神は腐男子で兄でした!
「ちょっと神に会ってくるね!」
夏コミ一日目。
友人のスペースの準備を終えると、鈴村ゆうなは、必死でノベルティの袋詰めをしている阿藤凪へと声を掛ける。
「開場まで時間あるし、ゆっくりしてきていいよぉ。あ、途中で推しサークルに寄って新刊お願いしてもいい?」
「もちろん! でもそんなに時間貰ってもいいの?」
「うん。お遣いで多分ギリギリになると思うんだ」
そう言って凪が渡してくれたメモには、元の地色だった白が塗りつぶされる程の文字が羅列していて、ゆうなはちょっとドン引きしてしまう。
「え……こんなに……あるの?」
おそるおそる尋ねてみれば、
「だって! あのドラマの二次がいっぱい出ちゃってるんだもん! これは何が何でもゲトしなきゃじゃない!?」
凪は右手を力いっぱい握り締め、主張を叫ぶ。
「まあ、あのドラマは腐女子的に美味しかったけどさぁ」
「でしょ!? だからゆうなお願いね!」
最初からお遣いに行かせる気満々だったのか、凪は会計用とは別に分けておいた茶封筒をゆうなに握らせると、にーっこりと笑ったのだった。
ゆうなは失敗したかもと内心でぼやきつつも、虚ろな目をしてスペースを出たのだった。
夏と冬に開催される大型同人即売会は、どこからこんなにも人が集まったのだろうと思うほど、通路は人で溢れていた。
今はまだ大手の壁サークルもシャッターをおろしているのもあって、幾分冷房も効いてはいるけど、一般入場が始まれば今以上に人が犇めき、下手をすれば噂のコミケ雲も拝めるかも知れない程、熱気に包まれるのだ。
まずはと、ゆうなは傍にあった自動販売機で清涼飲料水を購入し一口喉を潤すと、凪の頼まれ物を先に済まそうと、気合を入れてとある一角へと足を踏み入れた。
「あー、うー、肩がいたいー」
一冊一冊は軽く、世間では薄い本と言われるソレも、塵も積もればなんとやらで、肩から掛けていたトートバッグの持ち手が食い込むまでとなる。ここまで来ると、苦行とも言える。
想像以上の重さになったバッグを抱え直し、一度スペースに戻ろうか迷ったものの、目的の方が距離も近く、もう少し頑張れ自分、と叱咤しては迷いを振り切った。
これからゆうなが向かうサークルは、本当に偶然の出会いだった。
ゆうなは母ひとり子一人だったせいで、昔からマンガやアニメが好きだったが、それは一般的な嗜好の範囲内だった。そんな彼女がいわゆるヲタクの世界に足を踏み入れたのは、今日サークル参加をしている凪の手練手管によるものだ。
中学入学してすぐ凪が落書きしていたイラストは、当時ゆうなが好きだったアニメのヒロインで、無意識に声をかけたことから交流が深まっていったのだった。
そんなこんなで、気づけば有名投稿サイトを巡るようになり、ある日ゆうなはアップされていた漫画──というより、投稿主の作品の虜となったのである。
その人の名前は『コダマ』といい、二次創作だけでなくオリジナルでも定評のある作家さんなのだ。
魅力はなんといっても、心理描写である。コダマの書く物語は、二次だろうがオリジナルだろうが、プラトニックな内容にも拘らず、スっと心に入っていくのである。
ある意味堕ちたとも言える。
普段は小説等の文字ばかりだと、すぐに寝てしまうゆうなだったが、コダマの作品はどれだけ読んでも世界に浸れるだけで、眠気といった本能すら吹っ飛んでしまうくらい魅力があったのだ。
どんな人が書いているのだろう。
作品から次第に人へと興味を移行したゆうなは、某SNSでコダマのアカウントを見つけてすぐさまフォローをし、新作の知らせを楽しみにするようになった。
実のところ、ゆうなはコダマが男性なのか女性なのかも知らない。
コダマのツイートには日常の光景はひとつもなく、ネットにアップした新作情報や、イベントに参加するといった簡素なものばかりだった。
その為コダマの人となりは分からずじまいである。
そんな正体不明の神にようやく会えるのだ。肩に食い込む本の重さなんて苦でもない。
ゆうなの足取りはだんだんと軽くなり、周囲の人は「あの量の本を持ってスキップとか変人なんじゃあ」と奇異の視線を向けられても気にならない程だった。
だが、目的のサークル『TrueTree』に近づくにつれ、ゆうなの鼓動は飛び出そうな位緊張に包まれる。
(あー! あとちょっとでコダマさんに会えるとか! 緊張で足まで震えてきた……!)
