02.乳母と黒騎士
血筋と内包する強い魔力によって国王陛下の花嫁に選ばれたラクジットは、生まれてすぐに母親から離されて王宮の奥に建つ離宮で俗世とは切り離されて育てられた。
親類縁者とは完全に引き離され、数名の侍女と乳母のメリッサ、そして護衛騎士のヴァルンレッドがラクジットと関わり、離宮の敷地だけが彼女の生きる世界の全て。
名前すら知らない母親は長時間にわたる難産の末、ラクジットを生み回復することなく亡くなったとメリッサから聞いた。
乳母のメリッサと母親は仲の良い乳兄弟だったらしい。
亡くなった母親と、自分の前世の記憶とが重なってラクジットの目から涙が零れ落ちる。
我が子を抱けなかったのは、我が子を残して逝くのは、どんなに無念だっただろう。
命をかけて生んでくれた母の心を想うと、是が非でも生き延びなければならない。
「よしっ」
朝食を食べ終え一人になったラクジットは、パチンッと両頬を両手のひらで叩いて気合いを入れる。
侍女に頼んで用意してもらった手帳に、これから自分がやるべき事をさらさらと書き出していく。
前世を思い出してから書けるようになった日本語。
この世界の文字とは異なる日本語で書けば、万が一手帳を落として書いてあることを誰かに見られても、この世界の者は文字の意味は分からないはずだ。
『私のやるべき事』
①見極める
この先、逃亡しようとするラクジットを裏切らず、味方となってくれる存在を見付けて見極める。
これは比較的簡単だった。
離宮で隔離されて生活しているラクジットと、関わりのある者は限られているからだ。
「ねぇメリッサ」
「はい、何でしょうか?」
髪を結ってもらいながらラクジットは、鏡越しに栗色の髪を一纏めにしたロング丈のエプロンドレスを着た女性を見上げた。
鏡に映るメリッサは、髪と同じ栗色の瞳を優しく細める。
世話をしてくれている侍女は、いずれ生贄となり死ぬラクジットに対して余計な情が抱かないようにと上から申し送りでもされているのか、必要最低限の会話以外交わしてくれない。さらに入れ替わりも早く、半年サイクルで居なくなるため親しくはなれない。
侍女とは違い、赤子の頃からラクジットを育ててくれているメリッサならば、きっと味方でいてくれる。
「私は、大人になったら死ぬの?」
「はっ?」
思いもよらなかったラクジットからの問いに、メリッサは大きく目を開いて動きを止めた。
「そ、そんなことはありません。ラクジット様は必ず幸せになれますよ」
「幸せになれるの?」
無邪気を装って首を傾げて問えば、メリッサの顔から一気に顔から血の気が引いて蒼白となる。
「私は、ずっと生きていられるの? お母様みたいに、死なない? 私は、陛下に、殺されない?」
「っ!?」
青ざめたメリッサの喉がヒュッと鳴り、震える指先から櫛が落ちる。
(やっぱり、メリッサは知っているのね。国王陛下の花嫁として待ち受けている私の未来を)
「いいえ、ラクジット様、何があろうと私が貴女を御守りいたします。貴女は私の大事な娘同然の御方。大事な私の娘を死なせはしません」
両目に涙を溜めたメリッサは、小刻みに震える腕を広げて背後からラクジットを抱き締めた。
***
メリッサが側を離れた隙に自室を抜け出したラクジットは、離宮の外れにある木をよじ登り一階の張り出した屋根へと跳び乗った。
此処は、壁の影になって目立たないため、隠れるのには最適なのだ。なだらかな屋根は暖かく、日向ぼっこするために寝転がれる。それに、吹き抜ける風は気持ちいい。
小脇に抱えた枕を屋根の上に置いて、枕に頭を乗せてコロンと横になった。
乳母のメリッサは味方としてほぼ合格だろう。
