婚約破棄回避を失敗した悪役令嬢はガチムチイケメンに鍛え直される
作者のマッチョ好青年が書きたい欲が爆発しただけの話です。あまり深く考えずにお楽しみいただければ幸いです。
(はぁぁぁ。やっぱり外で待っておくべきだったのかも……)
ワイングラスが鳴り響き、賑やかしい音楽が奏でられている中、私は深々とため息を吐いていた。
周囲をぐるりと見回せば、皆がこちらに目を向けている。
よほどの金持ちでなければ袖を通すことが叶わないだろうドレスを纏っているから……というわけではない。それはこの場において別に特別でも何でもないことなのだ。
ではなぜ視線を集めているかと言えば、私が独りだから。
ここは煌びやかで華やかなパーティー会場。
本来、婚約者と共に入場するはずだった私は、いつまでも来ない彼に痺れを切らして入場し、まんまと孤立していた。
あれほど友人が多かったはずなのに、今となっては喋りかけてくるような相手もいない。
「仕方ない。待っている間、適当に茶菓子でもいただいておくとしようかな……」
そんな風に呟いたのと、パーティー会場の扉がバンッと音を立てて開いたのはほぼ同時。
その扉の向こう側には、黒髪に碧眼のスラリとしたイケメンと、ピンク髪のいかにも可愛らしい感じの御令嬢が腕を組んで立っていた。
イケメンの方が私の婚約者のラッセル・ミュワ・コルガン殿下。そしてその隣にいるのが男爵令嬢のアデル・ウォーラムさんだ。
(あ、この絵、見たことある)
――ライトノベルの中の白黒挿絵で。
どういうわけかポーズまで同じだ。ラッセル殿下は糸目をぎりりと細め、アデルさんはか弱い子鹿のように震えている。
これはやばい。そう思って口を開こうとするも、時すでに遅しで。
「ローレル・フィブゼット公爵令嬢! 僕はお前との婚約を破棄する!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
悪役令嬢。
それに転生したと気づいたのは、同い年のラッセル殿下と婚約を結び、初顔合わせを行った七歳の時のこと。
初対面のはずのラッセル殿下の、将来間違いなくイケメンに成長すると確信できるその顔を見て、ふと既視感をおぼえたのだ。
(私、この子のこと知ってるみたい? そうだ、確か何かのラノベのざまぁされる王子だった気が……。ちょっと待って、ラノベってなんだっけ?)
首を傾げた直後、膨大な量の情報――いわゆる前世の記憶というやつが雪崩れ込んできた。
私の前世はしがない女子中学生。
学校では陽キャ気味でクラスのムードメーカーを務めていたものだが、実は大のライトノベルオタクで、帰宅すると寝る間も惜しんで読み漁っていたりした。
死因は電子ラノベを読みながらの歩きスマホをして溝にはまるという情けないもの。そんなので娘に死なれた両親は悲しんでいるだろう。本当に申し訳ない。
……それはさておき。
そんな私がどハマりし、死の直前まで読んでいた一冊は、『追放された元悪役令嬢、隣国で商売を始めてみようと思います!』というタイトルの話。
その主人公である悪役令嬢ローレルになってしまったらしいと理解するまでには結構な時間がかかった。
なぜわかったかと言えば、この世界で生きてきた記憶もしっかりあるから。
ローレル・フィブゼット。名門公爵家に生まれ、使用人たちに囲まれて過ごすこちらの世界の当たり前もしっかり私の中にはあるのだ。
ローレルの人格に前世の記憶を急に満たしたせいで溢れかえり、前世の私の人格の方が優ってしまっているようだけれど。
(うわぁ、何度も妄想したことはあったけどまさか本当に異世界転生とか信じられない! あのローレル。超絶美少女のローレルだなんて……!! なんか興奮してきたっ)
そして前世を思い出すきっかけとなったのが、ローレルの婚約者である第二王子ラッセル。
彼は件のラノベにおいて、悪役令嬢に婚約破棄を告げ国外追放処分とするざまぁ対象のアホ王子だった。
見れば見るほど顔がいい。すごくいい。子供らしいまんまるな顔に大人びた目鼻立ちというバランスが最高だ。
もしも前世の記憶を取り戻していなかったら、一目惚れしてしまっていたと思うくらいには。
「何をぼぅっとしているんだ、お前は」
「あ、ああ、すみません。可愛い男の子を間近で拝めるとか眼福だなぁと思って」
「……は?」
戸惑う彼をよそに、私は思考をフル回転させた。
ラノベオタクの私的には、ここで三つの選択肢が考えられる。
一つ、本来の展開に従う。二つ、さっさと王子から離れて隣国にでも逃げてしまう。三つ、悪役令嬢ルートの回避を目指す。
(でも確かローレルにかなりの商才が備わっている設定だったんだよね。前世の記憶なしで成長すれば可能性はあったのかも知れないけど、婚約破棄されてから隣国の地で商売で成り上がっていくのを私が再現するのは至難の業。……かといって王子から離れて逃げるったって婚約した時点で無理ゲーだし結局捕まるのが目に見えてる)
「……なら、破滅しないようにしないと」
「破滅?」
「いや、こちらの話です」
いちいち首を突っ込んでくるラッセル殿下を軽くあしらう。
件のラノベでは、ローレルは彼に婚約破棄されてしまうわけだが、その原因を作りさえしなければその展開はやって来ないわけだ。
乙女ゲームの破滅回避という話はそれなりに読んできたので、回避方法も心得ている。そう簡単に陥れられたりはしないつもりだ。
ストーリー改変にはなるが仕方ない。前世は早死にしてしまったのもあるし、せっかく異世界転生なんていうすごいものを果たしたのだから、私は私なりに幸せを掴むために生きる。
