上
私には、古い記憶がある。それは、幼い頃の記憶とかではなく、本当に古い古い、遠い世界の記憶。それは一つでは無く、幾重にも重なり今の私が出来ている。
一番古い記憶では、私は巫女だった。
神に祈りを捧げ、神から与えられる神力と呼ばれる力を大地へと注ぎ、実り豊かな大地を維持する。それが私の仕事であり、生き方だった。そんな日々の中で、私は一人の青年に出会った。
見た目は普通の青年だったけれど、不思議な事に彼は、常識というものを殆ど知らなかった。私は、服を着る事の大切さから教え、食事のマナーや、勉強・・・そして、人を愛する事の素晴らしさと、切なさを・・・彼に教えた。
そう、私は彼と恋に落ちた。
けれど、今思い返せば、それが大きな間違いだった。
彼は、人ではなかった。私が見ていた平凡な姿は偽りだった。
彼の本当の姿は、美しい男神だったのだ。
私は、自分のしてしまった事に恐れおののき、平伏し、今まで彼に対してしまった事を深く詫びた。
しかし、彼は悲しい顔をして『私は私だ。君を愛した、ただの男だ。』と言いって、私の手を取った。
神と人、物語の中ならば、二人は幸せに暮らせるだろう。
けれど私達はそうはならなかった。
私のせいで、愛を知ってしまった彼は、神である事を辞め。そして、神を失った人々は怒り、神を誑かした悪女として、私を殺してしまった。
それが1度目の記憶。
次の記憶では、私は農家の娘だった。
毎日畑を耕し、季節と共に生きていく。楽な生活ではなかったけれど、穏やかな日々。
そこへ彼が現れた。
その世界での彼は王だった。賢王と名高い立派な王様だった。
しかし賢王は、私を見るなり全てを投げ出した。
王位も国も民達も、全て投げ出した。
『私は、貴女が何処に居るか分からないから、貴女が不幸にならないように王となり、国を整えた。しかし今、貴女が側に居る。それなのに王を続ける意味など無いだろう?』
そう言って彼は、私に向かって首を傾げていた。
そうして、私は王を惑わす悪女として殺された。
それが2度目の記憶。
次の記憶では、私は平民だった。
父は役所に勤め、母は内職という、ごく平凡な家。家族の仲も良く、平凡過ぎる平凡な日々。
そこへ彼が現れた。赤黒く、硬い皮膚で覆われた巨大な身体に、風を掴む巨大な翼。彼は、ドラゴンだった。
彼は私を見つけると、私を拐った。
きちんと皆に説明をさせてほしいと言う私に。
『私の今の姿はドラゴンなのだ。 説明などしても無駄だろう?』
そう言って彼は、私を連れ去った。
そうして私は殺された。彼を傷つけようとする者達から、彼を守ろうとして、殺された。
それが3度目の記憶。
それらの記憶が、本当にあった事なのか、彼は本当に存在していたのか、私には分からない。
証明する方法など何処にもない。
だって、今世の私は、まだ彼に出会ってないから。
今世の私は、男爵令嬢だった。
一代限りの男爵家の令嬢。
だから父が亡くなれば、私は貴族ではなくなってしまう。普通の令嬢ならば、何とかして貴族の家へ嫁ごうと思うらしいけれど、私は、誰とも結婚したくなかったし、誰とも会いたくなかった。
彼と出会う可能性のある事をしたくなかった。
それは、彼と出会えば、必ず死ぬからでは無い。
死なんて、いつか必ず訪れるものだし、短い間であろうと、彼と共に居られるのなら、私は喜んでその死を受け入れられた。むしろ、3回目の死で、彼を守って死ねたのは、誇りだと思えるくらいだ。
けれど、それは私の思い。
彼はどうなのか分からない。
彼は、1度目こそ、互いにゆっくりと知り合い、愛を育てたけれど、その後は盲目的だった。
私が、私だからという理由だけで全てを投げ出した。
彼は、本当にそれを望んでいたのだろうか?
私に会うまでの彼は、いつも仲間達に大切にされ、彼も仲間をとても大切にしていた。
私にさえ出会わなければ、穏やかに大切な人達と一緒に居られた。
私にさえ会わなければ・・・
だから私は、病弱を装った。
少し出歩いただけで、寝込み、少し寒ければ風邪をひく。
両親は、とても私を大切にしてくれ、病弱な事もあり、無理矢理結婚させる様な事はしなかった。
両親の口癖は
『我が家は1代限りの男爵だし、お金に余裕もある。無理に何かをする必要は無いよ。』
『私達は、貴女が心穏やかに過ごしてくれればそれで良い。』
だった。
私は、その言葉に全力で甘えた。
本当に屋敷から殆ど出ず、嫁にも行かなかった。
ただ穏やかに、日々を過ごす毎日。長い長い毎日。
歳の離れた妹が産まれるのを見守り、妹が嫁いで行くのを見守り、妹の子供達が成長するのを見守った。
その間に別れもあった。
屋敷で働く者達が旅立つのを見送り、母が旅立つのを見送り、父が旅立つのを見送った。
それでも、穏やかな日々だった。
死は逃れる事のできないもの。
そして、それは私もいずれ・・・
私の肌は、長い年月をへて、深い皺がいくつも刻まれた、元々栗色だった髪は白く変わり、仮病では無く、本当に身体を壊す事が多くなった。
幸い、両親の遺産があり、お金に困る事は無いし、世話をしてくれるメイド達もいる。それに、妹の子供達が偶に顔を見せてくれるから、寂しくは無い。
だから今世は、このまま穏やかに一生を終えられると思っていた。
そして、きっと彼も穏やかな一生を過ごしているはずだと・・・・思っていた。
「伯祖母様、こんにちは。」
玄関ホールに、軽やかな若い女性の声が響く。
元は、私の声も軽やかだったけれど、今の私の声は、ざらつき、少しだけ低く変わっていた。
「まあ、テレサ久しぶりね。来てくれてとっても嬉しいわ。」
テレサは、妹の一番下の娘の子供。
繋がりとしては薄いはずなのに、妹の子供達、孫達は私をとても大切にしてくれる。
「私も、伯祖母様と会えてとっても嬉しいわ。結婚してから、なかなか来れなくなくてしまって、ごめんなさい。」
なかなか来れないとは言っても、テレサは月に一度は必ず我が家へやって来る。
「何を言うのテレサ、私の事は良いのよ。貴女は結婚したのだもの、夫や夫のご両親、子供達を優先するのは、当たり前の事でしょう? 」
「でも私には、伯祖母様も大切な家族ですわ、それに私、伯祖母様に会うと、いつもホッとするの。」
「そう言ってもらえると、とても嬉しいわ。さあさあ、一緒にお茶でもしましょう。」
そう言って、何時もお茶をする部屋へとテレサを案内しようとする。けれど、今日のテレサは玄関ホールに立ったまま、少し困った様な顔をしていた。
「テレサ?どうしたの?」
「あの・・・伯祖母様・・・実は今日、どうしても伯祖母様に紹介したい子がいるの。」
「紹介したい子?」
子と言うからには、子供か女性かしら?