彼女の実の子どもは生後直ぐに亡くなり、その一月後にラクジットの乳母となったと、以前離宮で働いていたお喋りな侍女から聞いた。
子を亡くしたばかりでつらかっただろうに、家族から離れて生後間もないラクジットの世話をしてくれ、実の娘のように真剣に叱り未来を案じてくれている。
母のように慕っているメリッサが、手のひらを返して国王にラクジットを差し出す真似は絶対にしないと確信出来た。
ポケットから出した手帳を開き、メリッサの名前の横へ花丸を書き込んだ。
メリッサの名前の下に書いた名前を見詰め、ラクジットは深い息を吐いた。
乳母のメリッサと同じくらい親しい人物、護衛騎士のヴァルことヴァルンレッド・ウェスパー。
(彼は……私の味方では無いよね)
彼はゲームにも出てくる敵キャラである。
ゲーム内のヴァルンレッドは、護衛騎士ではなく国王直属の部下、黒騎士と呼ばれる三人の騎士の中でも最強の実力を持つ強敵だ。
登場する場面は少ないが、彼とはラスボス戦前の中ボスとして必ず戦う相手である。
会話時の立ち絵と、中ボス戦前に表示される、氷の冷笑を浮かべてヒロインの行く手を阻むヴァルンレッドのスチルは、彼の冷たい美貌が完璧に描かれていて、敵ながら人気が高いキャラだったと記憶している。
黒い軍服や黒い鎧を纏い、黒に近い紫紺の短髪と濃紺色をした切れ長の瞳と大人の色気を持つ美形で、丁寧な口調で紳士な物腰ながら射るような冷たい眼差しを相手に向けていた。
美形で強い敵キャラとして一部の女子ファンから人気で、前世のラクジットもゲーム画面を見て「かっこいいな」と思ったものだ。
彼の強烈な印象は、整った外見だけでない。
ラスボス戦直前のヴァルンレッドとの戦闘は長期戦を強いられる。生半可なレベルではあっという間に全滅させられてしまうくらい彼は強いのだ。
魔法を纏わせた剣を手にヒロイン達と戦うヴァルンレッドは、一対多数というのに一撃で瀕死近い大ダメージを与える攻撃を繰り出し、剣技+追加効果という強力な全体攻撃も放つ。
回復魔法も追い付かず全滅して、何度か戦闘をやり直した。
彼の強さもそうだが、2のメインヒーローである王子を痛め付けて瀕死にさせたり、ヒロイン達を助けた村を見せしめとして焼き払ったりと、ラクジットの護衛をする過保護なヴァルンレッドの姿からは想像出来ないくらいの、血も涙もない冷酷キャラだった。
過保護であろうと冷酷であろうと、此処から逃げるのにはヴァルンレッドが最大の難関となるのは確実だ。
戦闘中に冷笑を浮かべて攻撃してくるヴァルンレッドを想像して……身震いした。
生まれて間もない赤子の頃から傍に居て、守ってくれていたヴァルンレッドと敵対するのは絶対に嫌だ。怖いよりも悲しくて想像したくもなかった。
もう逃げるのを諦め来世に希望を抱いた方が早いのかと、国王に娶られる前に自殺した方が楽かもしれない。
寝転がっていた上半身を起こして屋根の上にから下を覗く。
この程度の高さなら死なないが、離宮の一番上の屋根からなら死ねるかも。
ごくりっ、ラクジットは唾を飲み込む。
(やっぱり怖いし、死にたくない)
万が一、自殺しても死にきれずに捕まったら、それこそ逃げないよう意識は奪われて体だけ、胎だけは生かされ続ける存在にされるだろう。
(死ぬのは、最終手段だわ)
では、国王を受け入れてみるのはどうだろうか。
外見はとても冷たい美貌と言うのか、ラスボスとか出産後の事は考えずに国王を愛するよう努力してみたら、何かが変わるかもしれない。
(うわぁ! 暗黒竜を愛するとか、自殺するよりも無理だ)
国王の冷たい瞳と人とは全く違う気配を思い出して首を振る。
三百年の間生に執着し、子と妻を道具にしか見ていない者の考えを矯正するなど、とてもじゃないが出来ない。
