バッタの天敵
イースは食用チョークを食べることをきっかけにして、
通常の味覚が戻った。イースのつわり問題は完全解決した。
やったぜ!
オレは安心して工房で工作をしている。
ファルコン号を高速化するための
タービンゴーレムジェットエンジンTGJEV3のプロトタイプだ。
プロトタイプTGJEV3はブィーン!と高速回転して強風を送り出している。
うーむ。なかなか良い出来だ。
・・・
コンコンコン。
オレの工房のドアがノックされた。
「わいや。ちょっと相談があってな。いきなり来たで。」
この声は料理の神マーチだ。
どうぞ。入ってくれ。
やあ。マーチ。ひさしぶりだ。
エルザは元気か?お腹の赤ちゃんは?
「わいとエルザとお腹の赤ちゃんは元気やが、相棒に元気が無いんや。」
マーチの後ろから神の1柱が現れた。
(…久しぶりだな。ウノ。)
緑色の服を着た金髪青い目茶色い肌の美青年、草の神だ。
目に光を欠き、顔色も悪い。
お久しぶり。
草の神と会うのは結婚式以来だよな。
オレが縮地をマスターできたのは草の神のおかげだし、
今でも毎朝、縮地の鍛錬は欠かしていないよ。
草の神に元気が無いのは、何か事件でもあったのか?
「せや。事件や。」
(バッタたちに草が食い尽くされているのだ…。)
草の神の声は震えている。
バッタたちに草が食い尽くされる。
蝗害か…。
・・・
蝗害。
オレが元いた世界では、古代エジプトにおける「十の災い」の1つだ。
現代でも数十年に1度のペースで発生して飢餓の原因になる。
21世紀になってもバッタは大量発生している。
具体的にはオープン直前の関西国際空港にバッタが大量発生した。
その数は約4000万匹。
当時はニュースになり、その時は空港の運営者が殺虫剤を散布して対処した。
これによりバッタは数10万匹に減って事態は収束した。
ここでニュース的には終了した。
だが生物学的には話に続きがある。
殺虫剤から生き残った数10万匹のバッタに災難が降り注いだ。
バッタたちが昆虫病原糸状菌エントモファガ・グリリに感染したのだ。
これでバッタは1匹残らず死滅した。
バッタの天敵エントモファガ・グリリ。
昆虫に寄生するカビの一種だ。
・・・
オレが高校生の頃の話だ。
オレは高い木の枝に大量のバッタがしがみついて死んでいるのを見た。
好奇心をくすぐられたオレは、高校の生物の先生と一緒に調べた。
そしてエントモファガ・グリリが原因だと知った。
名前が長いから愛称的にグリリと呼ぼう。
バッタがグリリに感染すると次第に衰弱し、
まるで操られたかのように高いところによじ登って死ぬ。
木の枝にしがみついたままバッタの関節は硬化しており、
風が吹いても地面に落ちることはない。
地に落ちない死の宣告。
バッタの死骸内でグリリは増殖し、死骸は徐々にボロボロになる。
その間グリリの胞子が広範囲にバラまかれる。
より高い場所から風に乗せて、より遠くまで胞子をバラまこうという
グリリの生存戦略と考えられている。
グリリはカビの一種でありながら、戦略的思考をしているみたいだ。
グリリ凄え。
カビって凄え。
そうしてオレは微生物に興味を持った。
オレは大学の生物工学科に進学した。
微生物学の講義でグリリのような昆虫病原糸状菌は他にも数種類が知られており、
微生物農薬として盛んに研究されていることを知った。
もっとも研究が進んでいるのはハエカビ。
エントモフトラだ。
エントモフトラ・ムスカが標的にする昆虫はハエだけだ。
グリリ、すなわち、
エントモファガ・グリリが標的にする昆虫はバッタだけだ。
標的外の昆虫に対しては感染できないというデリケートな性質がある。
センシティブだ。繊細だ。
だからこそ微生物農薬として有効だ。
無差別に殺すなら毒で十分なのだ。
グリリを使えばバッタだけを1匹残らず死滅させることが出来る。
だが。
オレはなんとなく、グリリを使うのは最終手段のような気がする。
この世界において、グリリがどのようにバッタに感染するのか分かっていない。
他にもいろいろ手はあるはずだ。
バッタは草食昆虫であり食物連鎖では底辺に近い。
バッタの天敵は数多く存在するのだ。
・・・
バッタの天敵は以下のとおりだ。
・スズメバチ、カマキリ、クモ、ムカデなどの肉食節足動物
・カエルなどの両生類
・ヘビ、トカゲなどの爬虫類
・モズ、アヒル、ニワトリなどの鳥類
・キツネ、タヌキなどの哺乳類
・グリリなどの真菌類
これらは全て真核生物。
生物の3ドメインで言えばユーカリオタドメインに属する。
残る2ドメイン、バクテリアドメインとアーキアドメインに、
バッタの天敵がいるかどうかは残念ながらオレは知らない。
…たぶん知らない。
あれ?