(ともかく、そうとなれば早速行動。元のストーリーでは十七歳時点で婚約破棄されるところから始まっていたから、あと十年でどうにかすればいいだけ)
これなら楽勝、と拳を握った。
「よし、こうなったら絶対に婚約破棄回避してやるんだから!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『追放された元悪役令嬢、隣国で商売を始めてみようと思います!』における主な登場人物は四人。
主人公の悪役令嬢ローレル。その婚約者にして婚約破棄を告げることになるラッセル殿下。そして彼の恋人となる平民上がりのピンク髪男爵令嬢。最後は隣国にいるローレルの恋のお相手にして相棒となる男性だが、これは考慮に入れなくてもいい。
とりあえずピンク髪男爵令嬢を押さえておきさえすればなんとかなる。監禁や殺しはしないが公爵家の者をつけて監視させるのだ。
そう思って探してはみたのだけれど、今はまだ名もなき平民である故に全然見つけることができなかった。
(事前に芽を積んでおくのは難しいか。……でも、他にも対策は取るから大丈夫)
それから七年後、十五歳の頃に貴族学園という場所へ入学することになった。
ここは十五、十六、十七歳の貴族子女、そして王族が通う教育機関。そして物語の冒頭の舞台でもある。
でもきっと大丈夫だろう。
だって――。
「貴族学園が楽しみですね、ラッセル殿下!」
「そうだな。しかしローレル、あまりはしゃぎ過ぎるなよ?」
「わかってます」
元のストーリーでは信じられないくらい、ラッセル殿下との仲を深めておいたのだ。
政略結婚の相手であり、お互いに大した情はない――元のストーリー通りのそんな関係でいるわけにはいかないと、私は前世のコミュ力、そして今世で学んだ貴族としてのコミュ力の両方をもって彼と話をし、少しずつ親しくなっていった。
ちなみに日毎にラッセル殿下のイケメン度は増して、糸目で細身な美少年になっている。毎日これを隣で見ていられるのは眼福だ。
今では気軽に言葉を交わすことをできるほど。これならさすがのピンク髪ヒドインでも私たちの仲を引き裂くことはできない……はず。
でも油断はできないので、さらに対策をしておくに越したことはない。
(ヒドインが嘘で私を貶めようとしても大丈夫なように、多くの味方を作っておかなくちゃ。それには他の生徒たちとの交流を深めるのが一番よね。この世界においては女性のネットワークがものを言うし)
私の婚約破棄回避計画は万全。
あとは着々と進めていき、前世ではできなかった恋人との甘い時間を作って、結婚して幸せになる。
そんな風に考えながら、私は貴族学園生活を始めた。
仲の良い友人――まあ、いわゆる取り巻きというやつだ――が三人ほど、お昼休憩の時にお喋りを交わす程度の友人が十人ほどできた。どこに行っても彼女らに出会い、そして女子と男子で区分けは違うもの、度々ラッセル殿下とも顔を合わせる。
自慢じゃないがローレル・フィブゼットは相当な美少女だ。手入れされた白金の髪も黄色の瞳も文句のつけようがないほど綺麗で、前世のごく平凡な女子中学生だった私とはまるで別人のよう。……まあ事実別人なのだが。
しかも必死こいて勉強はトップレベルまで漕ぎ着けたおかげか、一部の女子生徒からは熱烈な視線を注がれていたりする。私に百合の趣味はないので無視しているが、悪い気はしなかった。
穏やかで何の気兼ねもない日々。しかしそれも一年限り。
二年生になった頃、元平民の男爵令嬢が転入してくるとの噂が耳に入ったのだ。
(いよいよここからが勝負。頑張らないと!)
ラッセル殿下と彼女が妙な接触をしないように気をつけるべきだろう。
そう思っていたのに、下級貴族のクラスの彼女はなぜか、真っ先に私に会いに来た。
「初めまして、ローレル様。アデル・ウォーラムといいます! 色々わからないことがあるので教えていただけませんか?」
肩までの長さのピンクブロンド、爛々と輝く碧の瞳、いかにもな可愛らしさを演出しているかのようなリボン。
赤茶色の学園の制服は、彼女の体格が小さいせいかややブカブカに見える。胸だけが飛び出て
顔立ちは美人というよりかは可愛い系で、ラノベの挿絵に乗っていたあざと可愛いピンク髪ヒドインを三次元にしたという風だった。
元のストーリーでは彼女はローレルとろくに顔を合わせたこともないくせに、嫌がらせを捏造してローレルを国外追放に追い込んで最後にざまぁされるというキャラ。
しかし私が今までの行動を元のストーリーと大きく変えたせいか、彼女と私の接触の場面が生まれてしまったらしい。
「ごきげんよう、アデル・ウォーラムさん。学園のことをお聞きしたいなら同じクラスのご友人に尋ねてみては?」
わざわざ私に会いに来なくても、と思って言ったのだが。
「実は同じクラスたちの子、ろくに口をきいてくれなくて……。王子様の心優しき婚約者と有名でいらっしゃるローレル様なら、もしかしたらお優しくしてくださるんじゃないかなぁって思いまして」
王子様の心優しき婚約者、なんて触れ込み、私は初耳だった。
私のファンの令嬢が言ったのだろうか。面倒なことになったと思ったが、でもこれはもしかすると却って好都合かも知れない。
早々にアデルさんを友人にすることができれば、ラッセル殿下の奪い合いになるような心配も減るかも知れない。それに恩を売っておけば私を貶めようという気にはならないはず。
(これ、意外に名案じゃない……!?)
