第21話 護ってよ、マモ
「どちらさまですか?」
などと訊くほどいおりは危機に対して鈍感ではない。男が剣を振り上げた瞬間、いおりは横に飛んで男の正面から逃げた。
直後――
まるで大砲でも撃ち込んだかのように、いおりがさっきまでいた背後の壁が弾けた。コンクリートの壁が真っ二つになっている。
(じょじょじょじょじょじょじょジョーダンでしょ!?)
人生で初めて見る光景にいおりは目を丸くした。
破壊力もむちゃくちゃだが間合いがおかしい。明らかに男は剣の届かない距離から攻撃してきている。
(に、逃げないと……)
いおりが一歩踏み出そうとした瞬間――
ごう!
と突風がいおりの鼻先を走り抜けた。いおりと男との間にある商品棚などものともせず、真っ二つに切り裂いて斬撃が走り抜ける。いおりの靴先五センチの床にまるでレーザーで切り裂いたかのような切れ込みが一直線に走っていた。
もしも半歩前に進んでいれば今ごろいおりは二枚おろしにされていただろう。
まるでモーゼの奇跡のように切り開かれた陳列棚の向こうから、男がじっと見つめていた。その顔にはぞっとするような喜色が浮かんでいる。
「今のは当てにいったんだがな。脚の一本でも落ちるかと思ったが、なかなか運がいい」
いおりは背中が泡立つのを感じた。
(誰かと勘違いしてる――ってわけじゃないのか……)
この男は確実にいおりを狙っている。
いおりは男に全く見覚えがなかった。なぜ狙われるかも見当がつかない。
だが、少なくとも男の殺意は本物だ。
その殺意は間違いなく――いおり本人に向けられている。
この男は本気でいおりを殺すつもりなのだ。
いおりはつばを飲み込んだ。自分のすぐそばに死が横たわっていることをいおりは自覚した。
「さあ、せいぜい精一杯逃げてみろ、勇者!」
男が狂ったように剣を振り回した。めったやたらと繰り出される斬撃が店の中をばらばらに切り裂いていく。
(はあ!? 勇者!? 何言ってんの!?)
相手の頭がおかしいことは間違いない。自分を狙う事情など訊いてまともに答えてくれるはずもないだろう。
視線の先は五メートル先の出入り口。
いおりは出口に向けて一直線に走る。
男の顔がにやりと笑った。
いおりが出口に達する直前、男が狙い澄ました斬撃を放つ。
出入り口というゴール。そこが今回の争点になることをいおりは理解していた。
そこがいおりの活路であり――
同時に男が確実に攻撃してくる場所であることを。
だから――いおりは出入り口に走り込むつもりはなかった。
その横にできていた、以前の斬撃によって切り飛ばされた壁の隙間から店の外へと転がり出た。
(やり! やっぱ天才じゃん!)
会心の出来。いおりは立ち上がりながらこぶしを握る。
だが、その万能感は長く続かなかった。
まるで瞬間移動したかのような速度で男の巨体が出入り口からかっ飛んできた。
肉薄――同時、男が剣を振り下ろす。
いおりが反射的に動いていなければ、その剣はいおりの体を真っ二つにしていただろう。
からぶった剣が地面に激突、炸裂した剣圧がアスファルトを爆発させた。
男の機動力。そして破壊力。
それはいおりが太刀打ちできるものではない。
(これ、やばくない?)
いおりは眼前に迫った死を感じ、身体を震わせた。
いおりはうまく逃げ切れていると思っていた。だから、ひょっとしたら最後まで逃げ切れるんじゃないかと思っていた。
だが、それは大きな間違いだった。
男はまったく本気を出していない。
いつでも殺そうと思えば殺せるのに、そうはしなかった。猫が獲物のネズミをいたぶるかのようにじわりじわりと追い詰めていただけ。
もしも本気を出せば――
いおりの首など簡単に落とせるのだ。
すべてを理解したいおりの心に広がったのは諦めだった。
(あ、あたし死ぬんだ)
脚が力を失い、いおりはすとんとアスファルトに腰を落とした。
まるで巨山のような男をいおりは見上げる。
それは人の形をした絶望だった。
「追いかけっこは終わりか? いい顔をしているな――いい感じに希望の消えた顔だ。そうだ。俺はその顔が見たかったんだ」
男の哄笑が響き渡る。
そんなことを言われて――消えかけていたいおりの心の炎はぼっと燃え上がった。
きっと男をにらむ。
だが、その強気も長くは続かなかった。
氷のような心細さが喉の奥をきゅっと締めたからだ。
それは寂しさだ。
四年前に死に瀕したとき――いおりはひとりではなかった。隣には兄がいて彼が静かに手を握っていてくれた。事故の瞬間、その小さな体で必死にいおりを抱きしめてくれた。
あのときはひとりじゃなかった。
だから――怖かったけど、怖くなかった。
だけど、今はたったひとり。
たったひとりで目の前の殺意と向き合っている。
(マモ、助けてよ、ひとりにしないでよ……)
「真っ二つにしてやる。苦痛と屈辱にまみれて死ね、勇者」
男が剣を振り上げる。
いおりは今、問いに直面した。
今ここで死ぬとしたら――
誰に救いを願う?
奇跡を願う?
そんなものは決まっている。
いおりは大声で叫んだ。
「マモ! どうしていないの! どうして電話に出ないの、どうしてひとりにするの、バカッ! かわいい妹が死んじゃうじゃない!」
最後に祈るような気持ちがこぼれる。
「護ってよ……」
「死ね」
男が剣を振り下ろす。
死んだ――
そう思った。
だが――痛みはやってこなかった。
代わりに、音がした。
鋼が肉を切り裂くのとは違う――
甲高い金属音。
いおりは目の前に見慣れた背中が立っているのを見た。
その髪だけで、その背筋だけで、その立ち姿だけで――顔なんて見なくてもそれが誰なのかいおりにはわかる。
誰かと考えることもなく無意識が誰かを教えてくれる。
それは、ずっといおりのかたわらにいて、いおりを護り続けてくれた背中――
いおりは、その背中を知っている。
衛。
いおりの兄。
ただその事実だけで、たったひとつの事実だけで、いおりの心を重く締め付けていた恐怖は魔法のように消えた。
失望は消し飛び、ただ希望だけが胸一杯に膨らむ。
衛の口からまるで炎と化した激情をはき出すような声が聞こえた。
「俺の妹に何してやがる!」
それはいおりの聞いたことのない声だった。
いおりには決して発しない声。
敵と見なしたものだけに向けられる声。
衛の出現に驚く男の顔めがけて――
衛が右拳を叩きつけた。