そういえばバクテリアと昆虫は切っても切り離せない。
バクテリアは節足動物と共生関係にあることが多い。
具体的にはボルバキアが有名だ。
ボルバキアは節足動物に特異的に感染する細菌の総称で、複数タイプが存在する。
節足動物であればタイプごとにボルバキアが存在し、結局のところ標的を選ばない。
多くの昆虫に感染することが出来る。
そして殺すとしてもオスのみ。メスは殺さない。
共生細菌ボルバキアに感染した節足動物は、
以下の4つの現象のいずれかまたは複数が現れる。
1.オスの死亡
ボルバキアに感染したオスのテントウムシ、ガ、チョウ、ハエは死ぬ。
これによりメスがエサを多く食べることができ、繁殖において有利になる。
2.性転換
ボルバキアに感染したオスのダンゴムシはメスになる。
オスが減ってメスが多くなれば、繁殖が有利になる。
3.単為生殖
ボルバキアに感染したハチの仲間(寄生する蜂)のメスは、
生殖にオスを必要としなくなる。
単為生殖できれば、繁殖が極めて有利になる。
4.細胞質不和合
多くの昆虫においてボルバキア感染時に見られる現象で、
ボルバキアに感染することで細胞質が変化する。
具体的には細胞内にミトコンドリアのようなものが作られる。
ボルバキアに感染していないメスの卵子に、
ボルバキアに感染したオスの精子が受精した場合、
その受精卵は初期胚から細胞分裂しない。
よって卵はふ化しない。
卵は無駄になる。
一方、ボルバキアに感染しているメスの卵子に、
ボルバキアに感染していないオスの精子が受精した場合はどうか。
あるいはボルバキアに感染したオスの精子が受精した場合はどうか。
どちらの場合も、受精卵は初期胚から細胞分裂し、卵はふ化する。
ボルバキアに感染しているメスの卵は生きる。
だが生まれた幼虫は最初からボルバキアに感染している。
母親の形質が子に受け継がれる。
ミトコンドリアのようなものと表現したのは、このためだ。
ボルバキアはバクテリアドメインの細菌でありながら、
ミトコンドリアやHIVウイルスのように母親から子に遺伝する。
このように昆虫の生殖に関与するのは、
ボルバキアの生存戦略と考えられている。
・・・
細菌であるボルバキアが昆虫にもたらす細胞質不和合は、
オレが異世界に転生する3年くらい前に、
ニュースで一般に知られるようになった。
蚊が媒介する恐ろしい伝染病であるデング熱対策の1つだ。
ちなみにデング熱はデングウイルスによる感染症だ。
デングウイルスは…というのは置いておいて。
細菌ボルバキアを使った実証実験の舞台はオーストラリアだった。
実験ではボルバキアに感染したオスの蚊を大量に放つ。
オスの蚊は血を吸わないため人間に対しては害を与えない。
血を吸う蚊は産卵が近いメスだけなのだ。
これ豆な。
実験の経過は以下のとおりだった。
ボルバキアに感染したオスは人間が用意したもので大量に放たれており多数派を占めた。
ボルバキアに感染していない普通のオスは少数派だ。
その結果、メスと交尾するオスの確率は、
ボルバキアに感染したオスが普通のオスを上回った。
ボルバキアに感染していないメスの卵子が
ボルバキアに感染しているオスの精子を受精しても、受精卵は無駄になる。
細胞質不和合により、ふ化しなかった。
蚊は激減した。
実証実験は成功した。
ボルバキア感染による細胞質不和合を用いることで蚊の個体数を制御可能だ。
精子が変質した結果なのだから人工的に蚊の雄性不妊を引き起こしたと言える。
まるで雄性不妊ウイルスだ。
ちなみに現状、雄性不妊ウイルスとして知られているのはヘルペスウイルス。
ヘルペスウイルスに感染したオスのラットは雄性不妊になる。
もしも新型ヘルペスウイルスが発生したとすれば、
人間の男性も雄性不妊になるかもしれない。
ヘルペスウイルスは…というのは置いておいて。
ボルバキアは細菌でありながら、ヘルペスウイルスのような印象を与える。
・・・
ウイルスについても考えてみよう。
昆虫は節足動物の1種。
節足動物に感染するウイルスにバキュロウイルスがある。
バキュロウイルスに感染した節足動物は、
その細胞内でバキュロウイルスのDNAを複製しまくる。
細胞が持つ通常の働きは阻害され、細胞が破壊される。
ウイルスがバラまかれて全身の細胞がバキュロウイルスに感染し、
生物としての機能が麻痺して死に至る。
バキュロウイルスは蝶の幼虫に感染するタイプの研究が進んでいる。
