幕間 聖女のいなくなった国で①
祈りの間は静寂に包まれていた。毎日のようにそこで祈りを捧げていた聖女はもういない。石壁はまるで死んだように冷え切っている。
「あの、プラティナさまはいつお戻りになるのでしょうか」
神殿の下級神官であるトムは、中級神官のエドに恐る恐る声をかけた。
エドはあからさまな舌打ちをすると、両眉を鋭角につり上げ声を荒らげる。
「知るか! そんなこと俺が聞きたい!」
「ひぃ!」
怒りっぽいエドに声をかけたことを後悔しながらも、トムは勇気を奮い立たせて質問を続けた。
「プラティナさまは療養に行かれているだけなのですよね? 元気になられたら戻ってこられるんですよね?」
「……そのはずだ」
自信が無いのかエドの声は急に元気を無くす。その態度にトムはションボリと肩を落とした。
聖女プラティナが病気のため神殿から王城に住まいを移して一週間が過ぎた。
祈りの最中に突然倒れたプラティナに神殿の神官や女官たちは上を下への大騒ぎだった。
そのうちに医者が呼ばれ、騒ぎを聞きつけた王城の使者たちもやってきた。その中にはプラティナの妹姫であるメディもいて、これはとんでもないことなのではないかとトムは真っ青になった。
その予想は悲しくも当たってしまい、プラティナは療養のために神殿から王城に移送されることになった。慌ただしく運ばれていくプラティナに挨拶一つできなかったことをトムは今でも後悔している。だって、まさかこんなにも長く帰って来ないとは思っていなかったから。
「司祭さまの話では長くて数日と言っていたのに」
「あの人、何の役にも立たないじゃないですか……」
「うるさいっ!」
「ひっ!」
女王に同行して国を出ている神殿長の代理として神殿を統括している司祭は、王家が寄越してきた老いぼれだ。神殿の仕組みには酷く疎い。形だけの代表者である彼は、王家から言われたとおりに事務をこなすことしかしない。
プラティナが祈ることを止めてもう一週間だ。ひたひたと押し寄せる不安にトムだけではなくエドも顔色を悪くしていた。
「そろそろ薬も作らなくては。信徒たちが押しかけてきますよ?」
「わかってる!! だが、神殿長代理もわからないというのだ! 仕方が無いではないか!!」
「ひぃ! 僕に怒らないでくださいよ!」
「お前が余計なことを言うからだろうが!!!」
「うわああん!」
怒鳴られたトムは涙目になりながら身体を縮こまらせる。
「とにかくプラティナさまがいない以上、あの薬はもう作れない。昔のように神官と女官を集めて薬を作らせろ。じゃないと大変な騒ぎになる」
「でも、俺たちが作った薬で大丈夫ですか?」
「……知るかっ」
吐き捨てるようなエドの言葉に、トムも鼻の頭に皺を寄せた。
「聖女代理さま、薬を作れるんでしょうか」
聖女代理。それはプラティナが療養している間、聖女を務めることになった王女メディのことだ。
プラティナほどではないがメディにも聖なる力は宿っているらしく、彼女にも聖女の資格があると国が認めたのだった。
女王と神殿長が揃って国を空けている今、正式な聖女任命はできないためあくまでも「代理」なのだ。
「馬鹿っ! 代理と呼ぶなとメディ殿下が言っていただろうが! 聞かれたらお前、ただでは済まないぞ!!」
「ひいい!」
トムは慌てて己の口を押さえて辺りを見回す。
幸いなことに誰もいないなと安心し、ほっと息を吐き出す。
聖女代理に収まったメディは毎朝神殿にやってはくるが、祈りの間に足を踏みいれることはしない。神殿長の息子であるツィンの部屋に入り二人で仲睦まじく過ごすだけ。
本当に聖なる力があるのならば、朝のひとときだけでも祈って欲しいと他の神官たちが懇願したそうだが、メディは「代理なんだから仕事はしない」と言い切ったらしい。
そのくせ、周囲が「聖女代理さま」と呼びかければ烈火のごとく怒り、ものを投げたり金切り声を上げたりと、うるさいばかりだ。
ツィンはそれを諫めるどころか「メディは可愛いなぁ」と鼻の下を伸ばしっぱなし。
「このままじゃ大変なことになりますよ」
「わかってる。もう司祭じゃ話にならない。先ほど、上級神官さまが神殿長さまに伝令を出したらしい」
「そうなんですか!」
朗報にトムの表情が明るくなる。
厳格な神殿長は戒律に厳しい。きっとメディの横暴を諫めてくれるはずだ。
「とにかく、プラティナさまが戻るまでは俺たちがなんとかするしかない」
「そうですよね……」
プラティナのことを思い出すとトムの胸がしくしくと痛んだ。
幼い頃から神殿に閉じ込められ、祈り続けていたプラティナ。
その聖なる力でこの国を支えている尊い存在。
だが、トムが苦しいのはプラティナの不在にではない。
「どうしてみんなあの方を大事にしなかったんでしょうか」
プラティナが倒れたと聞いて、トムが真っ先に思ったのは「やっぱり」だった。
夏だろうが冬だろうが薄い祭服一枚で朝から晩まで祈りの間にいたプラティナ。食事さえ最低限のもので、彼女を気遣う者は誰もいない。
否、誰も気遣ってはならないと厳命されていた。
「こんなことなら、王命に逆らってでもあの方に食事を届けておけばよかった」
こらえきれず目元と声を涙で震わせるトムに、エドもまた長いため息を吐き出した。
「俺たちに何ができたっていうんだよ」
言葉は冷たいが、その声音にはトム同様に後悔が滲んでいるのがわかる。
「とにかく、今の俺たちにできることはプラティナさまが戻ってきたときに気に病まないようにすることだけだ。とにかくやるしかないだろう。泣くな!」
「ふぁいっ!」