第19話 運命のわかれ道
「ただいまー」
陸上部の練習を終えたいおりが家に着くと、いい香りがいおりの鼻腔をくすぐった。
「おかえり」
料理を作っている衛が顔も見せずに声を返す。
特に変わりのない――
いつもの日常だ。
だからこそ、いおりは家に帰ってきたんだなと無自覚に自覚する。心の中にほっとした気持ちが広がっていく。
カバンをリビングのソファに置くと着替えるよりも前にずかずかと台所へと向かっていった。
「ちょっとマモ!」
げし! といおりの鋭い蹴りが衛のふとももの裏側にヒットした。
「ん? どうした?」
何か起こったの?
という感じの表情で衛はのんびりとカレーの味見をしている。その涼しい表情がいおりの神経を逆なでした。
(なによ、痛いくせに。やせ我慢して!)
「お弁当にピーマン入れたでしょ!?」
「ああ、あれ。あの肉詰めおいしかっただろ?」
「うん、意外とおいしかったー――って違うでしょ! あたしがピーマン嫌いって知ってるくせに何でいれるの!?」
「おいしかったらいいじゃん」
「まあ、そうかもしれないけど、じゃなくて! あたしがピーマンは入れないでって言ってるんだから入れないでよね」
「そう? 残したの?」
「残してない」
「じゃあ、いいんじゃないの?」
「よ、く、な、い! あたしは好きなものだけ食べたいの!」
「大丈夫。明日はいれるつもり元々ないから」
「二日連続とかないから! 絶対ないから! ていうか、もう二度といらないから。今度入れたら残すからね!」
「え、残すの?」
「ううん、食べるけど――じゃなくて!」
「わかったわかった。覚えておくよ。ほら腹減ったろ? 晩飯の用意するから服を着替えておいで」
いおりは渋々と従った。
(なーんかはぐらかされた気がするなあ……)
そんな気がしつつもすごすごと部屋に戻る。
陸上部所属で練習帰りのいおりは腹が減って仕方がない。食べ盛りの一〇代の胃袋には『晩飯の用意』という単語は強すぎた。
いおりが部屋着に着替えていると――
(あれ?)
ふと掛け時計が止まっていることに気がついた。
いおりはリビングに戻って、衛に声をかける。
「ねえ、マモ。部屋の時計が止まってるんだけど、電池余ってる?」
「どうだろう。探せばあるかも知れないけど」
「わかった。ちょっとコンビニ行って電池買ってくる」
「そうか。もうすぐ晩飯できるから早く帰ってこいよ」
「はーい」
そう言って、いおりは玄関から出た。
外はもうすっかり暗くなっていた。
夜道といっても慣れ親しんだ道だった。目を閉じていたって歩けるくらいだ。いおりは気楽な気持ちでてくてくと歩いていた。
夜空を眺めながら歩いていると――
月にさっと黒い影がさしたかのように見えた。
ぎょっとして凝視すると、いおりは一羽のカラスが飛んでいることに気がついた。
カラスがいおりの頭上を旋回するかのように飛んでいる。
(カラス……? 鳥って夜飛べるんだっけ?)
なんだか腑に落ちない――そんな違和感。
しかし特に深く考えずに、いおりは先へ先へと歩いていく。
やがてT字路に出た。
家の近所には二件のコンビニがある。ファミリーマーケットとセブンセブンだ。どちらに行っても距離的には同じ。
特に理由もなく、いおりはセブンセブンへと向かって歩いていく。
そのときだった。
キリ――キリ――
機械的な、何かのきしむ音が聞こえた。
(背後に誰かいる……?)
いおりは後ろの気配に気がついた。しかし、まだそれほど深刻には考えていなかった。
同じ方向に行きたいだけかもしれない。
同じコンビニを目指している人かもしれない。
そもそもそれほど治安の悪い地域ではないし、街灯も充分な数があって道も明るい。
(そうそう、神経質になりすぎるのはよくないよね……)
だが、その安心感は一歩一歩進むたび、やすりに削られるかのようにやせ細っていった。
背後にいる気配との距離も――
聞こえてくる足音の距離も――
まったく縮まらず、かといって伸びもしない。
意図的に距離を一定に保っているかのような――そんな動き。
(ていうか……ちょっと変だよね、これ?)
胸の中で嫌な予感がざわつく。
その予感に急かされるかのようにいおりは足を速めた。
同時、背後の気配の足音も速まる。
キリ――
不快な音がいおりの耳元に届いた。
空を見上げれば、カラスはずっと空を旋回している。
まるでいおりを監視するかのように。
いおりはまるで心臓を捕まれたかのような気持ちで、背中をあわ立てた。こんな不快な感情はあの日以来だった。
あの日――両親が死んだ交通事故のあった日。
狂ったように猛スピードで激走する車の中でいおりは兄の手を握った。あのときは兄がいた。だけど今はたったひとりで夜道を歩いている。
もしも自分が足を止めれば――
(きっと何事もなく通り過ぎてくれるはず……)
そんな希望的観測で足を止める勇気はなかった。
ならば――走るしかない。
覚悟を決めて、いおりは地面を蹴った。
同時、背後の足音もまた速度を速める。
逃げるいおり。追ってくる相手。だが、幸運にもいおりは陸上部で脚には自信があった。
夜道をぐんぐんと走った。
後ろの気配もぴたりと追ってくる。
セブンセブンはそれほど遠い場所にはない。こうこうと明るく輝く看板が一気に近づいてくる。
(やった、助かった!)
いおりはセブンセブンのなかに飛び込んだ。
「いらっしゃいませー」
誰か人がいる。その単純なことがうれしかった。いつもはなんとも思わない店員の気の抜けた挨拶に始めて感謝した。
(あとはマモに電話して迎えに来てもらえば――)
そう思い、いおりはポケットに手を伸ばした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
料理を作り終えた衛は、食事の準備をしようとリビングのテーブル前にやってきた。
そこであるものに気づいた。かわいらしい装飾の財布だ。衛はそれに見覚えがあった。
(いおりの財布じゃないか)
衛は顔に手を当てた。
買い物に行くのに財布を忘れるとはとんだ大ボケだ。
帰ってくるのを待っていてもよかったが、せっかくだし届けてやろうと衛は考えた。
(まったくあいつは……)
すぐに戻ってくるつもりだったから、家の鍵といおりの財布だけを持って外に出た。
だから、自分のケータイは家に置いてきた。
衛が家を出た後――そのケータイにはいおりからの着信が入った。
だがもちろん衛には気づけるはずもなく、よって電話にでることもできなかった。
衛は早足で夜道を歩いて行き、そして――
「あ、しまった」
T字路に行き当たった。
セブンセブンかファミリーマーケットか。いおりがどちらに行ったのかはわからない。
(そうか、逆に行っちゃうとややこしいな)
家に残っていたほうがよかったなと衛は考えたが、今さら気づいても遅い。
(ま、いいや)
衛は気楽に考えようと思い直し、ファミリーマーケットのほうへと歩いていった。