第1話 女子中学生、鎧を着る
熊の模様が入ったかわいいピンク色のパジャマに身を包み、御堂いおりはベッドに横たわった。あとは静かに眠りの世界へと落ちるだけ――だったのに。
「は? ていうか、え、何これ?」
自室ではないどこかにいおりは突っ立っていた。
そこはだだっ広い空間で、大きさは学校の体育館よりもはるかに大きく、床と壁は石でできていた。
壁にはぼんやりとした光が灯っている。
おかげで全域に明かりは届いているようだが、明度はそれほどでもなく薄暗い。室内の温度は低く、まるで薄着のまま寒い日を迎えた秋の朝のような悪寒がする。
いおりには覚えのない場所だった。
(え、夢? にしてもちょっと感じ悪すぎじゃない?)
いおりはうんざりした。こんなじめじめとした場所、現代っ子のいおりには全く似つかわしくない。
御堂いおりは一四歳。中学二年の女子である。
「いおりちゃんって、ホントにかわいいよねー」
同級生たちが口々に言う褒め言葉。それは彼女にとって聞き慣れたものだったが、言われて悪いものでもなかった。
「そんなことないよー」
と困ったような表情で返答するが、まんざらでもない。
アーモンド型でぱっちりとした瞳と整った二重まぶたの目力には自信があったし、毎日手入れを怠らない肩で切りそろえた髪はつやつやと輝いている。
正直、顔立ちはかなり整っているほうだという自負はある。
もちろん、顔だけが自分の価値ではない。
風呂上がりに欠かさずチェックする自分の身体にも自信がある。
陸上部で鍛えた体は適度に筋肉がついて引き締まっており、女性らしい発育も年相応だ。
「はー、いおりちゃんのお腹すてきー。固さと柔らさのコントラストが最高ー。これは最高級の霜降り肉。食べてー」
と言って、女子クラスメイトが撫でてくるくらいだ。
もちろん、男子からの評判も上々。
「御堂ってかわいいよな」
「ほかの女子とはキャラデザ違う感じだよな」
「ほんとほんと。彼女にしたら自慢できるぜ」
おバカな男子たちがたまに噂する『彼女にしたいクラスメイト会議』でトップランクに位置しているのも知っている。いおりはいわゆる『彼氏作り』に興味はないが、自分を高く評価してくれている点については気分がよかった。
決して口に出したりはしないが、
(あたしって絶対かわいいよね)
という確固とした自信を持っていて、
(渋谷とかデビューしちゃったら芸能界にスカウトされるかも)
などと考えてベッドの上でごろごろしてしまう、今時の女子力の高い女子中学生なのだ。
そんなイケてる女の子のはず、だったのに――
「つーか、まじわけわからないんですけど」
イケてる女の子とはまったく無縁な辛気臭い場所に立っている。
目の前には赤い絨毯が敷かれた一〇段ほどの階段があった。
階段の上へといおりが視線を動かすと――
その頂上に黒い影がたたずんでいる。
真っ黒なローブに身を包んだ男だ。
ローブのところどころに黄金の刺繍が施され、輝きを放っている。顔は美形だった。雪のように白い肌と貴族然とした整った顔。だが、ルビーのように赤く輝く瞳がきわめて異質だった。
いや――全体を眺めれば、そもそも男のすべてが異質だ。
頭の両脇から山羊のようなねじくれた角が生えている。背中には黒くて大きな翼がある。そして、その右手に持ついおりの身長を凌駕する巨大な――
(剣、だよね、あれ……?)
剣。
現代っ子のいおりが生で見たことなどない代物。
どう見ても人間ではなさそうな存在が、そんな物騒なものを持っている。ただの女子中学生である御堂いおりの理解をはるかに超える情景だった。
(あ、あれか、渋谷のハロウィン! で、目の前の人は力の入ったコスプレイヤー。やば、いつの間にか渋谷デビューしてるじゃん!?)
