08.母の記憶
至近距離で見えたリセリアは、蜂蜜色のゆるく波打つ髪に青い瞳を涙で潤ませた、とても綺麗な女性だった。
ゆらゆら、ゆらゆら。
あたたかなぬくもりに包まれてラクジットは微睡の中にいた。
優しく頭を撫でる蜂蜜色の髪をしたリセリアへと手を伸ばせば、あたたかな手のひらが小さな手を包み込む。
柔らくて滑らかな手の感触が気持ちよくて、ラクジットは両手で彼女の指を握る。
「ラクジット、可哀想な子。この国に生まれなければ、生け贄になど選ばれずに王女として生きられたのに。私に力があれば、アレクシスも奪われなかったのに」
“泣かないで、泣かないで。私は大丈夫だから、お母さん”
涙を流す母を慰めたいのに、乳児の口では「あー」「あぅー」という喃語しか発せられない。
少しでも安心して欲しくて、腕を伸ばしてリセリアの頬に触れてニッコリ笑いかけた。
「こんなに可愛いのに、離れなければならないなんて。ラクジット、ごめんなさい」
綺麗な青い瞳を涙で潤ませたリセリアは、ラクジットを抱き締める腕に力をこめた。
「アレクシス王子は乳母にも慣れて健やかなご様子でしたよ。ダリルが王子の護衛に就きましたから、何も心配されることはありません」
無感情なヴァルンレッドの声色の中に、リセリアを気遣うような響きが混じる。彼をよく知っている者でなければ分からない小さな違いだった。
大好きなヴァルンレッドの声に優しい響きが混じっていたことが嬉しくて、ラクジットはじっと彼を見詰めた。
黒騎士としてリセリアに膝を折る彼は、今どんな表情をしているのだろうか。気になるのによく見えない。
「ああぅ」
ヴァルンレッドの顔が見たくて、ラクジットはまだぐにゃぐにゃで不安定な上半身に力を入れた。
「っ!」
力を入れて身動いだラクジットはリセリアの腕から転がりそうになり、恐怖で「ふぎゃっ」と悲鳴を上げた。
「ラクジット!」
「姫様!」
慌ててラクジットの体を抱え直したリセリアの手と、咄嗟に手を差し出したヴァルンレッドの指先が触れる。
思いがけない偶然の触れ合いに、二人はたっぷり数十秒見詰め合ったまま固まった。
「あぅー」
「っ! し、失礼いたしました」
「いえ、ありがとう」
見詰め合う二人が何故だか嫌で、ラクジットの出した声で弾かれたようにヴァルンレッドはリセリアに触れていた手をどけた。
ヴァルンレッドが身を引き互いの距離は離れたというのに、リセリアの心臓が早鐘を打っているのが彼女に抱かれているラクジットへと伝わる。
(もしかして、お母さんはヴァルンレッドのことを? ヴァルンレッドもお母さんのことを? まさかの両想いだったの)
竜王の生け贄となる王妃と黒騎士の許されない恋。
恋愛小説やゲームの中なら切なくて女の子が惹かれる状況だし、美男美女の二人はとてもお似合いだ。けれど、何故か胸がもやもやしてきたラクジットは口をへの字に結んだ渋面となる。
「ラクジット? 眠たくなったの?」
娘の不機嫌な様子に気付いたリセリアは、小さな背中をトントンッと優しく叩いて眠りに誘った。
腕に抱く我が子が目蓋を閉じて寝入ったのを確認したリセリアは、ラクジットのふっくらとした薔薇色の頬に口付けを落とす。
「ふふっ、寝ちゃったわ。可愛い」
ふと視線を感じて顔を上げると、何時もは無表情の黒騎士が優しい眼差しを眠っている娘へと向けていた。
「……ヴァルンレッドは、どうして黒騎士として陛下に仕えているの?」
王妃として据えられてから、リセリアの側にはヴァルンレッドが常に護衛騎士として仕えていた。
