序:温室
『君は、君の種族の最後の人間になるかもしれない』
細い管と持ち手が特徴的な銀の如雨露を作業台の上に置いて、唐突に彼がそう言った。傍の椅子に腰かけていた少年は、何を言うのか、とでも言いたげに唇を曲げて彼の方を向く。
『人間だって分からない』
『うん、まあ。でもまだ今は滅びに直面しているほどではない』
全面ガラス張りの温室の中には様々な種類の植物が茂っていた。葉から蒸散された空気は湿っていて、つんと鼻腔へ微かに刺激を届ける。
温室には二人の他に人の気配はない。だがもしここに人がいたとしても、この大人びた青年と異様な外見の少年が会話を成立させているだなんてことにはよほどの人か、彼等の仲間でない限りは気が付かないだろう。熱気がこもっているためか、彼は軽く息を吐くと腕に通していたゴムでざっくりと艶の美しい黒髪を束ね始めた。彼が汗をかきにくい体質であることを少年は知っている。
『窓開けないの、アヤ』
『そうだった』
そう言いながら、言われる前から気が付いていたような表情だった。壁際のリモコンを操作すると壁のガラスのパネルの何枚かが開く。入ってきた風に額の白髪がふわりと煽られ、少年が目を細める。
『……お前も俺らと一緒だろ。大体種族なんて大袈裟な、どうせ』
少年の不機嫌を感じたアヤがやんわりとそれをとどめる。
『種族という言葉がしっくり来ないというのなら使わないけれど、君達のことを貶したりしたい訳じゃないんだ。この時代に君がそうやって生きているだけで貴重な存在だと思うよ。僕も、今も君達の仲間であることに変わりは無いよ。ただ』
軍手を嵌めた彼が小さく口を動かす。
『ほら、なんていうか。憶病だったから、仲間って言っていいのか分からないんだよ。翅を切ってもらったんだ、自分から望んで』
入口のドアを開けて細い小路を歩くアヤを少年は追いかける。初めて聞いたことだった。
『羽化してすぐに抜け落ちてしまったって言ってたのに』
『それは本当の話じゃなくて……揚羽蝶って分かる?』
『知らない』
『外側が黒くて、クリーム色の模様のある感じで、君みたいに綺麗な形には広がらなかった。狭い場所ではどうにも生活しにくいしすぐ傷つくし……人目が怖い』
最後に付け加えられたことがおそらく一番の本音なのだろう。アヤは考えるような素振りを見せてからおもむろに、作業中によく着ている服のゆったりとした袖口を肩まで捲る。
露出した肘の部分から、いつもは意図的に隠している滑らかな木炭色の肌の部分が少しだけ見えた。腕から首元や背中にかけてこの模様が広がっているらしいから、タトゥーのようというより肌の上にもう一枚変わった服を重ねているようなものといったほうが想像しやすいか。
アヤが言うには昔、翅の色や大きさや形は多岐にわたっていたという。突起のあるものや帆のような形のもの、色なら黒系統や淡いピンク。時間によって色が変わって見える翅の者までいたらしい。身体の方も、深い緑に輝く黒髪や青みがかった肌に変わる例があったそうだ。
少年が出会った数少ない仲間の翅は、自分含めシンプルな形をしていて、脆そうに薄い。髪も乳白色か金色かで、黒髪の者は少年が見た中では未だアヤ一人しかいない。そういえば彼の肌の模様をきちんと見せてもらったのは初めてだったかもしれない。それでも話を信じない理由など特になかったのに、と思いながら少年は黙って頷く。何事もなかったかのように腕を隠してまた彼は歩き出した。
アヤは小路の横にあった苗木を持って再び温室へ引き返す。温室の周りには疎らな雑木林がある。上には、静寂の見えない幕がぱりんと引きのばされているような青空。
『翅を切られたら死ぬはずだけど』
