始まりの戦い。
「――お前たちはそこから一歩も動くな」
薄暗い森の中、黒髪の青年が一体の魔獣と対峙していた。
――魔獣。
人に対して強い殺意と敵意を示す彼らを人々は恐れを込めてそう呼んでいる。
彼らの強靭な身体は鉄の矢すら軽く弾き、その鋭い爪と牙は騎士の鎧をも容易く引き裂く。
強靭な肉体と驚異的な生命力をその身に宿した血に飢えた獣。
自然が生み出したこの魔獣という存在は並みの人間が到底太刀打ち出来る相手ではない。
魔獣一体に対し、武装した騎士が数人がかりでようやく討伐出来るような怪物なのだ。
青年の目の前にいる魔獣――一般的には『針熊』と呼ばれる針の様に鋭い体毛を纏ったこの魔獣も辺境では恐怖の代名詞としてその名が通っている。
もしも街道などで旅人や商人などが運悪くこれに遭遇したならば、その先には悲惨な最期しか残っていないと言われる悪魔のような生き物である。
「――――」
だが、その最悪の生物を前にしているはずの青年には微塵も恐怖した様子はなかった。
烏羽色の髪から覗く瞳は決して揺らがず、ただ自分の目の前にいる敵を睨みつけていた。
歳はおそらく二十歳前後だと思われるが、肝の座り方が尋常ではない。
凶暴な魔獣を前にしても怯まないどころか自分の背後に隠れている二人の子供――近隣の村に住む二人の幼い兄妹に気を配る余裕さえあった。
「下手に逃げるような真似をすればアイツはお前らを狙う。だから動かずにじっとしているんだ」
そうやって青年は幼い子供たちに言い聞かせると――手にしていた槍斧の柄を一度強く握り込んだ。
「――心配するな。俺がついている」
青年は怯える子供たちにそう告げると、そのまま針熊に真っすぐと向かっていった。
「――――」
一歩一歩足を進めて行くごとに青年の瞳に強い意思が込められてゆく。
――グルゥゥ!!
近づいて来る敵に反応し、針熊が低い唸り声をあげた。
針熊はもう目と鼻の先。
青年の足が止まり、魔獣を前にしているとは思えないほどゆっくりとした動作で槍斧が構えられた。
槍斧の穂先が真っすぐに針熊へと向けられ、青年の身体に徐々に力が込められてゆく。
――ゥゥ。
野生の本能も場の空気を感じ取っただろう。
針熊の様子が変化する。
唸り声が徐々に消えてゆき、ただ無言で青年を睨みつけ始めた。
それまでの怒気が嘘のような静かな気配。
「「…………」」
薄暗い森の中、魔獣と人とが睨み合う。
張り詰めた空間の中、先に動いたのは――針熊だった。
目の前の相手に何らかの危険を感じたのだろうか――ほんの僅かにだが針熊の足が後ろに下がった。
その僅かな動きが――青年の瞳に殺意を宿した。
――グガァアアッ!!
青年の殺気にいち早く反応した針熊が凄まじい雄叫びをあげた。
「――シッ!!」
その時には既に青年――従騎士シド=ストラスは怪物の元へ、一直線に飛び込んでいた。