今まで対策を練りに練ってきただけに少し拍子抜けではあるが、穏便に済ませられるならそれに越したことはない。
私は「わかりました。教えて差し上げましょう」と慈悲深く見えるように微笑んで、アデルさんの手を取った。
このことを後悔する日が来るなんて、思いもせずに。
私が彼女に頼まれて色々教えているうちに、彼女を平民だからと蔑み距離を置いていたらしい周囲の令嬢たちもアデルさんと親しくなるようになっていった。
平民上がりの男爵令嬢にもお優しいなんてと私の株は急上昇。全て私の思惑通りのように思えた。
アデルさんと行動を共にすることが多くなると自然とラッセル殿下と彼女が接触する場面も生まれる。
しかしアデルさんは「王子様とお話しするなんて畏れ多過ぎです……」と身を小さくしていたから、意外に男慣れしていないようだった。
彼女は娼婦の娘で、母親が男爵に身請けされたために男爵令嬢になったという過去がある。少なくとも元のストーリーではそういうことになっていた。
だからてっきりビッチだと思い込んでいたのだけれど、意外にそうではないのかも知れないと思っていた。
(これなら安泰。悪役令嬢とヒロインが仲良くなるっていうのは結構定番の展開でもあるし)
――そんな風に油断し切っていたのがいけなかったのだろうか。
不穏の影が忍び寄り、十七歳になった頃から徐々に徐々に、状況はおかしくなっていった。
「ラッセル殿下、一緒に昼食を――」
「悪い。今忙しいんだ。また今度にしてくれ」
忙しい。そう言って昼食を断られる毎日が続いた。
学園の中とはいえ、王族としての責務もある。しかし二、三日ならまだしも、何日も連続ではさすがに怪しい。
(これはもしや……)
ちょうど近頃アデルさんも別の友達ができたとかで私の前に姿を現すことが減り、考えたくはないがどうしても関連性を疑ってしまう。
そこで私は、ラッセル殿下の側近候補にしてご学友に頼み込んでみることにした。
あまり学園で男女が交わることが少ないので実際に会った回数は少ないのだが、パーティーなどで遠目に見たことならある。
殿下のご学友は二人、そのうち一人は眼鏡貴公子な宰相令息。そしてもう一人はいかにもな筋肉だるまで能無しそうな騎士団長令息なのだ。
パワーで解決する問題ではないと思うので、おそらく知的枠に相当するだろう眼鏡貴公子の方が目当て。
食堂を彷徨いていると割とすぐに見つかった。
「隣、ご一緒してもよろしいでしょうか。少しお話ししたいことが」
「ローレル嬢、何か?」
「最近、殿下のご様子がおかしいように感じるのです。私の杞憂であれば良いのですが……」
眼鏡貴公子は私の話を聞いて、「殿下に確認しておきます」と言ってくれた。
しかし今までの私とラッセル殿下の良好な関係を知っているからだろう、疑わしそうな目はしていたが。
他に私の今打てる手は何だろう。
アデルさんを問い詰める? これは逆効果な気もしないでもない。
(それにもしも私の早とちりだった場合、彼女に悪いし……)
下手なことをすれば、悪役令嬢と呼ばれるような事態になりかねない。
とりあえず静観が最善手。明らかな動きがあれば、私も行動を起こすべきだろうけれど。
しかしその考えは甘かったのだ。
翌日、久々にアデルさんにまとわりつかれた私は、一緒に学園内を散歩しようと誘われた。「実はわたし、好きな人ができて……」とはにかむアデルさんの恋の話を聞くために同行することにし――。
そこで、決定的な出来事が起こってしまった。
「きゃあっ」
校内を歩いていたアデルさんが足を踏み外し、階段から転げ落ちた。
ちょうど私が一歩後ろを歩いていたので、落ちていくアデルさんを見下ろす形になってしまった。
(あれ、これどこかで)
階段から転げ落ちるピンク髪。それを驚き顔で見下ろす悪役令嬢ローレル。
そうだ、思い出した。元のストーリーの中で『アデル嬢の性質の悪い自作自演が始まったのは、この時だった。』という文章と共に描かれていたシーンだった。
周囲に視線を巡らせる。目撃者は私を探しにきたのだろう、取り巻きの女子生徒三人組のみ。
「まあ、ウォーラム男爵令嬢!」
「ローレル様もいらっしゃいますわ!?」
「早くお医者様を」
バタバタと騒ぎ出し、階段下で倒れるアデルさんを駆け寄る女子生徒たち。
アデルさんはくるりとこちらを振り返って、怯えたような目をしながら言った。
「ろ、ローレル様……? どうして」
そしてここのシーンは彼女視点でも描かれていたことを思い出す。
なぜ今まで忘れていたのだろうと深く悔やまずにはいられない。
『怯えるような目を向ければ、ローレル・フィブゼットは驚き顔をした。
悪いね、ローレル様。わたしは心の中でニヤリと笑う。わたしと対話なんてしようと思ったのが運の尽き。彼女は今から事件の加害者。わたしが被害者になる。そしてかっこいいあの王子様のお妃になるのはわたし。
――好きなものは全力で奪いに行く。たとえ非道で汚い手を使っても、ね?』
やはり、彼女はピンク髪ヒドインだった。
私が今まで築き上げてきた色々なものがあっさりと崩れ落ちていく音が聞こえた気がした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
気づけば私は独りになっていた。
私がアデルさんと仲良くなったせいで、彼女と女子生徒たちの交流は大きいものになっていたというのも一つの要因。そしてもう一つは、アデルさんが自作自演を始めたこと。
しかも公の場では今まで通り仲がいいふりをして、私が彼女を避ければ避けるほど「ローレル様に嫌われてしまいました……」と周囲に泣き縋る。
私は完全に悪役で、アデルさんは健気な被害者。
友人たちが離れていき、最後には取り巻き令嬢さえも私の前に現れなくなるという最悪の状況。
ラッセル殿下はさらに私によそよそしくなった。宰相令息から何の知らせもないものの、おそらく私の見えないところで二人して会っているのだろうということは容易く想像できた。
そして学園の夏季休暇期間、開かれた夜会にて。
婚約者からの迎えはなく、独りきりで入場して参加したところ、後からやって来たラッセル殿下に告げられたのがこの言葉だ。
「ローレル・フィブゼット公爵令嬢! 僕はお前との婚約を破棄する!」
止める暇もなかった。
その宣言がなされてしまった瞬間、私の失敗は確定となった。
(あんなに頑張ったのに、結局これ? ……馬鹿みたい)
乾いた笑みが出る。
甘っちょろかった私のせいなのだろうか。アデルさんが入学してきた時点でこっそりと殺し屋でも雇っていれば良かった? でも前世の記憶がある私にそんなことはできなかった。なら最初からこの世界で婚約破棄回避なんて不可能だったということか。
結局は、元のストーリー通り。
一つ違う点があったとすれば、かつて私とアデルが親しくしていた……少なくともそう振る舞っていたという事実のみで結果は同じ。
「アデル・ウォーラム嬢への仕打ちの数々、未来の王子妃になる者として到底容認できるものではない」
「何もしていない――なんて言っても、信じてもらえませんよね。えーっと確か、そう、真実の愛?を結んでいるからでしたっけ」