『処置が良かったか、運がとても良かったんだ。僕の他にもそういう事例が無い訳では無いって聞かされたし。感覚が色々と戻ってきてからは翅がまた生えてこないか朝夕ずっと確認していたけど、全部切り取られたら再生しないらしいね』
少年は微風に揺られながら少しだけ目を閉じる。見えない言葉の間にある感情を手探りで読み取るように。けれど距離があるためにアヤの言葉が全て少年に届いている訳でもなく、結局その時の彼の様子を想像してみるしかなかった。
例えば洗面台に鏡があり、そこに夕闇の青い光。上半身を剥き出しにして立つ。手術の痕と戻らない髪質、肌の色。特に何があるわけでもないのに迫りくる不安。もし翅がまた生えてきたらまた切りとらなくてはいけない。その時にまた生きていられるだろうか。
想像をするうち、何か別のことを思い出しそうになった。靄がかった記憶のそれを暴きにいくか迷った時、温室の一角に苗木の鉢を置いたアヤが少年の方を振り向いた。
『君は、翅を切りたいと思ったことは無いの』
気まずそうな表情で、ずっと聞きたかったんだ、と彼は付け加える。『僕が言えることでもないんだけど』
『……羽化したばかりの頃に戻ったら、翅を切ってもいいけど。でも僕はもう色々思い出しているから、低い確率に賭けて死ぬよりは、もう居場所が無いなって分かって死んでいく方が面白い。翅を切って努力しても元の生活に戻れるか分からないのなら、自分から居場所を探しに行く方がいい』
『うん。なるほど?』
彼が翅を持たなかった頃の声を少年は知らない。けれど、多分優しい声と評されるようなものだったのではないだろうかと少年は思った。
『でも本当は、どうして僕が、とはずっと思っているし、これが運命だとかそういう風にも考えない。多少の不便は承知でも、翅があっても無くても同じような生活ができたような気がするのに、そうはならなかった』
人目を引くなりに、不便ななりに、日常を過ごせればいい。どこかへ逃げる必要もなく、それまでと同じように安心して眠ることができればいいのだ。それが叶わないのは、愛想の無くなった環境のせいだけでは決してないだろう。翅を持つ者がその身に降りかかる苦境をどんな風に見ているのか、翅を持たない人間は知ろうともしないし、伝えることも難しい。
__日常?
『僕も理不尽を感じたことはある。苦しさも分かる』
沈黙の後で、アヤは少年に向き合った。黒真珠のような瞳。蕩けるような不思議な色味のせいで、重い答えにどんなものが含まれているか読み取りづらい。彼は穏やかに表情を上手く消している。口調もいつも通り。
それまでより強い風が吹いて、少年の背に広がる白い翅がひたひたと動いた。
『でも……本当にそれだけ?』
『それだけって、何が』
『翅を切らない理由だよ』
意味が分からないと眉を顰めた少年から視線を外して彼は水やりに使うホースをいじり始めた。今時ホースなど使うのは、植物に触れている感じがしないからと、スプリンクラー設備を入れるのを拒んでいるかららしい。撒き散らされた水の粒が軽く葉にあたる音がする。
『羽化した後、物を考える力が戻ってきて一番に、空を飛びたいと思ったんだ。自分が自分で無いような見た目になってしまったことに恐怖したし、他の人が見たらどう思うのかと頭を悩ませたりもしたけれど、その前にまず空を飛んでみたかった。さっきも言ったように自分の翅はあまり飛べるようなものでは無かったんだけれどね。本能的に宙に浮いてみたくなって、室内にいる自分が急に狭い空間に閉じ込められているような気がし始めたんだ。世界が萎むようで広がるような、あの感覚は新鮮だった』
ああ、と少年は息を吐く。定まらない記憶の中だが、自分にもそういう感覚があったような気がする。空を飛びたい、羨ましいとたまにアヤが何気なく零すのを聞くこともあった。
