第15話 変態マント
御堂いおりにとって兄はどういう存在か?
その問いについて御堂いおりは考えたことがない。もしもそういう質問を受ければ吹き出してこう言い返すだろう。
「なにその質問? うける。兄貴は兄貴でしょー。ちょっとださいのが玉に瑕かなー」
だが、そう答えつつもそれが半分くらいは照れ隠しだといおり自身もわかっている。
ではもし――兄が死んでしまったら?
その問いについても御堂いおりはやはりまともに答えない。
「はあ? 意味わかんないし。死なないし。そんなの訊かないでよ」
不機嫌そうな顔でそう答えるだろう。
御堂いおりにとって兄は兄だが、兄ではない。
父の代わりであり母の代わりであり唯一の近しい肉親であり、そして――わがままを言える人物なのだ。
どれほど大切な存在なのか。そんなこと言うまでもない。
どれほど衛が、いおりを大切にしているかも知っている。
じゃあ、兄にお礼とか言わないの?
「そんなの流行んないって。昭和? みたいな(笑) ていうか、別に感謝とかしてないし。わたしの嫌いなピーマンばっかり入れてくるのよ、まじむかつくー」
その嫌いなピーマンの肉詰めが弁当箱に入っていた。
今は昼休み。
いおりは教室で仲のいい友人たちと昼食をとっていた。弁当箱を開けた瞬間、目に飛び込んできたのはうんざりする緑色のかたまりだった。
「うげ、まじ?」
見た瞬間、いおりが眉をしかめる。
「えー、なになに?」
そう言っていおりの弁当をのぞき込んだのは、友人の希実だ。髪を短く切った快活な光を宿した瞳をした少女だ。バレー部だけあって一七〇センチの長身が特徴で目線が高い。
「わー、相変わらずいおりの弁当は力が入ってるね」
ピーマンの肉詰めのほかに、スライスしたゆで卵、プチトマト、からあげなどが長四角の弁当箱に詰め込まれている。
「そう? 希実のお弁当もいいと思うけど?」
「でもまー、毎日同じような中身だからねー飽きてきたよ。お母さんに『たまには違うの作ってよ』って言ったら『作ってもらえるだけありがたく思え』ってさ。参っちゃう」
希実が肩をすくめた。
「その点、いおりの弁当は毎日毎日違うものが出てきてすごいよね。おうちにコックさんでもいるわけ?」
「いないいない。それにたいしたものでもないって」
いおりは笑って謙遜したが、兄が褒められたようで少しばかり気分がよかった。
「さっき『うげ』とか言っていたけど、なに? むっちゃおいしそーなんだけど」
「あー、わたしピーマンが嫌いで……」
「え、そうなの? 嫌いな人多いよね。じゃあ、わたしのとおかず取り替えっこしようか?」
「え、ホント!?」
嫌いなおかずが好きなおかずになる。
それはいおりにとって魅力的な提案だったが――
「うーん、嬉しいけど、やっぱ自分食べる。ごめんね」
断った。
いおりは衛の作ったものは残したことがなかった。料理がうまくなった今はともかく、経験がまだゼロに等しい頃はかなりひどいものが出てきた。自分の好物でもまずくて食べるのが辛かったときもある。
それでもいおりは残さずに食べていた。衛が台所に立った日からずっと。それはいおりが決めたことだ。
いおりを育てるために台所に立つと決めた衛の気持ちと、両親が死んで落ち込むいおりへの気遣い――
その両方を少しもいおりは取りこぼしたくなかった。
いおりははしでひょいとピーマンをつまむと口にいれた。
「にが」
噛みながらぼやき、いおりは飲み込んだ。
おかげで嫌いなピーマンも、両親がいた頃は黙って横によけていてそれを見て母親が困った顔をしていたピーマンも、今では我慢すれば食べられるようになった。
「あー、まっず。マモひっど。あとで説教ね説教」
「お、よくやった。えらいじゃん」
「まあね、ピーマンごときぺろりよ。もうおとななんだから」
「うんうんえらいね。――ところでマモって誰?」
希実が好奇心旺盛な瞳で質問してきた。
――うちの兄よ、ちょっと冴えない感じの。
そこまで答えかけていおりは言葉を呑み込んだ。普通の家の兄は弁当を作らない。そのため少し気恥ずかしくなった。
「マ、マモはマモよ。魔物って意味からきたペットの犬の名前」
適当にしどろもどろに答えた。
「いやいや犬は弁当作らないから。隠すってことは……まさか!」
「な、何よ?」
「ひょっとして彼氏!?」
「は!? へえあ!?」
「料理好きの彼氏なら毎日そんな弁当を作ってくれるのも納得!」
「そそそ、そんなわけないじゃん!」
「嫌いなものでも残さずに食べる気持ちもわかる!」
「そそそ、それ関係ないし! 違うし!」
「動揺するのがあっやしーなー。別に彼氏がいてもおかしくない年頃ですから。ピーマンが食べられるおとなですから。ほら言いなよー」
いおりの肩が、希実に揺すられる。
(ど、どうしてそんな展開に……)
そう思っていたら。
「いおりの弁当を作っているのはいおりのお兄さんだよ」
そう割って入ったのは、隣で二人の会話を黙って聞いていた少女だった。佳代という少女でこちらは希実とは対照的に身長が小さく一五〇センチくらい。薄いフレームのメガネをかけた三つ編みの女の子だった。
佳代はいおりと昔からのつきあいであるため、いおりの身の上をかなりの程度知っている。
「言っちゃった。ごめんね、いおり」
「いや、本当のことだし。隠すことでもないし。気にしてないけど」
「希実。だからね、いおりはお弁当を残さないんだよ。大好きなお兄さんがわざわざ作ってくれたから嫌いなものでも食べるんだよ」
「かかか佳代ちゃん!? 佳代さん!?」
「言っちゃった。ごめんね、いおり」
「それは嘘だし、隠すことだし!」
「嘘だったら隠さなくてもいいんじゃない?」
「とととと、とにかく! そういうのじゃないから!」
いおりは落ち着こうと水筒のお茶に手を伸ばす。
二人のやりとりを眺めていた希実は合点がいったのか、ぽつりと感想を一言でまとめた。
「そうか。つまり、いおりはブラコンなのか」
いおりは飲んでいたお茶を吹いた。
「ブラコンじゃないし!」
「え、違うの?」
わざと驚いて見せたのは佳代だった。
(これ絶対に面白がってる……!)