真実の愛。それはラノベの中のラッセル王子が吐いていた言葉。そしてこれから目の前の彼も言い放つつもりだったらしく、糸目を不愉快げに見開いている。
せっかくのイケメンなのに、アホさ具合は元のストーリーから変えられなかった。そう思うとたまらなく虚しい。
「知ったような口ぶりを……!」
「婚約破棄からの国外追放、ですよね?」
図星だったのだろう。ラッセル殿下は「ぬっ」と唸る。
そんな彼の代わりに口を開いたのはアデルさんだった。
「ローレル様。謝ってくださったらわたし、ローレル様のこと許してあげられると思うんです。ですから――」
典型的なヒドインムーブで反吐が出そうだ。
謝罪を求めようなんて、酷過ぎる。もし私が頭を下げたところでどうせ婚約破棄は撤回なんてされないのに。
どうしたら良かったのだろうと思って、なんだか情けなくなって涙が出てきた。
「悪役令嬢の溺愛ルートが許されたっていいじゃない……っ。私は、何もしてない!!」
「それほどまでに頑なに認めたくないのなら、俺と決闘でもするか?」
冷たい眼差しを向けるラッセル殿下。
この国には決闘という制度があり、何か不服がある時に決闘を申し込みそれが相手方に受理され、決闘が行われた際、勝者の主張が受け入れられるという仕組みになっている。
決闘を拒否するのはできるがそれは戦わずして負けを認めるようなもの。後ろ指を指されて笑われることになる。
私には、無理だった。
そして私には無理だとわかっているくせに、こちらに敗北感を味わせるためだけに先ほどの言葉を放ったラッセル殿下への悲しみが湧き上がってくる。彼はもう私への欠片の情もないのだ。
こんなことならさっさと逃げておけば良かった。今から隣国に追放されたところで商才で成り上がれるわけもなく、野垂れ死ぬだけ。
ローレルはまだ十七歳。二度目の人生も二十歳を超えられないままで死ぬのなんて嫌だ。
それから子供みたいにわんわんと泣き喚いてしまい、その後のことはよく覚えていない。
気づいたらパーティーはお開きになっていた。
婚約が正式に解消されたのはそれから三日後のことだった。
破棄ではなく解消と改められたのは、私との婚約中にラッセル殿下がアデルさんと親しくなっていたことなどを国王陛下が鑑みてくださった故。しかし私にも責があったとされ、慰謝料は払われなかった。
私がアデルさんを虐げていたという証言は多数。確固たる証拠はないものの、そう簡単に覆せるものではなかったのだ。証人は男がほとんどで、その中に殿下の側近候補の一人であるあの眼鏡貴公子もいたらしい。
アデルさんが彼をどうやって籠絡したのかはわからない。ただわかったのは、彼女がやはり元のストーリーと違わぬビッチで、その手腕は確かなのだということくらいだろうか。
とはいえどうにか国外追放は免れたらしい。夏季休暇が終わり、私は学園に戻らざるを得なくなった。
……そこにはもう、何もないというのに。
下級令嬢は逃げ出し、上級貴族の令嬢からは蔑む目で見られる。
かつて私のファンだった者ほど見損なったとでも言いたげで、それがさらに胸を苦しめた。
アデルさんは度々私の元へやって来ては、「謝ってくれたら許しますからね」と繰り返すばかり。
そしてラッセル殿下と一緒の時は優越感たっぷりの笑みを私に向けてくるのだから本当に嫌だ。
『わたしは自力で恋を掴みに行ったのに、身分と容姿にあぐらをかいてたからこんなことになるんでしょ?』
まるでそう言っているみたいで無性に腹が立ってしまう。決闘を申し込み、顔面に一発拳をぶち込んでやりたい気分になったけれど、非力な私では指の骨が折れるだけに違いない。
「力が……力さえあれば!!」
誰もいない学園の裏庭で、悔しさに歯噛みし、叫んだ――その時だった。
背後から声がしたのは。
「なら、貴女にオレが力を授けよう!」
「誰っ!?」
聞いたことのない声。
慌てて振り返れば、私のすぐ後ろに一人の男が立っていた。
彼が着ている制服を見るに、この学園の生徒らしい。栗色の短髪に燃え盛るような赤い瞳の彼をどこかで見たような気がして、しかし思い当たらず首を捻る。
「突然声をかけてすまない、ローレル・フィブゼット公爵令嬢! オレはニック・メイブルという者だ!」
「…………あっ、もしかして」
(あのガチムチ脳筋?)という言葉を寸手で呑み込んだ。
ラッセル殿下の側近候補の眼鏡貴公子ではない方、筋肉自慢の騎士団長令息にして広大な領地を持つメイブル伯爵家の次期当主。
今までろくに言葉を交わしたことのない彼の登場に私は驚きを隠せなかった。
「近頃貴女がお困りの様子だったので、オレで良ければ力になりたいと思っている! 貴女は殿下の婚約者なのだろう!?」
大声でそう言いながらガチムチ脳筋が私にグイと迫ってくる。思わず後退りしてしまうほどの圧だった。
(この人、何を言っているんだろう。もしかして私への嫌味? それとも人目につかないこの場所で暴力でも振るうつもりかも。ラッセル殿下の命令、あるいはアデルさんが籠絡されて指示された可能性も……)
あり得ない話ではない。何せあの眼鏡貴公子はアデルさんの思い通りになっていたのだし。
私はガチムチ脳筋を警戒した。
「私に何をするつもりですか。不埒な真似をすれば許しませんよ」
「そのようなことはしない! オレの名にかけて誓おう!!」
いちいち声がでかい。というか元のストーリーではこいつは登場キャラが一文しかない完全なるモブキャラだったはずなのだが、キャラが濃過ぎやしないだろうか。
(鍛え上げてバキバキに割れてること間違いなしの腹筋、服越しでもわかるモリモリの上腕二頭筋、でかい声、そのくせ顔はいい。……これはラッセル殿下と同レベルにイケメンなのでは?)
貴族子女というのは美容に時間をかけるので美形が多いが、このガチムチ令息はまさに漢という風な顔立ちをしており、ひどく目を引いた。
(ダメダメ、ローレル元来の気質的にも二次元限定で面食いだった前世の私的にもイケメンには絆されやすくあるけど、それでまんまとラッセル殿下に裏切られたばかりでしょうが)
実はラッセル殿下と数年を過ごすうち、年頃の乙女らしくほのかな恋心を寄せていたりはした。
なのにあんな形で捨てられ、婚約破棄回避失敗したという事実を突きつけられて、私はかなりの人間不信に陥っている真っ最中なのである。
でも、たとえ私を騙すためのものだとしても、彼が浮かべる朗らかな笑みはなんだか心地よくて。
最近蔑みの視線ばかり向けられていたから、もう少しその温かさに触れていたかったのかも知れない。私は質問によって会話を繋ぐことを選択してしまう。
「先ほど力を授けるとか言ってましたよね? あれはどういう?」
少なくとも私の知る限り、この世界に魔法はないはず。ならば特殊な能力者なのかと疑ったが、全然そんなことはなかった。
「強くなる方法を伝授しようということだ! ズバリ、貴女を我が手で鍛え直し、美しい筋肉と逞しい心の持ち主に育て上げることを約束しよう!!」
「……はぁ?」
(私を鍛え直す? このガチムチ脳筋モブ令息が???)