『地面に縛られなくていいというのはどういう気持ちなんだろう。戦いとか執念とか、色々な醜さを取り込み続けなければ生きていけないなんてことも無くなるのかな、って少し思うんだ。それに、僕からすれば君達の姿はとても美しい。変異ではなくひとつの進歩の形なんじゃないかとも考える人間がいても不思議じゃない。そう考えれば君の姿はむしろ恩恵だ。決められた道路に沿って歩く、土埃に汚れた人間を離れた場所で上から見下ろすのは、さぞ優越感のある眺めなんじゃないか』
ただ夢見るような語りだったかと思えば、途中から段々と心の影に踏み込む挑戦的な響きが加わる。静かではあるが明らかに試すような言葉に思わず少年は椅子を鳴らして立ち上がった。
『そんな悠長なことを考えていられる余裕があると思うのか。その辺の人間と違うならそんな事は言わないと思っていたのに』
『違うの?』
水音が止まる。
長閑な温室の景色と裏腹な居合でもするような視線に、少年の唇は震えただけだった。行き場の無い憤慨がどうしてそんなことを言われなければならないんだという混乱に変わる。優越感、恩恵。
『……そんな酷いことは考えない』
『責めてる訳じゃないよ』彼は表情を緩めてまた水を撒き始める。
『責めたって何にもならないんだから。正直な話としてどうなのか聞いてみただけだよ』
それでも、まだ答えを待つ圧力は消えていない。俯いて暫し黙り込んだ後で少年は首を振った。
『翅があることは悪いことばかりじゃないというのはもう分かっているし、もしかしたら楽しもうとする気持ちや……少しは、まあ優越感も感じていたかもしれない。でも人間を嘲るような、そんな方向に考えたことは無いよ。そんな考えを持つ奴がいるかどうか知らないけれど、僕は違う』
本当のことを言っているのに、どうしてアヤの方を見られないのだろう、と少年は考えた。なぜ後ろめたい思いばかりしてしまうのだろう。翅を持たない人間を見下しているなんて、それでは。
『だから、責めてる訳じゃないって言ったでしょう。どんな答えだって僕は別にいいんだって』
いつまでも渋い顔のままの少年に微苦笑してアヤは言った。
『もうこういう意地悪なことは聞かないよ。君が冷酷な人間じゃないってことは始めから分かっている。でも、君と話ができることが幸せだと思ったよ。……君は失望しただろうけれど、僕は、地面を歩く人間にも、空を飛ぶ君達にも共感することができていないのかもしれないね』
泡のような疑問。少年がそれを口にする前に、察した彼の方から答えが降ってきた。
『翅を切るという選択は僕が選んだんだよ、それは本当だ』
断定する彼が何となくむきになっている気がするのは気のせいだろうか。少年がホースを取るとアヤは『向こうの半分宜しく』と言い残し、伸びをすると出口へ向かう。普段より饒舌に喋っていた反動からかちょっと疲れたような雰囲気だった。
『僕はお昼にするけれど、君はどうする』
『少しだけなら』
『おや。そんなに僕も家に食べ物を置かないから多分本当に少ないけれど、用意しておくよ』
アヤの軽い足音が遠ざかる。十分広い通路なのに、水音に混じって自分の翅が枝葉に擦れる音がするのが時々気になった。
『……どうする』
自分へ向けた問いを投げかけても答えは返ってこない。
アヤがこの温室へ少年を迎え入れてくれてから随分経つ。彼の温室は、ここが安住の地なのだと少年に示しているかのような穏やかさだった。自分がアヤに言った言葉を反芻しても、満たされた環境だ。
でも、いつまで続くのだろう。いつまで自分がここにいられるのかと少年が聞いた時、自分の出来る限り長く、とアヤは言ってくれた。だが、本当は安全な場所などないのかもしれないし、元の人間に戻れないという点ではアヤも安全ではないことぐらい少年にも分かっている。
色鮮やかな花や若葉に場違いな物思いがなんだか滑稽な風に思えて、少年は唇の端を上げた。