03.つかの間の休息
ラクジット視点に戻ります。
メリッサに手を引かれたラクジットが辿り着いたのは、高台に建つ宿屋だった。
前世で言えばカントリー風のホテルのような小綺麗な建物で、もう少し庶民的な宿屋の方がお値段的に良いのでは、とこっそりメリッサに聞いたところ、宿泊手配と金銭は全てヴァルンレッドが手配したらしい。
チェックインの手続きを済ませた後、従業員に通された部屋はベッド二台と小さな丸テーブルに椅子が二脚、ドレッサー、浴室にトイレまで設置されていた。
落ち着くようにと、メリッサが特別に調合して淹れてくれた紅茶の香りが鼻腔を擽り、高ぶった気分を落ち着かせてくれる。
紅茶を飲み終えたラクジットは、ぼんやりと窓枠に肘を突いて階下を眺めていた。
「ラクジット様、ヴァルンレッド様はすぐに戻って来てくださいますよ」
窓際から離れないラクジットを心配したメリッサは、窓硝子にずっと触れていたせいで冷えた手に自身の手を重ねる。
「うん、そうだけど……」
魔法を暴発させた現場も、絡んできた男達も、ヴァルンレッドなら心配は不用だろう。
「ヴァルがあの人達を殺してしまわないか心配なの。私のせいでヴァルを人殺しにしたくないから」
暗黒竜の腹心の黒騎士に「人殺しをして欲しくない」と願うのは可笑しな話だと思う。
ただ、自分のせいで“護衛騎士ヴァルンレッド”が誰かの命を奪って欲しくない。ヴァルから冷酷な黒騎士ヴァルンレッドになって欲しくないのだ。
「ラクジット様、貴女が優しい子に育ってくれて、私は嬉しいです」
優しく抱き締めるメリッサの腕の中は、あたたかくて安心できる。
背中を撫でられていくうちに、ずっと緊張していた体の力が抜けていくのを感じた。
「違うよ。私は何にも優しく無いよ」
ただヴァルンレッドや男達の身を案じている訳じゃない。
ヴァルが黒騎士ヴァルンレッドと同じ、ゲームでやっていたような残忍なことをしてラクジットの身に危険が降りかかることを危惧しているのだ。魔法の暴発で傷付けてしまった男達に対して抱いた罪悪感よりも自分の身のことを先に考えてしまう自分が嫌になってくる。前世の記憶が戻ったといえ、前世の倫理観よりもこの世界の感覚に染まっているのだと実感した。
罪悪感をよりも自分の身を案じる自己中心的考えと、前世で植え付けられた倫理観。その違いに戸惑うとは思わなかった。
***
暖かくてふかふかな毛布にくるまって、ラクジットはぼんやりと目の前の映像を見ていた。
目の前にあるのは、夫が冬のボーナスで買い換えた彼ご自慢の大型の薄型テレビ。
大型画面に映し出されているゲームの画面を見ながら、半ば眠りの世界へ入りかけていたラクジットは欠伸をする。
もうそろそろ終わらすかと、話をスキップするためにコントローラーのスキップボタンを押した瞬間、画面の中に現れた少年と目があった。
まだ幼さが残る11~12歳の、プラチナブロンドの髪にアイスブルーの瞳をした綺麗な男の子。
視線を外せなかったのは、彼の瞳には見ているだけで胸が痛くなるような、絶望と悲痛な光が浮かんでいたから。
ザッ!
森の中で呆然と立ち尽くす少年の背後から、剣を片手に持ち顔を黒い布で覆った男が現れる。
『危ない!』
少年に斬りかかろうとした男に向かって、咄嗟にラクジットは右手を突き出した。
ゴウッ!
