王太子妃の暗殺
止まっていた時が進み出す。と同時に、参列席がどよめき出した。最前列に座る衛兵隊長が立ち上がり、俺を警戒するかのような姿勢を取る。
「ニック・ロビンソン?」
進行役の男が驚きの声を上げた。目の前のアナスタシアも、目を丸くしてこちらを凝視している。
そうか。跪いていた俺が、突然立ち上がっているから皆驚いたのだ。精霊との契約、その一連のやり取りの間、周囲の時は停止していたのである。
「あ、あの……」
困惑の表情を浮かべる彼女の顔を見て、俺は慌てて手を離した。
「も、申し訳ございません」
その時であった。突如脳裏に見知らぬ光景が現れたのだ。
それはとある都市の光景であった。どうやらかなり栄えた都市のようであるが、多くの建築物は崩壊し、通行人の姿も見当たらない。廃墟同然の様相を呈しているのである。そして視界の中央奥には、何やら巨大な建築物が聳え立っていた。しかしその建物も半壊しており、最早原型をとどめていない。
いや、この巨大な建物には見覚えがある。五層建ての石造り建築、隣接する高層の時計台。そして、正門まで一直線に伸びる石畳の道路。
(王宮だ。これは王宮だ。今、目の前にある……)
となると周辺の廃墟は、すべて王都の建築物なのか。まるで巨大地震か、大火災でも起きたかのような荒廃ぶり。まさかこの光景は……。
「早速上書きか。これは、未来の俺が見た光景なんだな……」
「ニック! ニックロビンソン!」
参列席から衛兵隊長が怒鳴り声を上げている。まずい、本当にまずい。新任衛兵の着任式で、しかも王室一家の御前でのこの失態。報告書レベルでは済まされないかもしれない。もしかしたら初日で除隊されるかも。
左に目を向けると、次の新任衛兵がすでに壇上へ上がっていた。控え室で、不自然な緊張を見せていた彼である。
「ニック殿。後が詰まっています……」
進行役の王室職員が弱々しく俺に語りかけた。しかし壇上に上がった新任衛兵は、そのままこちらへと歩み寄って来る。
「ジェイソン殿、お待ちください」
進行役の制止を無視して、彼は足早に近づいてきた。その額からは、汗が滝のように流れ落ちている。息も荒いようで、半開きの口元から苦しそうな呻きが漏れ出している。そして彼は懐に手を滑り込ませ、何やら鈍く光る物体を取り出した。
「短刀だ!」
思わず叫んでいた。会場参列席から悲鳴が上がり、壇上の王族たちが一斉に立ち上がる。
「あッ……」
俺は自分の目を疑った。微かに聞こえた声の主は、アナスタシア王太子妃から発せられたものだった。彼女の口元から血が溢れ、そのまま彼女の身体は崩れ落ちた。
どうなっている。ジェイソンはまだ攻撃の様子を見せていない。まさか、彼女に能力を行使したのか。
「お前! 一体何を!」
こちらが身構えると、ジェイソンは一瞬怯んだように見えた。その一瞬の隙を俺は逃さなかった。彼の顔面に一撃、強烈なストレートをお見舞いする。おそらく彼は契約者だろう。しかし能力を使わせなければどうということはない。今までもこうして、俺は能力持ちの同級生を圧倒してきたのである。
俺の拳は見事に顎を捉え、ジェイソンはのけぞるように倒れ込んだ。脳震盪を起こしたのだろう。立ち上がろうにも立ち上がれない彼のもとに、どこから現れたのか、大勢の王室衛兵が飛び掛かった。
「アナスタシア! はやく医師を! アナスタシアが!」
絶叫する王太子、うろたえる国王。逃げ惑う参列者たち。
俺はジェイソンの落とした短刀を拾い上げた。彼はなぜ短刀を取り出したんだ。王太子妃はおそらく何らかの能力で襲われたはずだ。遠隔で人を殺せる、おぞましい能力で。短刀を使う必要は無かったはずである。
「ニック、よくやってくれた。その短刀はジェイソンのものだな。渡してくれ」
衛兵隊長の言葉に、俺はすぐさま短刀を手渡そうとした。しかし俺の頭にある考えが過ったのである。
「隊長、王太子妃殿下の御容態は……」
「……」
「分かりました」
「おい、短刀を……」
俺は王太子妃のもとへと向かった。彼女の周りには、おそらく医療系の契約者であろう数人の医師が集まっている。
「皆さん離れてください」
過去の俺は理解するだろうか。短刀と、王太子妃の亡骸。この光景を見て俺はどう動く。引き継げるのは、今眼前に広がる光景のみ。
(さあ、戻ってくれ)
空間が歪み、視界が闇に包まれてゆく。そして、俺は緩やかな眠りについた。