あまりに信じられな過ぎて彼をまっすぐに見つめ返す。しかし向こうは少しも怯む様子がなく、ただただ笑顔を浮かべるばかりだ。まるで自分の言っていることが正しいと信じて疑っていないかのように。
「その筋肉というのをつければ、私の悩みごとが解決するとでも言うんですか?」
「それはわからん! だが、心当たりがあるからこそ貴女は力を欲したのだろう!?」
……悔しいがその通り。私は確かに、アデルさんに、そしてラッセル殿下に挑み、顔面へ一発喰らわせたいと思っていたところだ。
でもそれはふと考えたことに過ぎず、あまりに邪道な解決法ではなかろうか。悪役令嬢たる者、華麗な復讐を見せるのが醍醐味だと思うのだが。
(でもきっとこのままじゃ泣き寝入りして、そのまま学園生活が終わってあとは社交界で笑われながら生きる地獄が待っているだけ)
富はある。財力はある。だが人望は失ったし、元々地頭がいいわけでも冤罪の証明なんていうことができるわけでもない。
(それに比べたら、ガチムチ脳筋を信じて従ってみた方が絶対面白くなる)
全てアデルさんの掌の上で踊らされているのかも知れない。
それでも構わなかった。
頬がわずかに吊り上がり、自然と口から言葉が出ていた。
「わかりました。あなたのお言葉を信じて差し上げます。ニック様、では早速その鍛えるとやらをしてくださいませんこと?」
「ああ、いいとも! オレのことは呼び捨ててくれて構わない。これからよろしく、ローレル嬢」
ガチムチ脳筋――ニック・メイブルは白い歯を見せてニカッと笑った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
彼が師匠となり、私は鍛えられることになったわけだが――それから始まった訓練は厳しく険しい道のりだった。
毎日昼時になると、食堂で急いで食事を終え、裏庭に集合。ほとんど利用者がいないので格好の稽古場になるのだ。
「来てくれたか、ローレル嬢! では早速始めよう!」
ニックは本当にいつも元気だ。あまりにも元気過ぎて、私はついていけない。
「裏庭百周! さあ行くぞ!!」
「こんな細い脚の私にできると思います!? 普通、まず最初はゆるいトレーニングから始めるんじゃ!?!?」
「オレについて来てくれ、ローレル嬢!」
そう言うや否や、彼はものすごい勢いで走り出してしまう。
必死に追いつこうとしたが、三十秒と絶たずに全身が悲鳴を上げ、心臓がばくばくと鳴り出してくたばった。
「……はぁっ、はぁっ、無理ぃ」
前世でも体育は得意科目ではなかったし、勉強で優秀な成績を収めるのにいっぱいいっぱいなせいで運動不足だったローレルではウォーキングすらできるか怪しい。
私が地面に座り込んだことに気づいたニックは駆け寄って来て、困ったような顔を見せる。
「この程度が貴女にとってきつかったとは思わなかったぞ! まだ準備運動程度なのだが?」
「あなたにとっての準備運動は私の限界値を超えてるんです……! もっと乙女の体を労ってください」
こちとら前世も含めれば三十年以上乙女をやっているのである。心身共に貧弱なのである。
「仕方がない! じゃあ幼児向けの内容にするか!!」
幼児向け? お散歩とかその程度だろうか?
それならできる。だが強くはなれないだろう――なんて甘く見ていた私が馬鹿だった。
「ひぃぃぃっ、腕立て伏せ五十回とかないわっ! 幼児にできるかこんなもん!!」
思わず口調が思い切り崩れてしまうほど地獄な目に遭わされていた。
腕立て伏せ五十回。私の体型はスレンダーとはいえど、木の枝のような腕に支えられるわけもなく、十回程度で崩れ落ちてしまう。
「最低でもそれをしないと強くはなれないぞ!! 頑張れ、頑張るんだローレル嬢ッ!」
私を激励するニックはといえば、見るからに重そうなダンベルを軽々と持ち上げたり、逆立ちの状態で腕立て伏せのようなことをしたりとボディービルダーのようなことをしている。とても貴族令息には見えない。
「うぅぅぅっ、でも負けてはいられない……!」
私は歯を食いしばり、目をカッと見開く、
手を地面につけ力を込め、体を上下させるだけ。簡単な話だ。頑張ればきっとできるはず。
しかしやはり十回弱でぺしゃんこになり、全身が痛み始めた。しかし諦めずに挑んだ三度目、今度は五度で限界だった。
「ひぃ、ひぃ、ふぅ。これで限界……もう、無理です」
「何を言っているんだローレル嬢。筋肉が上げる悲鳴に耐え、限界を超えてこそ意味があるんだ! さあ!!」
さすが脳筋!と叫びたくなるのを我慢して、私はフラフラと立ち上がる。
――そのあと腹筋十回をさせられて体力が死んだ。
毎日のように腕立てをし、腹筋運動をはじめとしたありとあらゆる筋トレをし、裏庭を走りまくって、徐々に体力をつけていった。
「はぁ、はぁ、はぁ、足が攣る!」
筋肉痛がひどいし、すぐに息が苦しくなるし、足が重くて前に進めなくなる。
そんな私のすぐ隣についているニックは、「もっとできる!」だの「とにかくやるんだ!」だの励ます励まし、私がどうしても限界の壁にぶち当たった時は、意外に丁寧に説明してくれた。
筋肉の効率的な動かし方、負担軽減の方法など。
教わったことをそのままやってみると、なるほど確かに少しは楽になった。
それでもきついことはきついのだが。
「なかなかいい調子だ!! あと腕立て伏せ百回!」
ニックの辞書に手加減という言葉はないらしい。
おかげで私の細かった腕は元々とは比べ物にならないほど太くなり、足もずいぶんと逞しいものへ変化した。肩幅も広くなったもののまだ制服を着ていたらどうにか誤魔化せるレベルだが、ドレスを着てしまえば違和感が半端ないと思う。
(どうせいくら美しく着飾ってても笑われるなら、筋肉のついた令嬢が可憐なドレスを着ている滑稽さで笑われた方がまだマシかも知れないけど)
筋トレに日々励んでいるおかげか、心も少し強くなってきたような気がしないでもない。
いくら蔑みの目で見つめられても体を動かせばストレスが吹き飛ぶようになったし、もしかすると婚約破棄前より健康的な生活を送っているかも知れない。
一ヶ月くらいの間ニックに指導されて、わかったことがある。それは彼が完全なる善意で指導してくれているということ。
