竜の嫁取り ~唄紡ぎの渡り巫女~
ヒュウン、と風を切る音が聞こえそうな速さで、高い空の上を鳥が飛んでゆく。
強い日差しに目を焼かれないように、手を翳して影を作りながら見上げた夏空は、映し込んだ瞳をそのまま染められてしまいそうな程の鮮烈な青さだ。
「いーい天気だなぁ」
(次の街まで、このまま晴れてくれると助かる)
そう願いつつ、あと二口、三口程度だった粽の残りをパクパクと食べきってしまうと、水筒に入れておいた茶で喉を潤した。大麦の香ばしさが鼻を抜けて、はふ、と満足げな息が自然と零れる。
干し茸の出汁と鳥の脂が染み込んだもちもちとした米の旨味と、ごろんと入っていた栗のほっくり優しい甘みを名残惜しく思いながら後始末を終え、うーん、と両腕を空に突き上げるようにして背伸びをした。
このままもう少し寛いでいたいけれど、そろそろ出発しなければ時間が厳しくなってしまうだろう。大分日が伸びてきたとはいえ、辿り着く前に街の外門から締め出されてはかなわない。たとえ安宿の薄っぺらい布団でも、ちゃんと屋根の下で休める寝床の方が野宿より何倍もマシだ。
草の上に敷いていた布を軽く叩き、行李の上に括り付けて固定する。その肩紐に腕を通す前に、すぐ横にある崩れかけた小さな祠に向き直った。
「――恙なき旅の行先に、精霊様の導きと御加護があらんことを」
旅人には馴染みの決まり文句だが、祈る気持ちはしっかりと込める。清めの歌を口ずさみながら泥を払って磨いた甲斐があったように、膝程の高さの白い祠は日の光を浴びてキラリと小さな輝きを煌めかせた。
辛うじて残っていた柱に魔除けの形で結び付けておいた、朱色に染めた糸で編んだ組紐を一撫でして、今度こそ行李をよいせっと背負う。護身用でもある、立てれば肩にまで届く長さの杖を手にし、草原の間を伸びる細い道へ足を踏み出した。
どうやら、私は別の世界に転生したらしい。
そう悟ったのは、まだ片手で数えられる程度の年の頃だった。
いわゆる前世と呼ぶのであろう記憶を思い出した切欠は、命の危機に瀕したからである。
といっても、出血多量の重傷を負ったとか、昏睡状態になる程の難病に罹ったとかではなく……丸三日間ご飯を食べていなくて、物凄く空腹だったからだ。
何とも情けない理由ではあるが、しかし当時の私には決して笑い事では無かった。実際、餓死にはまだ至らなくても、相当深刻な域まで脱水症状が進んでいたのは間違いない。
余りにも辛くて、苦しくて、でも何も出来なくて。力無く床に転がったままボンヤリと天井を眺めていた。
(おなか、すいたなぁ……なにか食べたいよぅ……ふんわりのたまごやき、つやつやのお豆のごはん……チーズと半熟の目玉焼きを乗せたデミグラスソースふつふつの煮込みハンバーグ、ほろっほろのお肉とバター風味のスパイシーな香りが堪らないチキンカレー、舌の上でとろける鮪に穴子に真鯛のお寿司…………ん?)
そこまで考えて、今まで自分が見た事も聞いた事も無い筈の“知らない記憶”を思い返している事に、はたと気付いた。
と同時に、生まれて数年足らずでしかない幼児の頼りなげな自我は、抵抗する術も無いようにあれよあれよと呑み込まれてしまい――かつて『地球』という星の『日本』という島国で生きていた“私”へと塗り替えられてしまったのである。
(あ、このままだと死ぬわコレ)
驚愕や混乱よりも先に、まずそう思った。もしかすると、幼い小さな身に掛かる負担が生存本能で記憶を蘇らせたのかもしれない。
此処は何処? 私は誰? そんな事を検討する暇があるなら、死にかけている現状を一刻も早くどうにかするべきだと、考える前に体が行動を起こしていた。
痺れが出始めていた手足を必死に動かし、立ち上がれないならと四つん這いで部屋の入口を目指す。不幸中の幸いで、扉はノブで開け閉めする仕様ではなく引き戸だった。どうにか僅かな隙間を空け、腕から肩まで捻じ込むようにして更に広げて上半身を通す。べしゃっ、と体を支えきれず崩れ落ちては這いつくばって廊下を進み、漸く玄関らしき場所が見えた時には、乾ききった目に涙が滲んだ気さえした。
段差を下りるつもりが殆ど転がり落ちて衝撃に呻きつつ、此方も引き戸で施錠もされていなかった事に感謝を捧げながら、先程と同じく身を捩って戸の隙間を潜り抜ける。途端に、とっぷりと暮れた夜の気配に包み込まれた。
湿り気を帯びた土の匂い。ふわりと漂う花の甘やかな香り。肌をそっと擽る薄寒い風。そんな外の空気を、全身が驚いたように新鮮だと感じ取っていく。
(……まさか、今まで部屋から出た事が無い?)