木の葉を巻きこみ強風が吹き荒れて武装した男を吹き飛ばす。
叫び声一つ上げられずに、吹き飛ばされた男の体は近くの木の幹に激突した。
『大丈夫?』
寝ぼけた思考のままゲーム画面に声を掛ければ、目を見開いた少年が顔を上げる。
『君は、天使、なのか?』
呆然と掠れた声で呟く画面越しの少年。
少年の顔を何処かで見たことがある気がするのに、思い出せずラクジットは首を傾げた。
「う……ごほっ!」
口を開こうとして私は盛大に咳き込み、意識が一気に浮上する。
「お目覚めですか?」
咳き込みながら起きたラクジットの側へ、慌てて駆け寄ったメリッサが背中を擦る。
ゆっくりと上半身を起こして首を動かし、閉められたカーテンの隙間から射し込む朝日が照らす室内を見渡した。
「わたし、寝ちゃったの?」
窓から外を眺めていたのに、いつの間に眠ってしまったのだろうか。
「はい。離宮を出てから休む暇もありませんでしたから、お疲れだったのですよ」
確かに色々あって体も気持ちを疲れていたし、気がゆるんで寝てしまったのか。
「寝かしてくれてありがとう」
ベッドまで運んでくれた礼を伝えると、メリッサは嬉しそうに目を細める。
「ラクジット様、それはヴァルンレッド様にお伝えください。ベッドまでお連れしたのは、」
コンコン
ノックの音が聞こえ、メリッサはラクジットに軽く頭を下げて扉を開けた。
「ヴァル!」
部屋へ入ってきたのは、何時もと変わらない笑みを浮かべたヴァルンレッド。珍しい白色のシャツと黒いズボンという軽装と彼が帰って来てくれた嬉しさに、ラクジットの頬は安堵で笑顔になった。
掛布を蹴る勢いでベッドから飛び降り裸足で駆け寄ったラクジットは、身を屈めたヴァルンレッドの広い胸へ飛び込んだ。
夢の中で少しだけ前世の自分、妊婦なのに夜更かしして乙女ゲームを楽しんでいた事を思い出したラクジットは、ヴァルンレッドに抱きとめられて彼の胸に顔を擦り付けた。
(どんな素敵な攻略対象者よりも、ヴァルが一番格好いい。ヴァルンレッドじゃなくて、今の私はヴァルが好き)
攻略対象の貴公子達より、敵役ヴァルンレッド推しだった前世の自分がこの場に居たら、涎を垂らして羨ましがるだろう。黒騎士ヴァルンレッドではなくヴァルが戻ってきてくれたことに安堵する今の自分と、前世の自分はやはり違うのだと実感する。
「お土産です」
身を屈めたヴァルンレッドは、ラクジットの手のひらの上に甘い香りがする紙袋を乗せた。
「わぁー! エッグタルト!」
甘い香りがする紙袋の中身を確認して、ラクジットは歓喜の声を上げた。
朝食を食べた後、少し濃い目の紅茶とヴァルンレッドが買って来てくれたお土産のエッグタルトを頬張れば、甘すぎずまろやかな舌触りのクリームが絶妙に美味しくて、ラクジットは満面の笑みを浮かべた。
「そういえば、ヴァルとメリッサはどうして私の場所が分かったの?」
エッグタルトをしっかり咀嚼して飲み込んでから、向かいの椅子に座るヴァルンレッドへ疑問だった事を問う。
「ラクジット様が私を呼んでくれたから、危機的状況に陥っていることが分かりました。貴女の魔力が暴発した気配で場所を把握して、メリッサと共に転移したのです」
「そうだったの? 来てくれて嬉しかったよ。ありがとう」
魔力で居場所を特定したのは分かるが、名前を呼んだだけで状況を把握するなど出来るのかと、ラクジットは首を傾げる。
過保護なヴァルンレッドのことだから、知らぬ間に追跡魔法か感知魔法でもかけていたのか。
「それはそうと、ラクジット様には魔法を教えるよりも魔力のコントロールを教える方が先でしたね。私が来るのが遅かったら、危うく街の一部を破壊するところだった」
笑みを消したヴァルンレッドに淡々と言われて、ラクジットの眉尻は下がっていく。
「うう、ごめんなさい」
「いいえ。王国内では陛下の命により、貴女をアレクシス王子のように鍛えることは許されておりませんでした。ラクジット様は同年代の少女よりも外見と魔力、気配も目立つのに警戒を怠ってしまった。申し訳ありません」
謝罪の言葉を口にするヴァルンレッドの濃紺色の瞳と、普段と変わらない口調からは彼の感情は読み取れない。ただ、僅かに表情が陰っているように見えた。
ラクジットの前では優しい彼の本来の職務は、護衛騎士ではなく国王直属の黒騎士。
黒騎士にとって王命は命よりも王女よりも大事なものだ。イシュバーン王国に居る限り、命を捧げた国王には絶対に逆らえない。
(謝らなくても、ヴァルが国王に逆らえないことは分かっているのに)
「謝ることはないよ? ヴァルはずっと私を守ってくれていたでしょう?」
にっこり笑って伝えれば、硬かったヴァルンレッドの表情がやわらかくなった。