闇に心身を蝕まれた暗黒竜を愛するなど、頭の中がお花畑になったヒロインか聖女様でなければ出来ないと思う。
(生まれながら魔力が強いのなら、国王と戦って勝てばいいのでは? いや、)
無理だ、と直ぐに打ち消した。
魔力が強かろうが才能があろうが、聖剣も無ければ勇者や聖女のような特別な能力を持たないラクジットが、どう足掻いたとしても三百年の間、竜の血と魔力を凝縮してきた最凶の暗黒竜には勝てない。
第一、ラクジットは魔法も剣も扱えないのだ。力で抵抗しようなどと、笑い話にもならない無理な話だった。
息を吐いてから、ラクジットは屋根の上へ寝転がる。
目前に広がる青空にはシュークリームに似た形の雲が浮かび、数羽の鳥が飛んでいるのが見えた。
サクッ
寝転がる屋根の下から、綺麗に整えられた芝を踏む誰かの足音が聞こえた気がして、ラクジットは首だけを動かして音がした方を見る。
「此処にいるってよく分かったね」
予想通りのタイミングで来た事がおかしくて、「あははっ」と声を出して笑う。
「姫様が居なくなったと、メリッサが慌てていましたよ」
先程まで考えていた相手、ヴァルンレッドが屋根のすぐ下にいた。近くに来るまで気が付かなかったのは、気配を消して近付いたのだ。
「ヴァルも慌てて探したの?」
「いえ? 私はラクジット様が何処にいらっしゃっても分かりますから」
涼しい顔で言うヴァルンレッドに、ラクジットは唇を尖らした。
「えー魔法なの? 何か嫌だなぁ?」
両手をついて勢い良くラクジットは上半身を起こす。
探索魔法を使ったのだとしたら、逃亡するのはしっかりと対策を考えなければならない。
「魔法など必要ありません。此処に隠れるのは何度目ですか? ラクジット様の隠れ場所は、全て把握済みです」
「むううっ」
離宮内に数ヵ所ある隠れ場所には、ローテーションで行っていたから直ぐには見付からないと思っていたのに。
頬を膨らませたラクジットは屋根の上からヴァルンレッドを睨む。
「それで、何をなさっていたのですか?」
「鳥か雲になりたいなぁって思って空を見ていただけだよ」
サァー……、吹き抜けた風に煽られた銀髪がふわりと広がる。
「鳥……ですか? そろそろ降りて来てください。降りられないのならば、私がお迎えに行きますよ?」
「やーだよっ」
べぇっと舌を出したラクジットは屋根の上に立ち上がる。
「とうっ」
掛け声を上げ屋根から飛び降りたラクジットは着地を決め、られなかった。
素早い動きで移動したヴァルンレッドが腕を伸ばし、ふんわりと落下するラクジットを受け止めたのだ。
「ちょっと! 離してよー」
「駄目です」
手足をじたばた動かして、ヴァルンレッドの腕の中から逃れようとするのにラクジットを抱く彼の腕は、ビクともしない。
「手を離したらラクジット様は飛んでいってしまうでしょう」
「飛んで行きたいもの。私もヴァルみたいに外に出て、いろんな場所へ行けたら幸せなのになぁ」
子どもっぽい仕草だと思いつつ、頬を膨らませたラクジットは横を向く。前世だったら痛い仕草だけど、今の体は子どもだから許されるだろう。
フフッと、耳元でヴァルンレッドが笑う声が聞こえた。
「いつか……私がお連れしますよ」
「本当に?」
吃驚して横を向いていた顔を動かした先に、濃紺の瞳を細めて微笑むヴァルンレッドの顔があった。
「ええ。貴女の幸せが、私の幸せでもあるのですから」
片手の腕に乗せたラクジットをも片方の腕で抱き締めたヴァルンレッドは、メリッサが待つ離宮へ向けて歩き出す。
やわらかい笑みを見せてラクジットを甘やかすヴァルンレッドが、冷徹で無慈悲な黒騎士ヴァルンレッドと同一人物には思えなくて……泣きそうになったラクジットは彼の首へ手を回して抱き付いた。