第4話 兄妹の日常、からの
元気がなかったいおりに生気がみなぎったのは悪くはないが――衛としては窮地である。
(やっぱり気づかれたか……)
いおりの味覚の鋭さは衛が一番知っている。そうなるであろうことは想定できた。
衛は覚悟を決める。
お怒りモードのいおりは、ちょっとした一言で怒りのレートを跳ね上げる。失言はただのガソリンでしかない。
「ちょっとマモ! このオムレツとろっとろのふわっふわじゃないんだけど!? どゆこと!?」
「あー、すまん。ちょっとぼーっとしてて」
「え、火を使ってるんでしょ? 危ないじゃない。火傷したらどうすんの? 気をつけなさいよ」
「気をつけるよ」
「だけど、失敗したのをそのまま出すとかひどくない?」
「そこは反省している」
「ひょっとして、あたしが気づかないと思った?」
「そんなことはないよ。でも、ちょうどいおりが起きてきたところだから。作り直す時間はないと思ったんだよ」
「ホントかなー?」
「本当だよ。作り直す時間があれば作り直しているさ。そこに時間をかけていおりを待たせるのも悪いだろ?」
「……筋が通ってるね」
あっさりと納得して、いおりは朝食を食べ始める。
「ま、食べられないレベルじゃないから。いつもが一〇〇点なら今日のは九〇点くらいだから。許してあげる」
ぱくぱくと食べながらいおりが続けた。
「今日だけだからね」
「ありがとう、いおり」
衛は内心でほっとため息をついた。
もっとも触れられたくない部分は触れられずにすんだ。そう思ったからだが――
「でも、ひとつだけ教えてほしいんだけど」
「なんだ?」
「どうしてぼーっとしてたの? 珍しいじゃん」
衛のフォークが大きな音を立てて食器とぶつかった。
もちろん、それは朝の夢、いおりと全裸で抱き合おうとした夢のせいなわけだが――
(そんなこと言えるはずがないだろ!)
衛は返答に窮した。
あ、とか、う、とかしか発しない兄の顔を見て、いおりの表情に疑惑が広がっていく。
(こここここれはやばい!)
「い、いや、別に何でもない、そう何でもないんだ」
追い詰められた衛は口から出任せ、それもまったく説得力のない言葉を口走る。善良な衛は嘘が苦手なのだ。
だが、それはあまりにも露骨だった。
何かを隠そうとする意図があまりにも見えすぎていた。
いおりは面白いものを見つけたかのようににっこりほほ笑んだ。
「何か隠してない?」
「か、かか隠し事なんてあるわけないじゃないか!」
「ビックリマークついてるよ? 焦ってる焦ってる」
「ついてない!!」
「言ってみ言ってみ。言ったら楽になるよ」
「いやいやいや! 隠してなんか――ないさ!」
「妹に嘘をつくなんて、ダメなお兄ちゃんだねー」
いつもは滅多に使わない『お兄ちゃん』という呼称を使ってまで、ねちねちといおりが衛を責める。『衛いじめ』が趣味であるいおりの瞳が、らんらんと輝いている。
「かわいい妹にも言えない兄の隠し事ってなにかなー?」
「俺がお前に隠し事なんてしたことないだろ?」
「何言ってるの? マモ、え、ええええ、えっちな本ベッドの下に隠、隠してるよね?」
「違う! ベッドの下じゃない! 本棚の上だ!」
思わず言い返してから衛ははっとした。
いおりが、ないわーという表情をしていた。
「いおりちゃん、ショック」
「い、いや、売り言葉に買い言葉っていうか、うん、うんうん。じょ、ジョークだよ! ジョーク!」
いおりは恥ずかしげに顔をぽっと赤く染めて、
「だ、大丈夫だよ、いおり。理解してるから。お、おおお兄ちゃんも男の子だから。仕方ないよね。うん、仕方ない」
「なし! 本棚の上って返し、なし!」
「わかった。え、えっちなことでしょ?」
「え?」
「考えてたこと。え、えええ、え、えっちなことでしょ。えっちなこと考えてたから――いおりのオムレツは犠牲になった」
「考えてない!」
「し、知ってる、いおり知ってる。朝、男の子、元気だって」
「そんな知識身につけないで!」
「ケダモノとひとつ屋根の下でも、大丈夫。いおりは我慢する。だって、大好きなお兄ちゃんだもん。信頼してるから……」
「絶対に面白がってるよな、お前!?」
「で、どんな、え、えええ、えっちなことだったの?」
「い、いや、だから……」
違う、と言いたかったが、衛にはできなかった。
当たっていたからだ。
それでも否定しなければいけない、そう思った衛は口走るつもりのなかった別の言葉を滑らせた。
「変な夢を見て、だな……」
言ってから、衛ははっとなった。
必ずいおりは「へーじゃーどんな夢?」と訊いてくるに違いない。嘘が苦手な衛がそれをごまかせるとは、本人自身にも思えなかった。
(ま、まずい!)
