第2話 目覚め
いおりは目を覚ました。
眠りの世界に半分とらわれたかのようなぼんやりしたもの――ではない。ぱちりと音がするかのようにまぶたが勢いよく開き、頭がすっきりとする目覚めだった。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた白い天井。
背中から伝わってくるベッドの寝心地もいつもと変わらない。
すべていおりが見知ったものだ。
いおりはベッドから身を起こす。
そこは何の変哲もない、彼女の部屋だった。
いおりの服装も愛用のピンクのパジャマのまま。
ここはいつもの自分の部屋で――
いつもと変わらない朝なのだ。
(……そっか、夢か)
いおりはそう結論づけた。
だが、いつも見ている夢とは違う感触が残っていた。
迫力が違っていた。まるで見てきた映画化のように記憶にはっきりと刻み込まれている。そっと胸に手を当てると、胸を貫いた痛みがありありと思い出せるほどだ。
(変な夢だったな)
あまりにもリアルだったから――
夢の中でいおりは本当に自分が死ぬと感じていた。
謎の男が一〇本の黒い刃をいおりに向けたとき、いおりは自分の最後を覚悟した。間違いなく死ぬと思っていた。
だからこそ――
そこに兄が現れたときは本当に嬉しかった。
兄の手がいおりの頭を優しく撫でた感触もありありと思い出せる。
――俺が護ってやる。
その兄の言葉は、いおりの心をあっという間に焦がした。
「えへへへ」
ベッドの上でじたばたした後、いおりはきゃーっと叫んで枕を抱きかかえた。
そして、ちらりと出窓に視線を向ける。
そこには三等身で一五センチくらいのぬいぐるみが飾られていた。なんとなく彼女の兄である衛に似ているので、いおりがこっそり買ったものだ。
「ありがとね、マモ」
いおりが小声で礼を言う。
あまり素直に接することができない兄に対して、言いそびれたことや言えなかったことをぬいぐるみにこっそり話すのがいおりの日課になっていた。
頂点を極める兄への信頼。
だが――次のシーンを思い出して高まっていたいおりの心は氷点下まで温度を下げた。
最後のシーンの、兄の姿。
瞬間、さっきまでの照れとは違う明らかな羞恥でいおりの顔は真っ赤になった。
もちろん――
全裸だ。
兄妹で全裸というシチュエーションだけでも悶絶ものだが、あろうことか、あの変態は裸の妹を抱きしめようとしたのだ。
ありえない状況。
(夢! 夢だから! マジないから!)
いおりは自分に言い聞かせるように心の中で叫んだ。
そう、夢の話。非現実なのは当たり前。
そもそも兄の衛はそんなことをするような人物ではない。
頭ではいおりも理解している。
しかし、いつもの夢とは違う『生々しいリアルさ』のせいで簡単に夢だからと割り切れない。
「なななな、なんで! なんでなのよー!」
さっきまで抱きしめていた枕を、いおりは力一杯ぼふぼふ殴る。
夢だ――そう切り捨ててもいい。
だが、そうすると別の問題が浮上する。
どうしてそんな夢を見たのか、だ。
いおりが昔読んだ雑誌には『夢は深層心理、あなたの本当の願いの現れです』と書かれていた。
そこから導き出される結論は、
いおり Loves 兄。
「そんなわけないでしょうが!」
いおりは大声で叫んだ。
兄について、いおりは信頼もしているし尊敬もしている。たぶん、特殊な家庭の事情も考慮すれば、ほかの家の兄妹よりも自分の兄のことを好きでいるだろう。
だが、その好きはLikeであって、決してLoveではない。
にもかかわらず、夢の世界でLikeでは決して説明できないことが起こった。
これがいおりの、本当の心の中の願い――
「だから、違うって言ってんでしょうがあ!」
そう否定したいおりは、出窓にある兄の身代わりたるぬいぐるみをつかみ、壁に向かって力いっぱい投げつけた。
夢のことで礼を言われたのだ。
夢のことで仕打ちを受けても不思議ではない。
ぬいぐるみはべしっと壁に激突して床に落ちた。
あまり素直に接することができない兄に対して、言いそびれたことや言えなかったことをぬいぐるみにこっそり八つ当たりするのがいおりの日課になっていた。
いおりは、ぬいぐるみに枕を投げつけて追撃しようとしたが、それはやらなかった。
肩まで持ち上げた枕をゆるゆると力なく元の場所にセットすると、そのままシーツに頭を突っ込んでみのむしのように横たわった。煩悩を追い払うかのように固く目を閉じる。
いおりはすべてを忘れることにした。
夢だ。
たかだか夢なのだ。
そんなことに振り回されるのはばかげている。
自分が忘れてしまって、そして、誰にも気づかれなければ、それはなかったことになる。
だから、いおりは平静を取り戻すことにした。
今日の朝食の時間は否応なくやってくる。そしてその時間、いおりは衛と顔を合わせることになる。
その時間をいつものようにやり過ごす、それだけのことだ。
さいわいいつもより早く目が覚めたので、まだいつもの起床時間までには時間がある。
いおりは目を閉じて落ち着きを取り戻そうとした。