だが、記憶が混ざり合ったばかりで曖昧な己の境遇に不審を抱くより、とにかく渇きと飢えを解決する方が最優先だ。匍匐前進のように体を運べば、袖や裾がずり上がってしまい腕と膝が鋭い痛みを訴えてくる。滑らかに磨き上げられた板張りの廊下と違い、今は玄関へと続く飛び石とその間を埋める砂利の上を進んでいるのだから、当然と言えば当然だ。
しかし、その砂利の一粒一粒まで明確に見える事に、ふと今更ながら気付く。夜なのに随分明るいな、と思わず首を上へ傾けて――そのままピシリと硬直した。
濃紺の天鵞絨を隙間無く敷き詰めたような夜天には、大小二つの月が並んでいた。
何度も瞬きを繰り返し、目を擦ってみても、真珠色と薄紅色の月は仲良く寄り添ったままだ。
此処は何処なのか、と一度放り投げた疑問が、勢いよく跳ね返ってきたかの如く脳をぐわんぐわんと揺さぶり…………ふつり、と糸が切れるように視界が暗闇に閉ざされた。
――そうして、なけなしの気力も使い果たした体がついに限界を迎え、大の字に伏して意識を飛ばしていた所を、別の離れで祖母の世話係をしていた御側付きが帰りがけに偶然見付けてくれたのが、この二度目の人生の分岐点となった。
「あれから、もう十三年か」
五歳で死にかけて祖母に保護され、彼女が亡くなるまでの七年間を共に過ごし、最期まで見取った後は何の未練も無く家を出て、早六年の月日が経った。
祖母と御側付きが密かに用意してくれていた路銀。手に馴染んだ仕事道具。形見だと譲られた、守護と隠匿の呪紋が施された外套。
それだけしか持たずに外の世界へと飛び込んだけれど、思い出した前世で生業にしていた刺繍の腕前と、祖母から習い受け継いだ呪歌のお陰で、何とか食いはぐれずに気儘な旅を続けられている。
――藍花、貴女は良い呪紋士になれますね
自身と同じ、陽に透ければ銀にも見える錫色の髪を優しい手付きで撫でながら、暇さえあれば針を動かしている私を、そう褒めてくれた。
深みを帯びた濃い青色の瞳から、名を与えてくれたのも祖母だった。
この月が二つある世界では、人は多かれ少なかれ『呪力』というものを持って生まれるらしい。
字だけ見ると恐ろしげだが、これには風呪・炎呪・水呪・緑呪・光呪・闇呪と六つの属性があり、それに応じて竜巻のように風を操ったり燃え盛る炎を生み出したりと、様々な現象を引き起こせる事を実演付きで教わり、ますます此処が地球ではないのだと思い知らされた。
……で、私にはこの属性が全て備わっていたそうで盛大に持て囃され、しかし呪力自体は分家にすら劣るような残念すぎる量しかなかったため即座に見放されたらしい。
まぁ、祖母以外の肉親からは基本的に存在を無視するように放置され、極稀に顔を合わせれば「出来損ない」「一族の恥」と蔑まれる家など、此方からお断り願いたいので全く構わなかったが。
正直、四十そこそこまで生きてそれなりに人生の荒波に揉まれていた記憶が無かったら、早々にグレるか鬱になっていたと思う。
「いやー、何の柵も無い人生ばんざ、うわっぷ!?」
暢気な声が間抜けに途切れてしまったのは、強風が突然吹き付けてきたからだ。外套が捲れ上がる程の勢いに、思わずギュッと目を瞑る――が、それはあくまで、ほんの数秒足らずだった筈である。
だというのに、目の前には、一人の男が立っていた。
緩く一つ結びにした艶やかな黒髪と、夕暮れの茜色を思わせる切れ長の瞳。すれ違えば誰もが振り返りそうな整った容貌は、けれど優男と称するには些か野性味が強すぎる。
紫紺の縁模様で飾られた藤色の布を、肩から流して腰帯へと巻き付け、その帯にも幅広の裾から覗く手首にも、燻したように鈍く輝く金細工が幾つもぶら下がっていた。
――などとマジマジ観察してしまったのは、現実逃避半分、白昼夢か幻覚を疑う気持ち半分だ。
何せ、草原の中をひたすら真っ直ぐに伸びる道は一切の遮蔽物も無く、遥か先まで見渡せる。両脇に広がる草の丈も精々ふくらはぎ位までで、成人男性が身を隠すには厳しいだろう。
忽然と現れた、としか言い様がない不可解さに杖を構えるのも忘れて呆けていると、先に向こうが動きを見せた。
「お前が、渡り巫女か」
睨みつけるような鋭い眼差しで、お腹の底に響くような低い声で、そんな言葉を投げかけられた。
だが、此方としてはキョトンと目を瞬かせる事しか出来ない。
(だって、ねぇ)
この緊迫した空気を台無しにしてしまうのは間違いないけれど、しかし生憎と私から返せる答えは一つしか見付からず、故にその一言を口にする。
「…………どちら様です?」
ワタリミコ、とやらも。貴方も。
二重の意味でそう訊ね返しながら、私は首を傾げたのだった。