といおりは思ったが――ある事実に気づく。
そもそも今は5月のゴールデンウィーク。10月末のハロウィンのはずがない。
いや、季節だけの話ではない。
あの男の右手に握られている刃の輝き――
本物を見たことがないいおりでも直感的に理解できる。あの刃は本物で、人を殺すための武器なのだと。
(な、なんなのよ、これ!? こここ殺される!?)
そのときになって、ようやくいおりは自分の右手が握っているものに気づいた。
剣。
刃渡り一メートルほどの剣だ。
「は、はああああああああああああああああ!?」
いおりは肺からすべての息を吐き出すかのように叫んだ。神さま死ねという気持ちを込めて叫んだ。
自分でもよくわからないままに、いおりは剣を握ったまま腕をぶんぶんと振る。
金属のかたまりが確かな重量を彼女の右腕に伝えてくる。
嘘ではなく――そこに存在する。
慣れない重量にいおりの足はよろめいてしまう。剣が石の床をたたき、鈍い音を立てた。
同時――同じような金属音が自分の身体からした。
(は?)
自分の身体を見回して――いおりは新しいことに気づく。
金属の鎧を着ていた。
いつも着ている愛用のピンク色のパジャマではなく、青いシャープなデザインの鎧を着ていた。
「まじ!? クソダサ!?」
思わずいおりの口から出る。
のけぞったいおりの動きに合わせて金属の板や鎖が耳障りな音を立てた。
「な、なんなのよ、これ!? あんた教えなさいよ!」
いおりは階段の上に立つ男に声を荒げた。恐怖から絞り出た声ではなく、単純な怒りと抗議の声だった。いおりははっきりとものを言う気の強い女子なのだ。
男の答えはシンプルだった。
「死ね」
「はあっ!? それはこっちの台詞でしょうが!」
噛みつくような勢いでいおりは言い返したが、それ以上の言い合いはできなかった。
男が左手を振り下ろす。
黒い刃が現れた。刃は一直線にいおりへと殺到する。
「うわっ!?」
陸上部だけあって――いおりは運動神経も反射神経も悪くない。
叫びつつもいおりは反応した。
反射的に繰り出した右手の剣が黒い刃と交差する。直後、空間のきしむような音とともに刃は消失した。
しかし――刃が持つ運動エネルギーは消えない。
食い込むような衝撃が剣を介していおりの身体に伝わる。
(重っ……!)
伝わる振動にいおりは奥歯を噛んだ。右手にしびれが生まれ、足下がぐらつく。
男はその隙を逃さない。
二発目の黒い刃が飛んできた。
「わ、わわっ!」
何かをしなければ――いおりはそう焦った。だが、それがダメだった。崩れかけていた身体のバランスがさらに大きく崩れただけ。
いおりは耐えきれずに転び、床に尻をぶつけた。
「いった……!」
しかし、それは幸運だった。
いおりがさっきまで立っていた場所に黒い刃が突き刺さった。轟音。砕けた小石の破片があたりに散らばる。
尻をさすりながらいおりは身を起こし――
石の床にうがたれた直径一メートルくらいのクレーターを見てぞっとした。
(冗談じゃないんですけど!?)
いおりは真っ青になった。
絶対に直撃したくない。
食らってたまるか、といおりは思ったが、彼女が起き上がるよりも早く三発目の黒い刃が飛んできた。
転んでいるいおりに回避する術はない。
刃がいおりの胸を直撃した。
「か、はっ!」
急速にいおりの視界が――いおりの意志に反して後方に動いた。
そのまま背後に倒れ込み、石の床に背中を激しく打ち付ける。激痛と同時に肺から押し出された空気が口から漏れた。
(……ちょっと、なんであたしがこんな目に……)
いおりは顔をしかめながら、黒い刃が直撃した部分に手を伸ばした。金属の鎧には傷一つついていない。
直撃による衝撃はあったが――黒い刃が備えているより直接的な攻撃能力は完全に無効化していた。
男が目を細める。
「ほぅ……ではこれでどうかな」
男が指先をいおりに向ける。
その周辺に黒い刃が、一、二、三、四、五――
いおりは思わず叫んだ。
「一〇本くらいあるんですけどぉ!?」
一発だけなら完全に防いだ鎧だったが、とても耐久テストをしようという気にはなれなかった。
(ちょ、やばい。これ、どうしよう……!)