どうやら私の変化に気づいたらしいアデルさんが「一体何をしてるんですか?」と天使のような微笑みを浮かべながら、しかし目は全く笑わないで問いかけてきたことがあったのだ。こちらも笑顔でスルーしておいたのだけれど、つまり彼女の差し金ではないと判明した。
ラッセル殿下の指示なら彼女も把握していてもおかしくないし、私自身少し探ってみたのだが大した繋がりは見られなかった。一応ご学友ではあるのだが、ラッセル殿下は彼の熱さに辟易して離れ気味らしいということは掴めたが。
確かに常人であれば鬱陶しいと感じるだろう。しかし今の私にとって、裏表がなく、裏切られる心配がなさそうな人物というのは非常にありがたいものだった。
「ローレル嬢もだんだんと一人前になってきたな!! 芸術品のような肉体が光り輝いて見える!」
「そうでしょうそうでしょう!」
ニックに釣られて私の声にも力が入る。
認められているということが嬉しい。今の私になら、何でもできるような気がした。
だから――。
「ニック、私、決闘したいと思っているんです」
「決闘? ああ、そういうことか! オレといよいよ対戦を」
「違いますっ。どうしてそうなるんですか、この脳筋! ……私がボコりたいのはラッセル殿下と男爵令嬢のアデルさんですよ」
私がアデルさんをいじめていたことの冤罪をしっかり晴らそうだとか、名誉挽回だとかの目的はあるが、それは二の次三の次。
それよりあのむかつく美少女顔を凹ませてやりたい、信じていたのに裏切ったラッセル殿下のイケメンな顔も腫れ上がらせてやりたいというのが私の純粋なる望みだった。
決闘は合法だしそもそも提案してきたのは向こうなのだから何も問題ないはずだった。
「ラッセル殿下に、か。本来側近候補であるオレが言うべきではないのだろうが、それがローレル嬢の決断であればオレは応援しよう!」
「ありがとう。私、頑張りますね!!」
ニック・メイブルは元のストーリーにおいてはいてもいなくても同じ、ただのモブ令息。
けれど彼のおかげでここまで来られたのだ。さらにニックの力強い笑顔に背中を押され、私の覚悟は揺るがぬものとなったのだった。
――そして、その日の夕刻。
授業が終わると同時に下級貴族の令嬢たちのクラスに赴いた私は、るんるんと鼻歌でも歌っていそうな足取りで寮へ帰ろうとしていた少女を引き留めた。
「こんにちは、アデルさん。ご機嫌麗しゅう」
「……ローレル様?」
一気に怯えたような顔になるアデルさん。しかしその瞳を見れば、私を馬鹿にしつつも何か裏があるのではと探っているのは明らかだ。
そんな彼女に、私は美しい微笑みを向けながら言った。
「あなたと、そしてあなたの想い人でいらっしゃる方に学園の裏庭にお越しいただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「ま、またわたしにひどいことっ」
「そうですね。今回ばかりは、そうですよ。――決闘いたしましょう、アデルさん」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「どういうことだ、ローレル。今更決闘など……! それにアデルはか弱い令嬢だろう」
「私とて婚約破棄されたら傷つき泣き出してしまうほどにか弱い令嬢でしたが? もしかして怖くなってしまったのですか、ラッセル殿下」
「そんなわけはないが……しかしアデルを戦わせるわけには」
裏庭へやって来たラッセル殿下は真っ先に私への文句を言い始めたが、少し言い返しただけで口ごもってしまう。
彼としては恋仲のアデルさんのことが心配なのだろう。まだ婚約者ではないらしいものの、アデルさんを娶ろうというつもりなのは丸見えだし。
「王子様ぁ。戦いなんてわたし、怖いですっ」
ぷるぷると震えながらラッセル殿下に縋り付くアデルさん。
彼女だけが気づいているのだ。私がここまで強気になる理由に。だから逃げようとしているに違いないけれど――。
「ダメです。逃げたら損をするのはどちらか、わからないわけではないでしょう? 『好きなものは全力で奪いに行く。たとえ非道で汚い手を使っても』。それがあなたの執念ならば、最後まで貫き通せばいかがですか」
ギョッとした顔をして私を見上げるアデルさん。その形相はしかしすぐに怒りへと変わった。
「……やってやろうじゃないですか。わたしを侮辱して、いい加減許せません!」
(侮辱ではなく元のストーリーの一文を抜粋しただけだけれど、この煽りは効果覿面だったみたい)
そういうわけでアデルさんは私の挑発に乗り、決闘を受けてくれることに。
ラッセル殿下も渋りながらも頷いた。
と、それとほぼ同時。
「待たせたな、ローレル嬢!! 審判を連れてきた!」
転がり込むようにして裏庭へ一人……いや、二人の人物が現れた。
ニックと、彼に担がれていたらしい学園長だった。
学園長は貴族学園内で起きた揉め事を解決するのが仕事であり、決闘も例外ではない。
学園内の決闘が始まれば審判になるのが決まりなのだ。
「でもそんな慌てて連れて来なくても……。少しくらい待てましたよ?」
「勝負は熱いうちにやるものだ!! さあ!!!」
いつになく大声量なニック。なぜか彼の方が気合いが入っている気がする。
一方で先ほどまで担がれていた割には冷静な学園長が、厳かに口を開いた。
「双方の合意があったものと認める。挑戦者は公爵令嬢ローレル・フィブゼット、対するは第二王子ラッセル・ミュワ・コルガン殿下と男爵令嬢アデル・ウォーラムの二名。
攻撃手段は相手を死亡させない限り、どのようなものでも構わない。先に相手に負けを認めさせた者の勝利とする。――では、決闘を開始せよ」
その合図の直後、私は迷わず制服を脱いだ。
脱ぎ去った制服の中、それまで押し込められていた二の腕の筋肉がまるで膨張したかのようになり、逞しい胸筋と鍛え過ぎて割れてしまった腹筋が薄い下着のドレス越しに顕になる。
少年らしい反応と言えるだろう、ラッセル殿下の視線が釘付けになってしまった一方で、アデルさんはといえば「ぎゃっ」と悲鳴を上げながら飛びすさった――ように見せかけて、スカートの中から何かを取り出し、投げてくる。
(あれは……コイン!?)