初対面こそはイシュバーン王国内外で畏怖する存在、黒騎士が側仕えをするなど恐ろしくて堪らなかったが、今では彼が付けている冷徹な仮面の下に、優しい素顔が隠されていることを知っている。
「私が陛下に仕える理由、ですか。そうですね、この国が帝国との戦争で疲弊した時代……命を懸けて、禁術を使ってまで国を、私達を守ってくださったのは陛下。陛下と共に生き、支えようと剣も命も私の全てを捧げたのです。あの頃の陛下は、正しく臣下と民を導く賢王そのものでした」
淡々と言うヴァルンレッドの瞳には、苦痛を含んだ暗い色が浮かんでは消える。
「そう、貴方は囚われているのね。この国と過去の陛下に」
目蓋を伏せて眠るラクジットを見ていたリセリアは顔を上げてヴァルンレッドを見た。あえて合わないようにしていた互いの視線が絡み合いぶつかる。
「今宵、転生の儀が行われます。私は、貴女を陛下の元へお連れしなければなりません」
吐き出した台詞に、自分の役目を再認識したヴァルンレッドは嫌悪感と苦痛から眉を顰めた。
感情を面に出さないように抑えていたヴァルンレッドだったが、こればかりは抑えきれなかったのだ。
初めて見るヴァルンレッドの人らしい顔に目を丸くしたリセリアは、微笑み腕の中で眠る我が子の頭を一撫でした。
「ヴァルンレッド、外の空気を吸いたいの。ラクジットをお願いね」
「リセリア様?」
了解する間も無く眠るラクジットを手渡されて、ヴァルンレッドは赤子の体の柔らかさと不安定さに戸惑いながら慎重に両腕で抱える。
「うー?」
微睡みの中、鼻腔を擽る慣れ親しんだヴァルンレッドの香り。
抱かれ方の変化とリセリアとは異なる気配で、眠りの淵を漂っていたラクジットの意識が浮上する。
うっすら目蓋を開いて見えたのは、母親とは違う顔。
至近距離で見上げたヴァルンレッドは、ヴァルと同じ顔立ちなのに違う人物に見えた。
思わず黒い騎士服に頬を擦り寄せると、ラクジットが目覚めた事に焦るヴァルンレッドはハッと息を飲み、目尻を下げた困惑の表情を浮かべた。
開け放った窓から室内へ吹き抜けた風によってカーテンがひらめく。
外から射し込む陽光が眩しくて、ラクジットは目を細めた。
「ずっと考えていたの。私が死ねば、代替わりした陛下は竜の精を得た花嫁の血肉を得られない、と」
窓からバルコニーへと出たリセリアはバルコニーの柵に背中をもたれかけさせる。
「生け贄は、生きたままで無ければ駄目なのでしょう? 代替わりの儀式の後に花嫁の血肉を食まなければ、精神は不安定なものとなってしまう。強大な竜王の力に、精神と肉体が蝕まれてしまうのよね。特に、次代の器は不安定な御方、だから竜王の力を濃く受け継いだラクジットが次の花嫁候補に選ばれたのかしら」
口元は微笑みを浮かべているのに、リセリアの瞳からは涙が零れ落ちた。
「なに、を」
「ヴァルンレッド、お願いよ。娘を、ラクジットを護ってね。一人になっても歩いていけるくらい強くなるまで、傍に居てあげて」
ぎしり、リセリアが柵にもたれる背中に力を入れたため上半身が揺らぐ。
「リセリア様!」
ヴァルンレッドの制止の声に、反射的にびくっと体を揺らしたラクジットは湧き上がる恐怖で「ふぇーん!」と大声で泣き出した。
「私の可愛い子達が、きっと、この国を竜王の支配から解放してくれる。だから、ヴァルンレッドも、解放されて」
微笑んだリセリアの体が、ベランダの柵からスローモーションみたいにゆっくりと落ちていく。
長い蜂蜜色の髪がキラキラ煌めいてとても綺麗で、ラクジットは必死にベランダへと手を伸ばす。
「うぁわーん!!」
火が着いたように泣き叫ぶラクジットは、茫然自失となり固まるヴァルンレッドの服にしがみついて泣き叫んだ。