人気サークルに比べれば、人はそんなにいないものの、一定のファンがいるのだろう。スペースを壁のように立つ数人の女性のせいでサークルの人の姿が確認できない。
緊張もあって人壁に声を掛けづらいゆうなは、念力で「早くどいてください~」と願っていると、まさか通じたのか、さほど間を置くことなく塞がれていた壁が自然と解けていった。
やっと近づけると意気込んでみたものの、緊張でスペースに座る人へと視線を上げることができない。
ゆうなは机に並ぶ綺麗に配置された本を新刊を含め幾つか手に取ると、
「こちらお願いします!」
売り子の人へ叫んでいた。
「は、はい」
正直、スマートなやり取りでないと分かってはいたが、頭はパニック状態でそれどころではない。その証拠に戸惑う売り子の声すらも届いていなかったのだから。
しどろもどろでバッグの中から財布を出そうとしたところで、重量に負けたバッグが肩から滑り落ち、親友の戦利品が顔を出す。
「わっ、わわわっ!」
情けないやら恥ずかしいやらで、涙目になりながらゆうなは本をバッグに入れていると、「はい」と差し出された本を持つ男性特有の節ばった手が視界に入る。
それは肌色過多な腐女子垂涎のサークルの本で、ゆうなは相手が男性と気づくや慌てて本を受け取る為に手を伸ばしたが、なぜか男性の手は本をぎゅっと掴んだまま離れる様子がない。
「あ……あの……?」
離して欲しいのですが、と声をあげようと顔をそちらに向けたゆうなは瞠目する。
そして同じように男性もゆうなに視線をひたりと固定し、口も目も最大限に開いたまま凍りつく。
(ま じ か)
先日顔合わせで初対面した時は、緩やかに前髪を撫で付け、小ざっぱりとしたスーツ姿で、最近最終回を迎えた腐女子垂涎のドラマに出てきそうな、爽やかイケメンだった。
それなのに、今日のいでたちは洗いざらしの長い前髪に黒縁眼鏡、白のTシャツには『焼肉定食』というどこで買ったのソレ、な文字がプリントされてて、青系のチェックシャツを腰に巻き、ベージュのチノパン姿な男性を、よくもまあ義理の兄って気づいちゃったよ私。
えーと、こういう場合はどうすればいいんだ?
「樹……さん?」
「ゆうな……さん?」
それは先日再婚した母の相手──義理の父の連れ子だった牧田樹その人だったのだから……。
(な、な、な、な、なんでええええええええ!?)
「えっと、ゆうなさん落ち着いた?」
「はあ、まあ……」
放心状態になりながらも、一通りの買い物を終え、凪のいるスペースへと樹を伴って帰れば──凪の戦利品を入れたバッグの紐がちぎれたのを持ってくれた。紳士かよ──興味津々な凪をよそに、後ほど話をしようと言って携帯番号を交換したゆうなは、凪にどう説明するか悩む内に一般入場の時間となる。
その後は考える隙もなく次から次へとやってくる参加者へと対応していた為、次第に落ち着きを取り戻す事ができた。対応に大わらわなおかげで、凪も追求してこなかったもの要因ではあるが。
参加者様さまである。
そして後日詳しい話をすると約束をして、閉場の一時間前に凪の元を辞してから向かったのは、昼すぎに樹が送ってきたショートメールに書かれていた神対応と噂のカフェの前だった。
樹は慣れた様子で店員とやり取りをし、流れるようにゆうなの分と一緒に飲み物を注文すると、案内されたテーブルへと腰を落ち着け、勧められたジュースを一口飲んだところで、先ほどの質問となったのだった。
(まさかあんなところで、義理とはいえ兄になった人とエンカウントなんて……)
しかも、友人のものとはいえ、肌色成分過剰な本を見られてしまった。
穴があったら入りたいとはこのことである。
更なる墓穴として、目的の本は色んな出来事のせいで入手できなかったゆうなは、それはもうリアルで頭を抱えたのだった。
嘆く声をあげなかっただけでも、ひとかけらの常識を持ったゆうなの前に、三冊の本が置かれる。
「え、あの……これは……」
ゆうなが戸惑うのも無理はない。それは樹と出会う直前に買おうと売り子に渡した筈のコダマの本だったのだから。
「ゆうなさん、これを買おうとしてたんだよね? あと、これも一緒に渡しておくね」
そう樹が言って差し出したのは、コダマが新規で描いたデフォルメキャラが印刷されたポストカードと、小さな紙片。
そこにはサークル名と、カタカナでコダマの文字が並んでいた。
「僕の本のお買い上げ、ありがとう。ゆうなさん」
そう樹の営業スマイルの声は、真っ白に燃え尽きたゆうなの耳には届いていなかった。