それなりの重量がありそうな金貨三枚ほど同時に飛来する。
まさかスカートの中にそんなものを入れているとは夢にも思わず、驚きを隠せない。おそらく常に自分が有利に立つためや何らかの交渉で使うために隠し持っていたものなのだろう。
それを武器に変えようという発想自体はなかなかにいい線をいっていると思う。しかしその狙いはめちゃくちゃで、かろうじて私の顔が狙いなのだとわかる程度。
あれくらいなら――。
「ふんッ!」
腕を振りかざして一気に叩き落とすだけで事足りる。
それを見て、驚きに固まるアデルさん。その間に私はまずラッセル殿下の元へ。
「ひっ」
先ほど金貨を叩き落とした挙動だけで私の強さがわかったのだろう。
腰を抜かして座り込むラッセル殿下へ、私はにっこりと微笑んで見せた。
「殿下お望みの決闘、お楽しみいただけていますか? 私の恨みはずいぶん大きいんですよ」
「ば、化け物……」
「失礼ですね。男爵令嬢を虐げた悪女の次は化け物呼ばわりですか。まあ別にいいですけれどもね。
ああそうそう、ラッセル殿下、一つ知らせたいことがあったんでした。アデルさんを婚約者にするのはやめておいた方がいいですよ。彼女、相当なビッチ……男好きですから。あなたの眼鏡貴公子な側近候補様にも抱かれていらっしゃるとの噂があります。お調べになってみては?」
ラッセル殿下が息を呑み、ちらりとアデルさんを見る。
彼女は慌ててガサゴソと次の金貨を漁っているところで、その視線には気づいていないようだったけれど。
「では、おやすみなさい。せいぜいご自分の所業を後悔してくださいね」
座り込む彼の股間をヒールで思い切り蹴り上げれば、悶絶しながら彼は意識を失った。
……さて、これで一人片付いた。次は私の後頭部目掛けて懲りもせずに金貨を投げてこようとしているアデルさんに一発お見舞いするとしよう。
振り返った私は白金の髪を鞭のように振るうことで今度は金貨の軌道を明後日の方向にずらしてから、アデルさんに歩み寄った。
「こ、来ないで! 何ですか、何なんですかローレル様! 急にそんな筋肉女になってどういうつもりなんです!?」
「理由を答えるとするならばあなたの顔面に拳を埋めるためですかね。結構苦労しましたよ、ここまで。私あんまり頭が良くないので、元のストーリー通りに商人として隣国で成り上がることはおろかろくに冤罪の証明もできなくて。幸せになるのが最大の復讐とかいいますけどそれが無理ならもうパワーでいくしかないかなって」
おそらく今の言葉の半分はアデルさんには理解不能だったに違いない。アデルさんは理解できないものを見る目で私を睨みつけたが、その小柄な体は震えを隠せていなかった。
「そんなんじゃ、本当にあなたはわたしをいじめたことに!」
そんなことを言ってしまってはまるで、今までの私のいじめとやらが偽りだったと言っているようだということにアデルさんは気づいていない。
まあ別にどうでもいいが。
「何を勘違いしているんですか。これは決闘。か弱い女の子だからって手加減してあげる理由なんて何もないんですよ?」
「待っ――」
「待たない」
拳がアデルさんの顔にめり込んだ瞬間、ゴンッと鈍い音がし、どろりと右拳に血が付着した。
「がぁぁぁッ」
地面に倒れ込み、全身をビクッと震わせながら痛みに悶えるアデルさん。
しかしこれで終わったりはしない。私は彼女へ静かに告げる。
「今から投げかける質問に全て正直に答えたら許してあげます。ですが嘘を吐いたらあなたの可愛い顔はぐちゃぐちゃになります。ではいきますよ?」
問いかけはたったの五つ。
一つ、私がアデルさんをいじめたというのが事実か。二つ、それが嘘だとして、どうしてそのようなことを言ったのか。三つ、証人をいかにして籠絡したか。四つ、先ほど投げた金貨の具体的な使い道。それは王家を傾けるための行為であったか否か。
最初の一撃があまりに痛かったのか、それとも顔面崩壊するのがそれほどに嫌だったのか。
私が脅すまでもなく想像以上にすんなりと答えたアデルさんは、自分の今までの行動が私を貶めるためのものだったと認めた。
「いいとこの令息を捕まえようと思ってたら王子様に出会って恋したの……。だから欲しくなっただけ。体を売って裏でお金をやり取りしてでも欲しくて……!! ごべんなざい、ずみまぜんでじだぁぁ!! ゆるじでくだざい……!」
最後は泣きじゃくり過ぎて聞き取りづらかったが、まあ大体これでいいだろう。
私が拳を収めたとほぼ同時、学園長が「以上をもって決闘を終了する」と言った。アデルさんの涙ながらの懇願が敗北宣言と受け取られたらしい。
「ざまぁ!」
ずいぶんと呆気ない決闘ではあったが、達成感はものすごいものだった。
「勝った! 勝ちましたよニック!!」
「良かった、貴女を鍛えた甲斐があったとオレも嬉しい限りだ!!」
ぎゅっと手を握り合って互いに歓喜する私とニック。
そうして勝利の味を噛み締めながら、思う。
(あの時、ニックの手をとって本当に良かった)
訓練は厳しかったし、元々の悪役令嬢ローレルとは似ても似つかない体型になってしまったけれど、それでも全く構わなかった。
地獄のような鍛錬を経て、やっと無念を晴らせたのだから。
「ニック、今までありがとうございました。おかげで私はここまで強くなれました」
もう何の悔いもない。このまま学園を卒業し、この鍛え上げた体を使って何か働きたいと思っている。
それならたとえ嫁ぎ先が見つからなくても生きていけるはず。こんなガチムチ女を娶ろうなんて思う令息は、そうそういないだろうし――。
「待ってくれ!!」
だが、なぜかニックに強く呼び止められた。
一体何だろう。わけがわからず、私は首を傾げるしかない。
(まさかもう少し私と共にトレーニングの日々を過ごしたいとか、そういうこと……? それとももっと重要なことが)
「ローレル嬢! どうしても告げたいと思っていた言葉があったのを忘れていた!!! その、あの、オレはローレル嬢を、花嫁に迎え入れたいと、そう思っているのだが!!」
(――――――――――は?)