それは研究が楽だから研究対象として選ばれているだけだ。
自然界では昆虫の種類ごとに標的とするバキュロウイルスがいると考えられており、
バッタに感染するタイプのバキュロウイルスも当然あるだろう。
研究が大変だから研究対象として選ばれていないだけだ。
そうか…。
バッタの天敵としてバキュロウイルスを追加していいかもしれない。
バキュロウイルスは節足動物に特異的に感染し、脊椎動物には感染しない。
人に対する健康被害は無いと考えられる。
バキュロウイルスはウイルスであり生物ではないが、
害虫駆除を目的とした微生物農薬に分類しても構わないだろう。
・・・
オレはバッタ駆除に、
ユーカリオタドメインに属する真菌エントモファガ・グリリを使うのをためらう。
バクテリアドメインに属する細菌ボルバキアを使うのをためらう。
生物でなくウイルスに属するバキュロウイルスを使うのをためらう。
他の方法、実績があるものを選ぶのが無難なのではないか。
バッタ駆除の実績があるもの。
アヒルだ。
21世紀初頭に新疆ウイグル自治区でバッタが大発生した。
このとき、中国政府はバッタ対策としてアヒルを10万羽用意した。
ニワトリが1日にバッタを70匹食べるのに対し、アヒルは200匹食べる。
ニワトリの約3倍食べる。
アヒル10万羽は1日にバッタ2000万匹を食べてくれるため、
たとえバッタが5億匹いたとしても1カ月くらいあれば食い尽くしてくれる計算だ。
そしてアヒル軍の食欲が勝利した。
アヒルさんご苦労様。
アヒルさんは人間に食べられた。
アヒルさんご馳走様。
アヒルか…。
この世界では、どこにいるのだろう。
「アヒルの生息地はよく知らんのや。用意でけへん。」
料理の神マーチが答えてくれた。
(湖の神も知らないそうだ…。)
なるほど。
アヒルは淡水の水辺で生きる鳥。
だが湖の神の管轄か?となると微妙だ。
湖の神は湖水を管理するのが本業で、水辺は想定していないのかもしれない。
水辺は湿地なので土の神や草の神の管轄だと思っているのかもしれない。
空を飛ぶ鳥ならば風の神が管轄してくれるかもしれないが、
アヒルは空を飛べない。
誰もアヒルに興味を持っていないということだ。
うーん…。
ならばニワトリ。
ニワトリならば草の神と料理の神マーチが管轄している。
橙色のニワトリ、すなわち橙鶏を用意できるはずだ。
1匹が1日に食べるのはバッタ70匹。
草の神とマーチが用意できる橙鶏はおそらく1万羽が限界といったところだろう。
オレのダダ漏れに草の神が頷いた。
そうなると1日に70万匹のバッタを駆除できる。
もしも7000万匹のバッタがいれば2桁違う計算になるな。
100日か…。
100日かかるようではダメかもしれない。
バッタの寿命は100日程度。
100日あればバッタは2回産卵して世代交代してしまう。
バッタの1回目の産卵は夏。卵は1カ月でふ化する。
2回目の産卵は秋冬にかけて。卵の状態で越冬する。
卵の状態での駆除は困難で、殺虫剤も効きづらい。
バッタの駆除に100日かかるペースでは、バッタに勝利できない。
日数の見積もりは机上計算に過ぎないのだが、それでも大事なのだ。
そうだ。
今の仮定の7000万匹が間違っているかもしれない。
2000万匹なら勝てる。
なあ、草の神。
バッタは何匹いるんだ?
(…現在5億匹だ。)
5億匹?
嘘だろ?
「ホンマや。マジもんや。」
草の神の代わりに料理の神マーチが答えた。
オレは頭がクラクラした。
バッタ5億匹。
1万羽のニワトリに1日70匹食べてもらう計算だと2年かかる。
5億匹のバッタも2年も経てば2桁増えて500億匹になっていてもおかしくない。
もしそうなったら手の施しようが無いぞ。
バッタの駆除が永遠に終わらない。
殺虫剤を散布しない限り、バッタに滅ぼされる。
「なあに。ウノに全部やって貰おうってわけじゃないんや。みんなで考えようや。」
(グリリン、ボルバキン、バキュラウインなる存在を知れたのは大きい。)
草の神、微妙に名前が違う。
グリリ、ボルバキア、バキュロウイルスだぞ。
でもさ。
みんなで考えるってのはいいね。
責任感が分散するというか。
モチベーションが高まるというか。
オレのダダ漏れに草の神が苦笑した。
うん?
カムナビ温泉に住んでいる神々と、オレの弟子たちを呼ぼう。
セイヤとオインクは頭がキレる。
オレたちが想像もつかないアイデアを考えつくかもしれない。