けれど、妹の家族が私に誰かを紹介したいなんて珍しい。
それは、嫌がらせではなく、私が会いたがらなかったから。妹も妹の子供達、孫達は、私が血縁者以外の者達を極端に嫌がる事を知っていたから、子供達を連れて来る事はあっても、婚約者や夫や妻を連れて来る事はなかった。
屋敷の使用人達は、流石に血縁者では無かったけれど、彼等は父が存命の頃に父が選んだ者達で、新しく入った者は一人もいなかった。
「まあ、テレサもしかして・・・」
そう言って私が、視線を少し落とすと、テレサは慌てる。
「違います。伯祖母様、私妊娠してませんから、というかもう無理です。私には、既に7人の子供がいるの知ってますよね。流石にこれ以上は、私の身体がもちません。」
てっきり、テレサのお腹に宿ったばかりの彼女を、紹介してくれると思ったのに、どうやら違うらしい。
「あら、そうなの?皆んな聞き分けの良いい、とても良い子達なのに。」
「それは、伯祖母様の前だけです。家ではメイド達も手を焼くほどの暴れん坊達なんですよ。」
テレサの子供は、息子が6人と一番下に娘が1人。
私の前ではとても行儀良く仲の良い兄妹だけれど、ずっと一緒にいるわけではないから、母親であるテレサがそう言うのなら、そうなのだろう。
今度、子供達とゆっくり話をした方が良さそうね。だって、テレサのお腹には、既に8人目の女の子が宿っているのだから。
まあ、本人に伝える気はないけれど。普通は、もう少し大きくならなければ分からない事だし、本人も気づいていない様だから。
「そうなの?なら、いつでも預かるから連れていらっしゃいな。貴女もメイド達も息抜きは必要よ。」
「伯祖母様。ありがとう。」
目をウルウルとさせ、心の底からそう言っているテレサに、この様子では2・3日中には連れて来るだろうから、何を準備しておくべきかしらと、子供達が喜びそうな物を思い浮かべていると、目の前のテレサがハッとした顔をする。
「違います。伯祖母様!紹介です。今日は伯祖母様に紹介したい子を連れて来たんです!伯祖母があまり人と会いたがらないのは分かっていますが、メイド達も年配になってきて、若い手が無い事が心配という建前と、先日うっかり孤児を拾ってしまい、その子に伯祖母様の話をしたら、どうしても会ってみたいと言うので、もし会って伯祖母様が気に入れば、こちらに置いてもらえないかという本音で、連れて来たんです。」
正直過ぎるテレサの言葉に、この子、貴族の妻としてやっていけてるのかしらと、心配になる。
「・・・テレサ・・・両方言っては、意味が無いと思うのだけれど。」
「うっ・・・と、とにかく、無理にとは言いません。あの子にも、断られたら諦めるように言い聞かせてありますから、会うだけ会ってもらえませんか?」
もう連れて来ているのだし、子と言うからには小さな子供なのだろう。自分は、子供を産む事は無かったけれど、子供は大好きだ。それに、私が老婆なのだから、今の彼もきっと老人のはず。会うくらいなら・・・良いかもしれない。
「仕方がないわね、馬車で待たせているのでしょう?早く連れて来てあげなさい。」
溜息混じりに言ったはずなのに、テレサは嬉しそうに顔を綻ばせ、荒々しく玄関扉を開くと馬車へとかけて行った。
・・・あの子、7人の子の母親なのに・・・気付いていないとはいえ、妊娠中なのに・・・そして、なにより貴族の夫人のはずなのに・・・全力で走って行ったわ。後で、注意しておかなくては。
そう思っていると、テレサが出て行った勢いで、閉まってしまった玄関扉が、けたたましい音を立てて開かれた。
「お・・伯祖母様・・・ゼェゼェ・・・連れて来ました。」
一欠片も待っていないのだけれど。
それより、お腹の子の事、それとなく早く教えてあげた方が良さそうね。このままでは、うっかりなんて事になりかねないわ。
「テレサ、走ってはダメよ。貴女貴族の婦人なのだし、最近体調が悪いんじゃない?少し顔色が悪い・・・わよ・・・」
そう言い終わろうとした時、突然私の周りから、聞こえていたはずの音、見ていたはずの風景、感じていたはずの感触。その何もかもが無くなった。