長い思考の空白の後、やっと口を開き、言った。
「あの……脳みそが全部筋肉になったんじゃありませんよね?」
なかなかにひどい言葉だと自分でも思うが、だってそうとしか思えない。
私がニックの花嫁に?
少し待ってほしい。理解が追いつかな過ぎる。
そもそも普通、この世界における貴族子女は幼い頃に婚約を結んでいるものだ――アデルさんのような平民上がりを除いては。
だから貴族子息たちは彼女の物珍しさと付き合いやすさに惹かれて籠絡されていったのだろう。いくら彼女に攻略されなかったとはいえ、すでに婚約を結んでいるのはニックとて例外ではないはず。
それにどうして相手がよりにもよって私なのだろう?
落ちぶれた私を娶ったところで今更何の利益も得られないはず。前世で暮らしていた国と違い、この国における貴族の婚約というのは家の利になるように結ぶのが普通であるから、ニックの意図が不明だった。
「オレは本気だ! 本気で貴女を好き、求婚している!」
「す、き? あなたが、私を?」
好きなんて言われたのは今までのローレルとしての生涯、そして前世も含めて初めてで、声が震えた。
「強くなるために努力し、弱音を吐いても諦めず、まっすぐ歩み続けた貴女の姿に心惹かれ、日に日に逞しくなっていく肉体、そして貴女の強さに魅了されてしまったんだ!」
赤い瞳をキラキラ輝かせながら熱く語るニック。
彼のイケメン具合が最大限発揮され、あまりの眩しさに目を焼かれると錯覚してしまうほどだった。
(やばい。これはやばい。無理無理無理っ)
あまりの眩しさと気恥ずかしさに目を逸らす。しかしそうするとすぐにニックの顔が私の真正面へやって来てしまい、結局見つめさせられてしまった。
苦し紛れに言葉を紡ぐ。
「婚約者の方はどうするんですか。もしかして私に惚れてその婚約者の方を捨ててまで婚約したいとか、言い出しませんよね?」
「オレは強い女性が好きだ! だから婚約者は強い女性にするとずっと前に決めていたのだが、なかなか見つからなくてな。貴女に出会えて本当に良かったと思っている!!」
そういえば、ニックの隣に誰か他の令嬢がいるような場面を一度も見た覚えはない。彼の言葉は本当なのだろう。
疑いようもないその事実を前に、かぁぁっと顔が赤くなるのを感じた。
だってニックはイケメンなのだ。それだけではなく、何もかも失った私に力を貸してくれ、スパルタなトレーニングを施し、見守り続けてくれていた。
そんな相手に迫られて拒否するなんて私はできない。どうしても、無理だった。
元のストーリーではモブキャラでしかないこんなガチムチ脳筋令息に絆されてしまったことを認めるのは癪だけれど。
「あ、あなたがそこまで言うなら考えてあげても――」
しかし少しだけロマンティックだった雰囲気は直後、ニックによって塗り替えられた。
「そうか! そうか!! ローレル嬢と婚約できるとは嬉しいな! これほど嬉しいことが他にあるか!? いや、ない!!!」
「うわぁっ?!」
筋肉だらけで元の二倍は重くなった私の体を軽々とお姫様抱っこした彼が、「早く父たちに知らせ、ローレル嬢のご両親にも許可をいただかねば!」と言いながらものすごい勢いで走り出す。
向かうは学園の外。通常の生徒であれば乗り越えられない高い柵を飛び越えてしまった。
「ちょっと何やってるんですか急に!? やばい、死にますって!」
「貴女を死なせたりはしない!!! 貴女はオレの唯一にして最高の花嫁になるのだからな!!」
「それならもっと丁重に扱ってぇぇぇぇ!!」
私の悲鳴が虚しく響き渡った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そのあとの展開は目まぐるしかった。
ニックに担がれたままで彼の実家であるメイブル伯爵家、そしてフィブゼット公爵家へ赴き、挨拶を交わして即婚約するという信じられないような事態が発生。
私の実家も彼の家も意外にあっさりと――フィブゼット公爵家にしてみればもう嫁げなくなったと思っていた娘の婚約相手が見つかったのだから当然かも知れない――受け入れられてしまったのだった。
「馬車で五日分の距離を丸一日で走って往復するとか、どんな体力お化けですか。もはや人外レベルですよ」
「ローレル嬢もそのうちオレみたいになれるさ!」
さすがに人外レベルの体力お化けにはなりたくない。
――そんなこんなありつつ、決闘の翌々日の朝には学園に戻ってきた私たち。
昨日の決闘のことは学園中に知れ渡っているだろうなと思い、何を言われるかと身構えながら登校したところ、予想外の話が広がり、予想外の言葉を言われることになった。
「「「ローレル様、今まで本当に申し訳ございませんでした!!!」」」
真っ先に頭を下げてきたのは私の元取り巻き三人組。
一体何があったのかと問うてみれば、昨日の決闘の後にラッセル殿下とアデルさんの退学が決まったのだという。
アデルさんが自白した事柄についてを調べたところ、その証拠がボロボロと出て、彼女は責を問われて学園を追放。ウォーラム男爵家は平民に落とされた。
ラッセル殿下はアデルさんの言葉を丸呑みにし貴族社会の秩序を乱した罰として王位継承権剥奪の上で退学、その他アデルさんの協力者となった令息たちには謹慎の罰が課されたのだとか。
「ずいぶん派手なことになってたなんて……」
「殿下のことは残念だが、相応の報いだ。それよりローレル嬢の名誉が取り戻されたことの方が重要だろう!」
「そうですね。それでもムキムキ女と笑われるのは必至でしょうが」
しかし意外にそうはならなかった。
学園卒業までの間、今までの反動なのか何なのか学園卒業までの間ずっと令嬢たちに慕われまくることに。
どうやって筋肉を鍛えればいいのかと興味津々に聞かれるので困ってしまうが、悪い気分ではなかった。
「筋肉は力なり! やはり筋肉が全てを解決するようだな!!」
「THE脳筋の考えが正しいとは思いませんでしたよ」
私は苦笑しつつ、ニックの逞しい腕に自分の腕を絡めた。
本当にとんでもないことになったものだ。
ハマっていたラノベの世界に転生し、嵌められて婚約破棄回避に失敗したはずが、筋肉を鍛えたおかげであれよあれよあれよという間に騎士団長令息の花嫁だ。
色々あったけれど今は結構幸せなので、まあこんな珍奇な人生も悪くないかなと思ったりしている。
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