とか」
「!?」
ハッとしたように目を剥き、秋斗は僅かに身を乗り出した。
衝撃のあまり固まる彼の前で、私は離婚協議書へ目を向ける。
「実はこちらの資料、弁護士に依頼して作ってもらったものなんですよ」
「う、嘘だろ……」
呆然とした様子で離婚協議書を眺め、秋斗は背もたれに寄り掛かった。
脱力していく彼を前に、私は更に畳み掛ける。
「今日の話し合いで決着を付けられなければ、即弁護士に依頼。調停を起こします」
「そんな……いきなり……」
「当事者同士の話し合いで無理なら、第三者を入れて判断してもらうしかないでしょう。その場合、更に長引くかもしれませんけど」
『紗奈さんの出産時期に間に合うかな?』という意味を込めて、私はわざと時間について言及した。
すると、秋斗は見るからに焦り始める。
そりゃあ、そうだ。このまま行けば、子供は私生児扱いになるかもしれないんだから。
自分でも意地の悪いやり方だと思う。
子供を盾に取るような行為なんて、本当はしたくない。
でも、こっちにだって譲れないものはあった。
『優太のためなら、鬼にだってなるわ』と考え、私は資料の束から離婚届を取り出した。
親権と自分の欄だけ埋めたソレを離婚協議書の隣に置き、ボールペンを用意する。
「今ここで決断してください」
「……」
悩ましげに眉を顰め、秋斗は離婚協議書と離婚届を睨みつけた。
究極の選択を迫られたような気分なのか、顔色は少し悪い。
「クソッ……何で……」
譫言のように文句を吐き、秋斗は前髪を掻き上げた。
かと思えば、勢いよくボールペンを手に取る。
「チッ……!分かった!同意する!だから、早く別れてくれ!」
怒号とも懇願とも取れる声色でそう言い、秋斗は離婚協議書と離婚届にそれぞれサインした。
殴り書きとも言うべき荒々しい字体だが、これで交渉成立である。
判子もしっかり押してもらい、私は書類を受け取った。
離婚協議書の方は一部秋斗に預け、席を立つ。
「じゃあ、これで私達は晴れて他人ですね」
「ああ、そうだな!清々する!」
ここぞとばかりに嫌味を吐き、秋斗は顔を逸らした。
まるでいじけた子供のような対応だが、別に気にならない。
もう会わない人にどんな態度を取られようと、どうでもいいから。
私は鞄に資料を詰め、テーブルにコーヒー代を置くと、秋斗に背を向けた。
が、大事なことを思い出して顔だけ振り返る。
「あっ、そうそう。一つ言い忘れていたのですが────紗奈さんへの慰謝料はまた別途請求しますので」
「はっ……?」
「こちらは弁護士に一任していますから、上手く交渉してください────と、紗奈さんにお伝えください。では」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まる秋斗を一瞥し、私は今度こそ歩き出した。
後ろから『ちょ……ちょっと待て!』と騒ぐ声が聞こえるものの……気にせず店を出て、タクシーに飛び乗る。
と同時に、つい吹き出してしまった。
だって、あまりにも面白くて。
秋斗のあんなに焦った姿、初めて見たわ。
『最後にいいものが見れた』と浮かれつつ、私はスマホをマナーモードにする。
秋斗からの電話・メール攻撃を避けるために。
『無事、離婚出来たらスマホ変えちゃおう』と思いながら、私は弁護士事務所へ足を運んだ。
そこで結果報告と書類の確認を行ってから、役所に向かい、無事書類を提出。
晴れて、私は独身に……いや、シングルマザーになった。
前回は何もかも失った気がして苦しかったけど、離婚ってこんなに清々しいものなのね。
この上ない爽快感に包まれ、私は青空を見上げる。
「よし、明日からまた頑張ろう!まだまだ道のりは長いんだから!」
『優太を立派に育て上げなきゃ!』と奮起し、私は気持ちを切り替えた。
だって、離婚はゴールじゃなくてスタートだから。
『シングルマザーの道は険しいわよ』と自分に言い聞かせつつ、私は帰路へ着く。
優太の大好きなケーキを手土産に、実家の門をくぐった。
────そして、十八年後……優太の成人式。
私は感慨深い気持ちで、優太に袴を着せていた。
やっと……やっと、ここまで来たのね。
前回と違って元気そうな我が子を見つめ、私はちょっと泣きそうになる。
だって、あのときは本当に痩せていて……力加減を誤ったら、折れてしまいそうだったから。
でも、逆行後の優太はラグビー部に所属したからか見事なマッチョに成長していた。
