青い瞳に恋をした
目が合った。
赤い目だ。夕陽の中でも、一等暗い、濃い、充血したような、赤。
妖魔だ。
「あ、あ、」
悲鳴のなりそこないが口の端から漏れる。
空のランドセルの肩のベルトは、握りしめてもたよりなく。
煮えたぎる目に射すくめられ、ねばつくアスファルトに尻もちをついた。
お伽噺のように思っていた妖魔は、大きくて、黒くて、醜かった。そして、にぃぃぃ、とそのあるのかも怪しい唇を三日月にした。
ぞわ、と肌を這う、妖魔の吐く息。
干からびた指は、目の前に伸び。
死んだ。
ギュッと目をつぶる。
「ギャアアアア!」
空気を引きずる悲鳴は、私のものじゃない。
そっと瞼を持ち上げれば、綺麗な黒いランドセルがあった。夕暮れ時でもはっきりわかる、真っ白な制服。有名な鬼衛軍の制服に似ていた。
もう、妖魔はいない。
「……きみ、無事?」
高い澄んだ声と共に振り向いた男の子は、綺麗な空色の目をしていた。
その瞳に見惚れて、私は曖昧に頷いた。
「そう。……じゃあね」
「あ、あのっ、ありがとう!」
年は、たぶんそんなに変わらないのに。すごく大人っぽい彼は、さっさとどこかへ行ってしまった。
「かっこいいな……」
ぽろりと零れた言葉に、熱くなった頬をパッと押さえた。ああ、私は恋をしたんだ。
吊り橋効果だ、なんて友達にはからかわれるかもしれないけど、決めた。
絶対にあの人を振り向かせてみせる!
「そうと決まれば、勉強しなくちゃ。鬼衛軍ってどうやったらなれるのかな……」
◇
家に着くと、バタバタと靴を脱ぎすて、さっそくパソコンを立ち上げた。
「あった!」
鬼衛大学付属中学校。
妖魔を退治する専門の部隊――鬼衛軍に所属する退魔師は大抵この中学を卒業し、付属高校、大学へと進学し、部隊に配属される、らしい。
制服は今日見たものと同じだった。軍人になれば、肩章という小さなマントが付くようだけど、学生の内はないみたい。
「父さん、母さん、私、鬼衛大学付属中に入る!!」
階段を駆け下り、浮かれた気持ちのままの勢いで、リビングでくつろいでいた両親に宣言した。
「だめだ。退魔師なんて危ないだろう」
ソファに沈み込んだ父さんは、新聞から目を逸らさずに言った。
興味すらないのだ。子供が思い通りになることを疑っていないんだ。
「なんでそんなこと言うの! 父さんは鬼衛軍の何を知っているのよ、ただの会社員じゃない!」
「……あのなあ、会社員だって楽じゃないんだぞ。残業はいっぱいあるし、上司は口うるさいし、ハラハラしながら部下に仕事を任せるんだ。仕事に見合った給料ではないこともある」
「それってどの仕事でも同じでしょ! 母さんも言っていたもん!」
「母さん……」
父さんは恨めし気に台所で夕飯の支度をしている母さんに目をやった。母さんは気まずそうに父さんの目線を逃れ、蛇口をひねった。
母さんも父さんと同じで、私が退魔師になることに反対なんだ。私はすぐに悟った。
「とにかく。父さんは退魔師なんて反対だ。学校でも習っただろう。妖魔は危ないんだ。私たちは守られているんだよ。お前が危険を冒して戦う必要はない」
絶対に頷きたくないという父さんの気持ちが透けていた。認める気がないから調べもしない。目も合わせない。
私の気持ちだけでは父さんの拒否シールドを崩せない。
母さんの視線は父と私を行ったり来たりしていた。それはどちらかと言えば父さんに倣って、私を批難している。
両親が味方ではない。
ぐらぐらと沸騰し始めた涙が決壊する前に、私は叫んだ。
「危ない、危ない、そう言うなら危ないって証拠を見せてよ! そんなの思い込みでしょ! 学校があるんだもん、危険にならないように勉強できるはずだよ! 決めつける父さんも、賛成してくれない母さんも嫌い!」
リビングを飛び出して、自室に飛び戻った。
あふれた涙を乱暴にぬぐって、盛大に鼻をかむ。泣き虫ごとティッシュに吸わせてゴミ箱に捨てた。
「見てろ……! 絶対に認めさせてやる。今まで言うことを聞いていたからって、これからも思い通りになるわけじゃないんだから」
タイムリミットは夕飯に呼ばれるまで。それまでに両親を説得するプレゼンを作らないと。
「桃ー! ご飯よー」
「……はーい」
まだ調べ足りないけど、ご飯が冷めると母さんが怒る。しぶしぶネットを切って、調べた情報を整理しながら敵地・リビングへ向かう。
準備が足りない。
でも、いつも聞き分けの良い子だった私がここまでしぶとく調べるだなんて、父さんは思っていないはず。つけいるスキはそこしかない。
リビングにはカレー独特のスパイシーな香りが漂っていた。しかし、あるのは重い緊張感だ。