おそるおそる衛は見た。そこには、
得意げないおりの顔がある――
衛はそう思っていたが、違った。
「う、へ、変な、夢……?」
独り言のようにつぶやきながら、頭に手を当ててうんざりしている表情のいおりがいた。
いおりは、はあ、とため息をつくと、
「そうね。そういう夢を見ることってあるよね。じゃあ、仕方ないんじゃない。うんうん。仕方ない。はい、終わり、おしまい!」
ぴしっと言い切ると、ぱくぱくといおりが朝食を食べ始める。
(お、終わったのか……?)
どうやら台風は無事に通過していってくれたらしい。衛はほっとした。なぜかはよくわからないが、いおりは『変な夢』について問い詰めるつもりはないらしい。
であれば、訊いてみたいことが衛にはあった。
「なあ、いおり」
「何よ?」
「前にさ、『夢は潜在意識の現れ』とか言ってたよな? あれって本当なのか?」
その瞬間、金属的な音がした。いおりが持っていたフォークを取り落としたのだ。
「もうその話はいいから! てててていうか、違うし! そんなわけないし! わたしがあんな夢見るはずないし! ていうか、見ててもそんなこと思っているわけなななないし!」
「うん? いおりも何か夢を見たのか?」
「だから、夢なんて見てないから! はい、おしまい! 朝食おいしかったよ、じゃ!」
いおりはそう言うと、リビングを出ていった。
その背中を目で追った後、衛の口元から笑いが漏れた。
「ふふふふ……」
それは満足な――心地よい笑みだった。
別にいおりを撃退したからではない。いつもの日常だったからだ。感情表現豊かで勢いのある発言をするいおりに振り回される衛。それが御堂家の『普通』だった。
今朝のやりとりも何も変わらない。
だから、衛の心には充実感がある。
――いつも通り。
いつもの関係、いつもの日常。
それが続くことが衛の願いだった。
いおりの元気と、いおりの笑顔と、いおりの未来がどこまでも続く平穏な日々。
それが衛の望む『今日』なのだ。
だからこそ今日の朝は素晴らしい。いつもと同じで何も変わらないから。
四年前――
あの大事故のせいで、衛といおりは両親を失った。
平穏な日常の崩壊。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……お母さんとお父さん、帰ってくるよね? 帰ってくるよね?」
衛の腕にすがりつきながら、いおりはずっと泣いていた。
心を壊したかのように泣きじゃくるいおりを二度と見たくはない。
風のない海のような、波ひとつない普通で平凡な日々こそ大切だ。
「いってきまーす」
いおりの声がした。その後に、ドアの開閉音が続く。
衛はゆっくりと立ち上がり、自分といおりのぶんの食器を持ってキッチンへと向かった。
「うん。いつもと変わらない、いい朝だ」
満足げにうなずく衛。
しかし、その朝は『いつもと変わらない、いい朝』ではなかった。
それから一時間もしないうちに。
道路に飛び出した子供を助けようとして。
御堂衛はトラックにはねられた。