表情からは全く読めない。佳代の感情表現はとても薄いからだ。しかし、いおりにはわかる。いおりは昔なじみの性格を思い出した。
「前から聞いてみたかったんだけど――いおりにとって衛さんはどういう存在なの?」
真っ正面から佳代に問われて、うぐ、といおりは声を詰まらせた。
――とっても優しくて頼りになる、だーいすきなお兄ちゃん。
そう言えれば楽なのだろうが、いおりはそういうキャラクターではなかった。いおりの衛に対する感謝の気持ちはあまりにも膨大すぎて今さら改めて向き合うには積み上がりすぎていた。
だから――それはもう陽の光や空気と同じで当たり前のように思うことにして。いおりは衛への素直な気持ちをそっと箱にしまい、心の奥底へとしまっていた。
もしも、兄がいなくなったら――
いおりはその箱にすがりつき、ようやく向き合えた素直な気持ちでずっと号泣し続けるだろう。
でも実際は、兄は健在であり、いおりの横にずっといてくれる。
だからいおりは――照れを隠しながら強がれるのだ。
「存在とか、重いって。マモはマモ。ただのお兄ちゃん。ま、ちょっとは役に立つけどね」
うんうんと希実がうなずいた。
「そっか。いいお兄さんがいてよかったな」
「ま、まあ、そう、かもね」
「お兄さんと一緒にいる夢とか見るの?」
「え、別に――」
そこまで言っていおりは今朝の夢を思い出した。
同時に、全裸姿の衛を。
ぼっといおりは顔を赤くした。
「あー、見るんですねー、これは見てる顔ですねー、佳代さん」
「見てますね。それも人には説明できない感じのを。希実さん」
「そそそそそ、そういうのじゃないから! 違うから!」
「「ふーん」」
二人の友人がにやにやとした顔でいおりを見た。
いおりは顔を赤くした。
「はい、もうおしまい! もーいいでしょ、うちの話は! もう何も答えないから!」
そう言っていおりはピーマンの肉詰めをほおばった。
「おもしろいのになあ。まあ、いいや。そうだ。部活で話題になってたんだけどさ、金髪の女の話知ってる?」
希実が言った。
佳代が首をかしげる。
「金髪の女って? 外人?」
「たぶん。なんか知らないけど、一週間前からこの辺をうろうろしている金髪の女がいるんだってさ」
「アメリカ人が旅行にきてるだけじゃない? そんなに珍しいの?」
「いや、なんていうか服装が変でね。茶色のマントをすっぽりかぶって全身を隠してるんだよ」
「うわー、変質者っぽい。マント下絶対全裸だよ」
「男子部員もそう言ってたわー。あってみたーいって。ホント馬鹿みたい。でも全裸はないんじゃないの。女だよ?」
「痴女っているらしいよ」
「痴女ねえ……。あとむっちゃ美人で背が高いらしい」
「どれくらい?」
「一七〇センチくらいって言ってたから、わたしと一緒かな」
「長身金髪美人で全身マントの変態……属性盛りすぎじゃない?」
「属性って何だ。まあ、いいや。で、その変態マント、公園で寝てるっぽいんだよね」
「えええ、さらにホームレス属性までつくんだ……」
「さすがに公園で寝泊まりしてるって旅行者じゃないでしょ」
「変態マントやばい」
「やばいよねー」
「警察に通報したほうがいいんじゃない?」
「もう誰かがしてるんじゃないかなー」
「だといいんだけど。変態マントって何してるの?」
「さあ……なんか日中はふらふらしているらしいよ。まあ、女だから変なことされないと思うけど、気をつけた方がいいかもね」