私は唇を少し舐めて、父さんの向かいに座った。父さんは渋そうだ。
でも逃がすつもりはない。さっそく用意した説得をしようとしたとき、母さんに出鼻を挫かれた。
「桃。ご飯がまずくなるから、全部食べた後にしてちょうだい。いただきます」
「……いただきます」
家の雰囲気を微妙にしたことへの八つ当たりか、今日のカレーはちょっと辛い。
ぴりぴりした夕食を終えて、父さんを睨みあげる。母さんは父さんに一任するつもりなのか、皿を洗っている。敵が一人減った、と考えていいだろう。
私の人生がかかっている。乾いた唇を少し噛んだ。
「父さん、危ないって反対したよね。ジュンショクリツを調べたけど、たったの1パーセントだよ。しかも付属高校や付属中学の卒業生なら、0.4パーセントだよ。通った方が断然安全だよ! 消防士さんのジュンショクリツも1パーセントだったもん。他の仕事と変わらないじゃない!」
「その百人の一人、千人の四人にお前がならない保証はないんだ。父さんは絶対に認めないからな。可愛い桃が傷つくかもしれないなんて絶対に反対だ」
「なんでよ。なんでその一人に私がなるなんて言うの。私が仕事中に死んじゃうって決めつけるの! 普通に生活していて、事故で死んだり、病気で死んだり、自殺する確率の方がうんと高いじゃない。調べもしないでそんなこと言わないでよ! だいたい、私がかわいいなら夢の一つや二つ、応援してくれたっていいじゃない!!」
「……お前にはもっと、安全で安定した仕事についてほしいんだよ。妖魔を退治する方法を学ぶ必要はないし、学んでほしくない」
父さんは眉を寄せて腕を組み、不動の構えだ。ぐっと息が詰まった。
涙腺が震えそうになるのを必死に抑えて、私は用意していた反論を早口でまくしたてる。
「憲法に書いてあるもん。大人は子供を教育する義務があり、子供は教育を受ける権利があるって! 子どもの権利章典にも、自分の考えを守る権利があるって書いてあったもん! 勉強させてよ!」
「駄目ったら駄目だ!!」
父さんの言い分も、私の言い分も、根本は感情論だ。このままではずーっと平行線を辿ってしまうだろう。それだけは避けないと。どうにかして説得しなければ。
父さんは苛立ってテーブルを強く叩いた。
「妖魔は危ないんだ。人に憑りついて呪い殺したり、興味本位にかき乱す。人間が最高の玩具なんだ。守られた区画から出るなんて、危ないことを進んでしないでくれ。お前は妖魔に遭ったことがないから、退魔師になるなんて言えるんだ」
父さんの話す妖魔の怖さは、道徳の授業で習ったものと全く同じ。やっぱり父さんは妖魔に遭ったことがないのだ。
「今日遭ったもん。鬼衛軍の人に助けてもらったもん! すっごくカッコよかった! 父さんこそ、遭ったことないのに危険だなんて言うんだ」
そういうと、父さんはむっすと押し黙った。私は勝利を確信して、口の端が吊り上がる。
「私、絶対に付属中学に入学するから」
「桃」
ずっと沈黙を守っていた母さんが、こちらを見ていた。
冷え冷えとした目は、父さんより余程、強大な障害であるように思われた。母さんが参戦すると知って、父さんはホッと息をついた。
冷汗が私の背筋を伝う。
「母さんは、こんなに真剣な桃を初めて見たから、応援してもいいかなと思っているのよ。でも」
一旦閉じた母さんの唇から飛び出すだろう次の言葉に、私は身構えた。
「付属の小中学は、鬼衛大学の卒業生の子供しか入学できないわ。だから高校からにしなさい」
「えっ」
私の間抜けな声が響いた。
「それと、編入試験があるみたいだから、そちらも準備しなきゃね。いいわね」
「うん!」
母さんは父さんを気にしていたけど、私は手を握って天を突き上げた。
「ねえ、桃。助けてくれた人の名前はなんていうの? 母さんもお礼がしたいわ」
「わかんない。さっと助けて、さっと帰っちゃったもん」
母さんの質問に、「すごくカッコよかった!」と自慢すると、母さんは目を光らせた。母さんも人の恋愛をほじくるのが好きみたいだ。
父さんは絶望したようにシクシクと嘘泣きを始める。ウザいので無視した。
「興奮するほどカッコイイの? どんな子?」
「えっとね、青い目の男の子でね! すっごく綺麗な青い目で……、青い、目、で……」
自信満々に胸を張って、命の恩人のカッコよさを母さんに伝えようと口を開き、呆然とする。
空色の瞳以外の特徴を、私はまったく覚えていなかった。
「まあ、桃。それだけしか覚えてないの?」
「いや、絶対カッコよかった! 美少年だった!」
言い切ったはものの。呆れたような母さんの眼差しに耐えきれず、私は頭を抱えた。
私の恋路、前途多難だ!