とてもじゃないが、か弱そうには見えない。
「……本当に大きくなったわね」
「当たり前だろ。もう二十歳なんだから。つーか、母さんさっきから同じことばっかり言っている」
「ふふふっ。ごめんなさい。なんだか、嬉しくて」
スッと目を細める私は、優太の頭を優しく撫でた。
と同時に、表情を和らげる。
「ねぇ、優太────今、幸せ?」
特別な日だからか妙に感情に流されてしまい、私は突拍子もないことを尋ねた。
客観的に見て、優太は秋斗達のところに引き取られるよりマシだったと思う。
でも、幸せの基準は人それぞれだから……少し不安になってしまった。
私が欲しいのはその他大勢の意見じゃなくて、優太の本心だから。
「なんだよ、いきなり……」
『小っ恥ずかしいな』とでも言うように頭を掻き、優太は天井を見上げる。
逃げの姿勢に入ろうとする彼の前で、私はそっと目を伏せた。
「いや、ちょっと気になっちゃって……ほら、お母さん離婚したでしょう?だから……」
「────俺は母さんのところに来て、良かったと思っているよ」
不安に思っていることを感じ取ったのか、優太は食い気味にそう答えた。
真剣な顔つきでこちらを見据え、『本心だ』と訴えかけてくる。
が、思い出したかのように頬を赤くした。
やはり、こういう話は照れ臭いらしい。
「ほら、その……今、結構幸せだし?大学まで通わせてもらって、凄く感謝している。だから、余計なことは考えなくていい」
『父さんのところに行きたいなんて思っていない』と主張し、優太は小さく笑った。
何も心配らいないことを示すように。
「ありがとう。その言葉を聞けただけで、私も幸せだわ」
安堵と歓喜に包まれながら、私は泣き笑いに近い表情を浮かべる。
ここ十数年はとにかく必死で……『優太を幸せにしないと』という一心で駆け抜けてきたから涙なんて流す暇もなかったが、今ようやく肩の荷が降りて感情を表に出せた。
『私の努力は全て報われたんだ』と実感し、うんと目を細める。
あのとき、逆行して……人生をやり直して、本当に良かった。
「あっ!ヤバい……!待ち合わせ時間に遅れる!」
ハッとしたように顔を上げた優太は、慌てて玄関に駆け込んだ。
今日のために買った草履を履き、財布やスマホなど必要なものを手に持つ。
「それじゃあ……行ってきます」
先程の余韻がまだ残っているのか、優太は少し気まずそうにこちらを振り返った。
でも、ちゃんと目を見て挨拶してくれるところは昔から変わらない。
「ふふっ。行ってらっしゃい」
『引き止めちゃってごめんなさいね』と言い、私は優太を送り出す。
小さく手を振って玄関から出ていく優太を見届けると、そっと鍵を閉めた。
さて、私は私でのんびりしますか。
もう前のように若人達のところへ混ざる気はないため、居間へ戻って寛いだ。
時折、スマホの通知画面を眺めながら。
あのメールが届いた正確な日時は成人式の次の日だけど、何かしらの手違いで今日届くかもしれないし、気を抜かないようにしなきゃ。
届いたら、即返信してお礼を言うのよ。
『お金を払う覚悟だってあるわ』と奮起し、私はひたすらメールを待つ。
────が、翌日の夕方になっても一切連絡は来なかった。
お、おかしい……!
これまでは私の干渉した事柄を除いて、全部前回の展開通りになっていたのに!
「もしかして────私が逆行を望んでいないから?」
『お礼を言いたい』という感情は未来に作用するもので、未練とは違う。
また、私は前回と全く違う行動を取っていたためメール送付の条件を満たしていない可能性があった。
うぅ……そんな……メールの送り主には多大なる恩があるのに、感謝の気持ちを伝えることすら出来ないなんて。
歯痒いにも、程があるわ。
でも────相手が接触を望んでいないのなら、そっとしておくのが一番よね。
『お礼を言いたい』というのは、あくまで私の要求でワガママだから。
『恩人を困らせる訳にはいかない』と決心し、恩返しを半ば諦める。
「けれど、もし私の力が必要になったらいつでも連絡してきてください」
空っぽの受信画面を見つめ、私はスッと目を細めた。
「優太の生活や将来に差し障りないことであれば、何でもお力になります。まあ、ただのおばさんである私に出来ることなんて、限られているでしょうが」
『我ながら頼りない……』と思いつつ、私は苦笑を零す。
そして、そっとスマホの画面を撫でた。