そのときだった。
いおりの柔らかな髪を、そっと誰かの手が撫でた。
「いおり、待たせたな。俺が護ってやる」
いおりの鎧よりもはるかに重厚な鎧を身にまとった男がいおりの前に立つ。
同時、一〇の黒い刃が解き放たれた。
押し寄せる黒い波濤を前に鎧の男は一歩も退かない。その鎧と体で、一発一発が致命の一撃である、そのすべてを受け止めた。
空気を振るわせる大音量が部屋中に反響――
だが、鎧の男は何事もなく立っていた。
「大丈夫か、いおり?」
男が振り向いた。
男が振り向くよりも早く――いおりは男が誰だか知っていた。
人生で一番長く聞いていた声。四年前からたった一人でいおりを護ってくれた男の声。
最もいおりが信頼している人の声。
いおりは自分の胸が高鳴るのを感じた。いつだって彼は困っているいおりを救ってくれる。
そんな、彼女にとっての救世主。
いおりは自分の胸が高鳴るのを感じた。
「お兄ちゃん!」
振り向いた男の顔は――彼女の予想どおり、二つ年上の兄のものだった。
「よかった。無事そうだな」
「ど、どうしてお兄ちゃんがここに? ていうか、ここどこ?」
立ち上がったいおりは矢継ぎ早に兄に問う。
だが、兄妹がゆっくり話し合う時間は許されなかった。
「そろそろ――小手先の時間は終わりだ」
階段の上から、男が厳かに宣告する。
男が左手を頭上にかかげ、いおりには理解できないお経のような言葉を紡ぎ始める。
「あれ、何?」
「詠唱だ。魔法を使うための準備だな」
(は? 魔法? ゲームとかに出てくるあれ? でも剣と鎧があるんだから、魔法もあるか……?)
驚きつつも、いおりは意外とすんなり受け入れてしまった。
「いおり、あれを防ぐためには、今のままじゃだめだ」
そう言った兄の姿に気づき、いおりはぎょっとした。
いつの間にか裸。
完全な真っ裸だ。
「はあっ!? ちょっと、あんた何してんの!?」
叫んだいおりの声は平常時よりも一オクターブ上だった。
いくら兄とはいえ、一緒に風呂に入っていたのはもう何年も昔の話だ。心の中で盛り上がっていた兄への信頼は一瞬で吹き飛ぶ。
目の前にいるのは兄ではない。
ただの変態だ。
視界の下の方で何か汚いものが見えた気がしたので、いおりは慌てて顔を横に向けた。
兄は全裸のまま両手を広げて、いおりへと一歩近づく。
「さあ、いおり、一緒になろう。俺とお前が一つになればどんな危機にだってくぐり抜けられる」
そして、いおりは気づいた。
自分もまた、いつの間にか全裸ということに。
「はあああ? はいいいいいいいい!?」
いおりの頭は今までの人生で最大の混乱を迎えた。
無理もない。
気づいたらわけのわからない部屋にいて、変な男から攻撃されて、実の兄が助けにきてくれたと思ったら、兄も自分も全裸になって向かい合っている。
(いいいいい意味わかんないしいいいいい!)
いおりの動揺など気にするそぶりすらなく、兄はいおりへとまた一歩近づき――そして、いおりの体を強く抱きしめた。
全裸で。
「いおり、一つになるんだ!」
そこでいおりははっと我に返った。
「うるさい、この変態! 目を覚ませッ!」
いおりは右手を握りしめると、思いっきり兄のほほに殴りつけた。
その瞬間――
ガラスが割れるかのように、世界が崩壊した。